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七杯目

 葵は退院してから部屋を引き払い、こっちに戻ってきたと母から聞いていた。

 実家に帰らなくなったのはその頃からだ。鉢合わせするのが嫌で、仕事が忙しいと言い訳をし、毎週末の帰省は月一に減り、やがてそれもなくなった。仮装に沸き立つ街中や、イルミネーションの輝く駅前を一人寂しく歩いているのは俺だけだったし、消灯後に聞く除夜の鐘は、重く冷たく腹に響いた。

 古めかしい木彫りの表札が掲げられた門扉を抜ける。自然の面影を残したままのごつごつとした敷石の先に、二階建ての木造建築が堂々とした面構えで建っていた。大きな屋根に覆われた縁側の軒下で、洗濯物がはためいている。

 元は父方のおじいさんの持ち家だったけれど、灰谷のおじさんが出ていった後に、おばさんが多額の慰謝料と共に貰い受けたらしい。バカ息子が迷惑をかけたお詫びに、とかなんとか言っているのを聞いた覚えがある。

 敷石の上を進むと、玄関脇に雑草で埋めつくされた花壇があった。

 この花壇が花壇然としていたのはいつだったか。おじさんがいた頃には、色とりどりのパンジーが並んでいたような、と薄れた記憶を辿りながら、玄関の前に立った。

 幹の表面のようなざらざらとした質感のドアは、黒い取っ手が付けられただけの簡素な造りになっている。インターホンに手を伸ばす。

 もうすぐ葵に会えると思うと、急に緊張してきた。まるで全身が心臓になったかのように、爪の先まで小刻みに震えている。

 息を吸う。吐く。もう一度吸う。深く吐き、インターホンを押した直後のことだった。顔の真横で、ドアが開いた。

 あまりにもすぐだったので、のどがヒュウッと変な音を立てる。

 肩に触れるくらい伸びた黒髪。秋空の色をしたジーンズ素材のワンピースを着たその主は、ドアからおそるおそる顔を出した。

 視線がぶつかる。

 葵だ。瞳が落ちてしまいそうなほど目を見開き、まっすぐ俺を見つめてくる。十ヶ月前より痩せて、丸みのあった輪郭はややほっそりとしていた。

 互いに言葉もなく、しばらく見つめ合っていたけれど、均衡を崩したのは葵だった。

 彼女の目の縁にきらきらとしたものが滲んでくる。眉毛が崩れ、瞳が涙に溶けていき、波のように揺れる唇が、綺麗な弧を描いた瞬間。


「葵」


 彼女の肩にかけたコートごと、体を抱き寄せていた。サンダル履きの足をつんのめらせ、セーターの胸にしがみついてくる。

 腹がじんわりと温かい。背中に、髪に触れた手が、葵の温度で満たされていく。生きている。ずっと確かめたかったぬくもりが、今、腕の中にある。

 花柄のマットや向こうの階段がぼやけていくのを感じながら、葵を強く抱きしめた。

 パタンと背後でドアが閉まった。わずかに薄暗くなる玄関。静寂が耳を貫く。世界から取り残されて、まるで二人きりになったみたいだ。

 葵はしばらく固まっていたけれど、嫌がるそぶりは見せなかった。

 やがて、おずおずと背中に手を這わせてきた。彼女の腕に、手に、指に、流れるように力が入っていく。

 もどかしい。触れられたところから順に溶けていって、コーヒーと砂糖のように、このまま一つになってしまえばいいのに。


「離れたくない……」


 開けた視界の先に、長く忘れていた塊が落ちていく。葵の足元に二つ、染みができる。

 涙を堪えるのに失敗すると、もう歯止めがきかなかった。それは降り始めた雨のように数を増やし、歪な形になり、あっという間にごちゃ混ぜになった。


「葵、好きだよ」


 一世一代の告白は、情けないほど震えていた。

 ゆるゆると葵の腕から力が抜けていく。小さな両手が頬を包む。視界が葵でいっぱいになる。葵が困ったように眉根を下げると、涙が頬の上に散らばった。

 ほのかに熱を持つ手のひらとは裏腹に、目元を拭う指先はひんやりと冷たい。

 葵の目線が正面に来る。背伸びをしたのだとわかった。

 首に腕を絡め、抱きついてくる。閉じた瞼から涙が一筋、二筋と伝い落ちていくのが見えた一瞬のちには、唇が柔らかなものに埋もれていた。

 それはすぐに離れた。


「私もだよ、たっちゃん。ずっとずうっと昔から、たっちゃんが好き」


 濡れた頬を赤らめ、葵が微笑んだ。

 瞳にうっすらと張られた膜が揺れる。まばたきをするたびに剥がれ落ち、またせり上がるそれを呆然と眺めているうちに、はっとした。

 自分のものとは違う、塩辛い液体が唇の内側を濡らしている。

 祭り太鼓のように鼓動が脈打った。ドクン、ドクン、ドンドン。耳の中にはその音だけが充満していた。まるで心臓が鼓膜まで膨れ上がったみたいだ。

 葵の頬に触れる。葵は恍惚とした表情を浮かべ、俺の手に頬擦りをした。


「あったかい……」


 涙でテカる唇の奥から、微かに舌が覗く。俺は吸い込まれるように頭を落としていた。そっと触れるだけのキスをする。

 唇を離すと、葵は身をよじり耳まで沸騰させていた。夕日に透けるような肌のせいで、赤さがいっそう引き立っている。

