開かれた世界
男の年齢は30歳。名前は佐藤。
独身。家族はいない。
大学2年の夏、両親が乗った軽自動車が大型トラックに巻き込まれ、すべてを失った。残されたのは、大学を中退せざるを得なかったという現実と、今も毎月口座から引かれ続ける奨学金という名の借金だけ。
それ以来、彼はスマホの画面に表示されるアルゴリズムに従い、冷めかけた弁当やタピオカを自転車で運ぶだけの「交換可能な歯車」として生きてきた。
築45年の木造アパート。湿った畳の匂いが漂う、4畳半の部屋。
佐藤は万年床に寝転び、スマホで意味のないショート動画をスクロールしていた。画面の向こうでは、きらびやかなインフルエンサーや、くだらないドッキリ動画が15秒ごとに消費されていく。それは彼にとって、現実の絶望を麻痺させるための唯一の麻薬だった。
――ブツン。
突然、画面が暗転し、部屋を照らしていた安物のLEDシーリングライトが消えた。
耳が痛くなるような静寂が、狭い部屋を満たす。
「……やべ、今月の電気代、払ってなかったっけ」
心臓が嫌な音を立てる。スマホのバッテリー残量は12%。冷や汗が背中を伝う。またあの、督促状と無機質なオペレーターとのやり取りが始まるのか。社会の底に沈んでいることを、改めて突きつけられたような惨めさが胸を焼く。
そのときだった。
遮光カーテンの隙間から、見たこともない「銀色の光」が漏れ込んできた。
ベランダが、まるで真昼のように明るくなっていく。
「あ……?」
起き上がろうとした瞬間、鼓膜を直接引き裂くような高音の風切り音と、すべてを圧殺するような爆音が世界を包んだ。
衝撃波がガラス窓を粉々に粉砕し、佐藤の身体は万年床ごと部屋の隅へと吹き飛ばされる。
強烈な閃光が視界を真っ白に染め上げ、彼の意識は唐突に途切れた。
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どれほどの時間が経っただろうか。
喉を焼くような煙の臭いで、佐藤は目を覚ました。
「ごほっ、ごほっ……!」
激しく咳き込みながら上体を起こす。頭が割れるように痛む。
視界に飛び込んできたのは、赤黒い炎に包まれた自分の部屋だった。吹き飛んだ窓の外からは、夜の闇を引き裂くようなサイレンの音、子どもの悲痛な泣き声、そしてパニックに陥った住人たちの怒鳴り声が混じり合って響いてくる。
呆然と立ち上がろうとした佐藤の足元で、何かが怪しくまたたいた。
台風が暴れまわった後のような、雑然とした部屋。
焼け焦げた畳の上に、輝く水晶のような破片がぽつんと落ちている。
大きさは握り拳ほど。色は紫と言えないこともない青。
内側から自転するように決勝の中で光の粒がゆっくりと蠢いていた。
暗闇に落ちた部屋のなかで、それだけが美しい輝きを放っている。佐藤は吸い寄せられるように右手を伸ばし、その破片に触れた。
――凍りつくような、凄まじい冷気。
頭の芯まで強制的に覚醒させるような冷たさに、佐藤はハッと我に返った。
全身の毛穴が逆立ち、本能が「ここにいては死ぬ」と告げている。彼は無意識にその冷たい破片をパーカーのポケットに突っ込み、炎の上がる部屋から飛び出した。
街路に面したアパートの通路に出ると、世界は一変していた。
「おい! 火事だぞ!」「逃げろ!」
住民たちがパジャマ姿で階段を駆け下りていく。押し寄せる熱風と、焦げたゴムの臭い。手すりに手をかけ、佐藤は街を見下ろした。
いつも見慣れた東京の郊外、住宅街のあちこちから、巨大な火柱と黒煙が立ち上っている。道路はヘッドライトの列で完全にマヒしていた。
だが、何よりも異常なのは――空だった。
遠く、新宿かそれとも都心の方角だろうか。
夜空の星々を歪ませながら、直径数キロメートルはあろうかという「巨大な透明の泡」が、生き物のように蠢きながら虚空に浮かんでいた。
その輪郭は時折、紫色の稲妻を走らせ、周囲の空間を陽炎のように歪めている。
世界の終わり。あるいは、何かの始まり。
佐藤はポケットの中の、ひどく冷たい「破片」を強く握りしめた。
その日、日本に、そして彼の人生に、誰も抗えない「開かれた世界」が降臨した。




