兎の中の蛇
宮廷の儀式なんてあからさまにつまらない場所に出るのは、そりゃあ嫌だった。
けれど、伯爵令嬢ノエルは、その義務の価値を同年代の誰よりも理解していた。
五歳になったばかりの伯爵家の待望の長子。薔薇の如く、愛らしい美少女。
しかしその中身は、30年近く異世界の東島国の裏路でしのぎを削ってきた成人男性に他ならない。
(そりゃあ、伯爵家と繋がろうとする奴は、俺との結婚を餌に寄ってくるもんな)
食事室の椅子に座ったノエルは、準備されていた朝食を前にして手をそっと合わせる。
(ブリザーグの家の格はまあまあだが、財産は多い。先代が鉱山の出資で一山当てたのがデカいんだろう)
ノエルは他人事のように、自分の置かれている現状を脳裏に整理していく。そして、食事室に準備されていたサンドウィッチをぱくついた。
薔薇の蕾のような唇に、幾つもの白板が吸い込まれていく。
だが、自身の思考が自然と成人男性のそれになっていることに、ノエルの自覚はない。
この世界では貴族の子は皆、乳母やメイドに育てられる。
ノエルの乳母には同じ年代の子どもがいたとかで、乳の出がこの辺りでは一番良いと評判だったらしい。そのおかげか、大きな病気もせずにノエルはすくすくと育った。
一年半も経ってノエルが乳離れをした頃、乳母の役割は終わり、子守りとしてエリーが来たのだった。
(あー、にしても、エリーは今日も最高だったなぁ。あの髪をすいてくれる手の優しさったらたまんねぇ)
ノエルの子守係のエリーは慈愛に満ちている。
ひどく厳しいわけではないが、甘やかさずにマナーやしつけをするという方針のようだ。
怒るのではなく、叱って諭す。そこもプロ意識があって良い。
エリーは独身でまだ若いのだが、何というか母性みたいなものがある。
ノエルは最後のサンドイッチにかぶりついた。エリーには淑女たるもの小鳥のように食べるよう言い渡されているが、食事室にはたいていノエルしかいないので、好きなようにできる。
この世界では、子育ては乳母や子守係に任せて、社交にせいを出すのが貴族のあるべき姿なのだ。
乳母やメイドに関しての、伯爵家の女主人アイリーンの手腕は見事だった。実の父親や母親に育てられずとも、ノエルは十分に養育者からの『愛情』を感じていた。
(まあ儀式にかこつけて俺を連れて行くけど、本当のところはブリザーグ伯爵家と縁故をもちたがっている有力貴族を、近くで観察できるからだろうな。『コランドお父様』も相当だ。あんな狸みてぇな人畜無害そうな顔した男なのに、ありゃあこれまでにもさんざん絵図を描いてきたに違いねぇな)
と、思いながら、ノエルは薄いはちみつ水を飲み干した。
ものすごく薄い酒のような匂いがするので、わりと好みだった。
(まあ遠くても親は親。会社と同じだ)
ここでの会社は株式会社ではなく、もちろんその筋の組織という意味だ。
裏組織にはやはりトップがいて、本家がある。本家から暖簾分けして独立すると、その組織の幹になる。そこから派生すると枝となり、末端の下請けのような会社は葉っぱだ。
元刑事なので、色々とその手の裏知識が増えてしまった。
結局のところ、組織の全ては大きな権力の頂点に集結するのだ。
(今日のお披露目も、ノエルの枝になろうって野郎が群がってくる。こりゃ、婚約なんてのは後付けで、どいつがどういう立ち位置かを見る場ってことだな)
「いただきました」
と小声でノエルが挨拶をしていると、ちょうどエリーが食事室に入ってきた。
皿を重ねて運び出し、ノエルの口元をクロスで拭いてくれる。黙ったままのノエルを見て、エリーは微笑みかけた。
「あらあら、どうしたんですか? ノエル様。大丈夫ですよ。緊張なさらなくても」
「俺、いや、私一人じゃないでしょう?」
昨日のパーティーはエリーがシャペロンとして一緒に来てくれた。
シャペロンとは貴族の女性がパーティーや舞踏会に参加するときに一緒に同行する女性のことだ。
父母は社交でどこかにいってしまっても、幼子一人拐かされる心配もない。
「エリーも一緒なら心強いぞ、わね!」
「うふふ。可愛いノエル様に悪い虫がつかないように、よく見て居なきゃいけませんものね」
と、微笑むエリーに、ノエルもでれでれと頬を緩ませる。
エリーはわりと良いところのお嬢さんらしい。品が良い人間は話しているだけでこちらを気持ち良くさせてくれる。
「でも、今日の付き添いは私じゃありませんの」
「え」
「シーラという、ロシュフォール公爵家のメイドです。既婚者で、ベテランの付添人ですよ。シャペロンとしても実績があって有名です。私が来る前、昔ノエル様の乳母もされていて……あら、時間ですね」
「えっ待て、すごく大事なこと聞いたような気が」
まごまごしているノエルを、食事室からあっという間に連れ出したエリーは、風のような速さで身支度を整えた。
ロビーのソファーに座らせられたノエルは沈痛な表情で、ピカピカに磨き上げられた爪の先端を見つめていた
「さあ、我が家の小さなお姫様。行こうか」
勲章を左胸につけた父親のコランドが、夫婦で連れ立って待ち合わせをしていたロビーの待合スペースに入ってきた。
「最近また肥ってしまってな。ジャケットが入るか心配だったよ」
父親を見るのは久しぶりだが、確かに以前よりも太ったように見える。
財政難とは無縁のようだ。
(ま、貴族の面子ってもんがあるしな。俺も『子』としての、義理を果たすか)
と、ノエルは心中気合いを入れた。
これでも前世では30年近く、義理と人情、面子と建前で生きてきた昔気質の体育会系なのだ。
「お父様とお母様から離れてはいけませんよ、ノエル。ほら、お手々を離さないで。会場からはシーラが付き添ってくれますからね。今日は宮廷の王女様の生誕祭です。人がたくさんいるのよ」
良い香りのする母親が、心配そうに覗き込む。牛革の高級な長い手袋ごしの肌の感触は、エリーの瑞々しい手の感触とはもちろん違った。ノエルは母親の指先の辺りをそっと握った。母親は満足そうにノエルの頬をつつく。
(ほーんと、お嬢様の仕草やら返答やら、こればっかりはいつまでも慣れねぇなあ)
「ノエル? 緊張してしまったかしら」
不審そうに眺めてくる両親を見上げて、ノエルは心を決める。
渡世に生きた、前世の自分を思い出す。
この居心地の良さと悪さの同居する、気恥ずかしさ。
ああ、これは、初めて潜入捜査で手柄をあげて、逮捕したときのようだ。
(割り切るんだ俺。ダンスの個人レッスンだとか食事の作法までまじめにやってきた。
(俺の人生どうなっちまうんだろうなぁ……)
豪奢な馬車も、荷馬車に見える。
市場に売られる仔牛の歌が聞こえる。
諦念を感じたノエルは馬車に乗るやいなや、紅いクッションに体を預けて目を閉じた。
馬車に揺られる美少女が、
(いかれたおままごとだ)
などという感想を抱いているとは、誰も想像だにしない。
かくして、王宮に集う並々いる美しい令嬢たちの中に、毛色の違う少女が一匹投入されることとなったわけである。