 葵は「たっちゃん」と舌足らずな声を出し、目を伏せた。うなじをぴしゃりと叩かれる。自分から仕掛けてきたくせに照れている葵がおかしくて、思わず笑いが漏れた。

 愛おしい。もっと早くこうしていればよかった。

 葵の涙を拭い、もう一度唇をついばむ。小さな小さなコーヒーカップの水面に、憑き物の落ちたみたいな顔が映っていた。

 もう二度と葵から目を背けたくない。




 二階の葵の部屋に上がり、彼女に導かれるままベッドに腰を下ろした。六畳一間の床に、毛足の長い白の絨毯が敷かれている。


「あ、暑いね」


 葵のうわずった声が頭上で聞こえた。


「ああ、うん、ああ、そうだね」


 壊れた音楽プレイヤーのような相槌を打ち、切り株型のテーブルに置かれたコップに手を伸ばす。背後でカラコロ、カラコロと小気味よい音を立てて窓が開いた。

 網戸越しの風が襟足を掻き分け、頭を冷やしていく。コップの水を一気に空け、小さくため息をついた。


「適当にくつろいでて」


 そう言うと、葵は背中を向け、大きく乱れた布団をたたみ始めた。どうやら、朝起きたままになっていたらしい。

 思春期を迎えてからは気恥ずかしくて、一度も部屋に上がったことはなかった。けれど、記憶の中の風景と特に変わらない。

 春物のジャンパーやパーカーがかかったハンガーに、ワンピースやらジーパンやらがひとまとめにされている。

 ところどころ表面が剥げて年季の入った勉強机には、教科書や参考書の代わりに辞書や小難しそうな実用書が並んでいた。どれも買い揃えたばかりのように真新しい。手に入れて満足する性分か、と新たな一面を知ったようで嬉しくなる。

 増えたのは、向かいの壁に固定されたコルクボードくらいだ。無造作に写真が留められている。近付いてみる。


「うわ。懐かしいな、これ」


 そのうちの何枚かは、大学に通っている頃に撮ったものだろうか。見慣れない顔も写っているけれど、大半は俺や葵、樹、両親、おばさんだった。

 網代(あじろ)家と灰谷家合同のバーベキュー。庭に広げた子ども用のプールではしゃぐ俺たち。シャッターを切る直前に飛び込んできた樹の後ろに、お情け程度に覗く紅葉。自分たちの背丈と変わらない大きさの雪だるま。

 数ある思い出の中でも、一枚の写真に目が留まった。

 病院のベッドで横になるおばさんと赤ちゃんの葵を大人たちが囲んでいて、俺は父に抱えられている。四日先に生まれた俺が退院する当日の写真だと聞いたことがある。ベッドの傍らに、妻と娘を見つめて笑うおじさんの姿があった。一点の曇りもない笑顔だった。

 幸せだったはずの家族を壊したものは、一体なんだったのか。おばさんはその話題になると口を閉ざしたし、葵も樹も知らされていないようだった。

 背後が静かなのでなんとなく気まずい。他の写真を指さし、聞いてみる。


「葵。これ、いつ撮ったの?」


 幼稚園生の頃だろうか。生クリームのヒゲを生やし、独り占めするように皿の前に腕を置き、誕生日ケーキを掻き込む俺が写っていた。

 返事がない。振り返る。葵は抱えた膝に突っ伏していた。


「葵?」

「え?」


 呼びかけに、葵が顔を上げた。起き抜けのように間の抜けた表情をしていた。


「ごめん。聞いてなかった」

「いや、大したことじゃないんだけど……」


 葵は足をベッドの上に投げ出し、壁に寄りかかった。隣に座る。


「どうした? 葵。何かあった?」


 まるでうたた寝でもしているかのように再び首を落とし、うつむく彼女のうなじを見つめる。


「ううん、何もないよ。ちょっと考えごとをしてただけで……」


 言葉尻を濁らせる。けれど、迷いを見せたのは一瞬だった。

 ぶんぶんと激しく頭を振り、弾かれたように俺を見上げた。その瞳には、力強い色が滲んでいる。


「たっちゃんにだけは話しておきたいことがあるの」

「なに? 聞かせて」


 葵が俺の指に指を絡めてくる。骨張ったその隙間を、柔らかな感触がなぞっていく。温度が混ざる。

 子どもの頃は大差がなかったのに、いつの間に小さくなったのか。指の股から伸びた影だけが手の甲に触れていた。

 末広がりのワンピースに、恋人繋ぎの手が埋もれる。それに視線を落とし、葵は続けた。


「子どもの頃ね、私は絵本に出てくるような悪い魔女になっちゃったの」


 唐突になんだろうと思いながら聞き返す。


「魔女?」

「うん。真っ黒な服の袖や裾がぼろぼろで、帽子と靴の先っぽがナイフみたいに尖ってて」


 風がレースのカーテンと共に後頭部を撫でていく。

 「鼻がこーんなに長くて、すっごく醜い顔をしてるの」と空いた左手を鼻の先に伸ばす。行き先を失った手が、宙を掻いてすとんとシーツの上に落ちた。


「父の日にプレゼントを渡したら、次の日にあの人は家を出ていったから。私は使っちゃいけない魔法を使ったの。プレゼントに、大好きだよ、なんて書いちゃダメだったんだ」


 空気を飲んだ。そんなふうに考えていたとは知らなかった。当時も葵は、悩みがあるそぶりなど見せず、いつだって明るく振る舞っていたから。落ち込んでいたのは、おじさんがいなくなった日だけだった。

 葵の顔を覗き込むと、彼女は目線に気付いて薄く笑った。


「今でも魔法を信じてると思っちゃった?」


 冗談めかして言い、ぺろりと舌を出す。葵の視線が滑り、写真のほうを向いた。


「子どもの気持ち一つじゃどうにもできない理由って、なんだろうね」


 そうぼそりと呟いた。若いままのおじさんに問いかけているようだった。

 ふと思った。もしも俺が年上だったら。そうすれば、まだ五歳だった葵に気の利いたセリフの一つや二つ、簡単に言えたのに。葵はお利口な魔女だし、“大好き”は相手を幸せにする魔法だよ、と。

 じゃあ、私のせいじゃないんだね、と口では納得したのに、いまいち腑に落ちない顔をしている幼い葵を、頭の中で持て余す。思えば昔から、葵はものわかりのいい性格だった。姉としてしっかりしなくてはという気概は、その頃からあったのだろう。

 俺がここにいることを確かめるように、葵が手を握り直す。胸の奥が甘く痺れた。


「高校のときも、その後も。灰谷の好きは嘘っぽい、オレばっかり好きみたいだとか、他に好きな人ができたからってフラれたの」


 そう言う唇が震えていた。

 葵はくるぶし丈の靴下のつま先を重ね、宙を踏み抜いた。親指と親指が不安そうに擦り寄っている。


「私、怖かった。たっちゃんもいなくなっちゃうんじゃないかって。だったら、この気持ちは胸にしまっておこうって」


 痛いくらいに手を握りしめられる。葵の指先からは、血の気配が消えていた。

 俺はいなくならないよ、と言いかけた言葉を飲み込んだ。あの日、気後れした俺に、それを言う資格などないと思った。ただ引き留めただけで、知らない世界の入り口に置き去りにしてしまった俺には。

 右手で葵の頬に触れ、そのまま引き寄せた。肩に頭を預け、見上げてくる。飴細工のように繊細な前髪がさらさらと流れていく。


「もう二度とどこにも行かないよ」


 葵が目を見開いた。手の力が緩む。ともすればどこかに消えてしまいそうで、今度は俺が手を握り直した。


「だから、今日みたいにまたこういう顔も見せてほしい」


 葵の頬を親指で撫でる。


「泣きたいときには泣いて。怒りたいときには怒って。不安だ、怖い、俺に話したいって思ったら教えて。大人だからとか、お姉ちゃんだからとか、心配かけたくないからって理由で我慢しないでほしい」


 一息に言う。ふいに、閃光が走るように蘇った。色白の顔を文字通りさらに白くして、瀕死の状態になっていた葵の姿が。

 とうに止まったはずのものが胸を突き上げてくる。

 葵はただ黙って聞いていた。唇が緩やかな弧を描いている。


「それで全部吐き出したら笑ってほしい。俺、葵の笑顔がめちゃくちゃ好きなんだよ」


 葵が手を伸ばしてくる。俺の真似をして頬をなぞった親指が、目の縁を滑った。


「ううん、俺だけじゃない。樹もおばさんも、うちの両親だって皆そう思ってる。それだけは覚えておいて」

「わかったよ、たっちゃん」


 葵は小さくうなずいた。「でもさ」と呟き、頬に手を添える。


「たっちゃんだって同じなんだからね。君の泣き顔を見られてよかった」


 そう言うと、ゆるゆると口角を上げ破顔した。まぶしそうに細められた瞼から、潤んだ瞳が覗いている。夕日を溶かしたそれは、赤茶色に染まっていた。

 視界の端で街灯がぽつぽつと灯り始める。窓の外に目をやれば、燃え盛るような橙色と夜の群青色とが不規則に混ざり合って、幻想的な風景を映し出していた。

 許されないことをした。後悔もたくさんした。こうして大事な人の隣にいる資格が、俺にあるかはわからない。

 葵のほうへ向き直る。葵は首を傾げ、「ん?」とまた微笑んだ。

 せめて、この手を離さないでいよう。葵がいてほしいと思うときに、ちゃんとそばにいられるように。


最終話まで読んでくださりありがとうございました。励みになりますので、感想を教えていただけると嬉しいです。

執筆しているうちに樹とマスターが主役の話を書きたくなったので、そのうちこちらにも載せられたらなと思います。

併せて、活動報告も掲載しています。作者名をタップした後に遷移するページ下部よりご覧ください。

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