5年後
さて、それから五年の月日が経った。
ブリザーグ伯爵家の長女の寝室は、まるでおとぎ話の夢の中に迷い込んだかのような美しい空間だ。
部屋の入り口には、贅沢な模様の描かれた深紅の絨毯が敷かれている。
壁には金箔で飾られた美しい薔薇の壁紙。
そして、繊細な彫刻が施された木製の家具が配置されている。
豪華な金細工が施された四柱ベッドの隣の窓は、上品な白いレースのカーテンで覆われている。カーテンから透けるあわい光が、部屋全体を柔らかな輝きで満たしていた。
中央にはドレッサーとテーブルがあり、美しい金色の枠の鏡と共に、花瓶の花と、幼い令嬢のための小さな宝石や髪飾りが置かれている。
差し込んだ朝の光が宝飾品入れの硝子ケースに当たり、反射する。
キラリと光が輝きを増したその拍子に、寝台に横たわっていた少女は、可憐な吐息を乱した。
「んぅ……」
絢爛豪華なベッドの上。
ノエル・ブリザーグはゆっくりと目を覚ました。
勿論、寝間着は最高級の絹である。
伯爵家の紋章の薔薇の花をモチーフにした花柄が優雅に広がっている。
「朝か……」
少女が呟く。
すると、寝室の扉が静かに開いた。
シンプルだが質の良いメイド服を身にまとった女性が優雅に入ってきた。
彼女の服もまた繊細な刺繍やリボンで飾られている。
それだけでも、ここが高貴な家であることをうかがい知ることができる。
若い女の動作や表情は快活でありつつも、落ち着いた品の良さがある。
伯爵家の子守係のエリーは微笑みながら、今目を覚ましたばかりの愛らしい令嬢に寄り添った。
「おはようございます、ノエルお嬢様。新しい一日のはじまりですね」
エリーの柔らかな声にノエルは起き上がった。
そして、素足で床に降り、目をこすった。
「おはよう、エリー」
少し眠そうなお嬢様を見て、エリーは微笑む。
エリーはノエルを一人掛けの椅子に座らせた。
真紅の髪に、薔薇の香りのオイルをなじませて梳いていく。
「昨夜はよく眠れましたか、ノエル様? お休みになる前まで、歴史のご本を読まれていたとお聞きしましたが」
ノエルはあいまいに微笑んだ。
鏡の中の花のような美貌が、ばつの悪そうに僅かに陰る。
「ちょっと大陸の歴史に興味があっただけで……お、わ、私はこの国について何も知らないから……」
エリーは鏡越しに、にっこりした。
「あらあら。ノエル様、私に夜更かしをとがめられると思っていられるのですか? いいえ、いいえ。そんなこといたしませんよ。安心されて下さい。ノエル様が勉強家でいらっしゃることは、エリーはちゃんと知っています」
「いや、全然、そんなことない……わ」
「まあ。ご謙遜なされて」
エリーはノエルの髪を梳きながら、まるでキスでもしかねない勢いで言った。
「五歳だというのに、歴史にご興味がおありだなんて! 本当に賢いお嬢様です。エリーは誇らしいですよ。本日は宮廷の儀式がございます。ノエル様は初めてですね。伯爵もご一緒に参られますから、早めにお支度をいたしましょう」
エリーは夜着を脱ぐノエルの着替えを手伝いながら、その柔らかな背中に目を落とした。
天使の羽のような痣が、肩甲骨の間にある。
それ以外は、雪原のような白く美しい背中だ。
いつの頃からかあざが濃くなって、産まれて五年も経った今ではくっきりと浮かび上がっている。
エリーはお嬢様にばれないように静かにため息を吐く。
痣さえも愛らしいお嬢様だが、嫁いだ時に嫌な思いをしなければ良い。
「エリーは、ノエル様の幸せを願っていますよ」
「どうしたの、エリー」
「いいえ。なんでもありません。さあ、お洋服を着て下さい。今日は昨日咲いた中庭のラナンキュラスと同じ、桃色のワンピースにしましたよ。お気に召しましたか」
「……ええ」
ノエルがほっそりとした腕を通し、幼い令嬢のためのふわふわした妖精のようなワンピースを身にまとう。
その瞬間、天使が舞い降りたかのように、令嬢の美しさが一層際立った。
部屋の雰囲気までもがパッと明るくなる。
エリーはほれぼれして言った。
「完璧ですわね。今日も大変美しく、最高にお可愛らしいですわ。ノエル様」
「……ありがとう」
ノエル・ブリザーグは、その愛らしい果実のような唇をあげた。
どこか諦めたような、それでいて愛らしい人形のような美しさが、桃色のワンピースに包まれて、何とも言えない魅力になっている。
エリーは、ほう、と溜め息を零す。
ノエルは在り来たりの、考えなしの幼児ではない。
五歳にして謎めいた表情さえも垣間見せる、聡明で賢い美貌の娘だ。
そんな娘に慕われるのは悪い気はしない。
それどころか、庇護欲がわいてくる。
赤子の時から美少女だとは思っていたが、最近日増しにノエルの容色は光り始めている。絶世の美女とうたわれる日も遠くないかもしれない。
おまけに魔力量も多いときている。
魔力のある者の集うこの国ゼガルドの貴族の間では、きっと引っ張りだこになるだろう。
エリーはノエルのほっそりした白いうなじを見つめた。
どうか、良い縁談を見つけて欲しい。
隣の部屋から、ほにゃあ、ほにゃあと猫の鳴くような声がした。
つい先日誕生したノエルの弟は、まだ乳飲み子だ。
エリーが弾かれたように顔をあげた。
「あら。マルク様が起きてしまったみたいですね」
「はやく行ってあげて。エリー」
「ではノエル様は先に食堂室へ。お食事を用意しております」
エリーは重厚なドアを軽やかに開けて、静かに出ていった。
一人になったノエルは、天使のような愛らしい容貌を金色の鏡に映した。
鏡の中に映る幼い美貌には、どこか憂鬱な表情が浮かんでいる。
瞳は遠くを見つめ、それはどこか遠い記憶や思い出に思いを馳せているようだった。
絶世の美少女、ノエル・ブリザーグ。
彼女はおもむろに、そっと自分の頬を触った。
毛一本生えていない。
宝石のような紅色の瞳が、己の貌を捉える。
そして――。
「つきたての餅かよ……」
高貴な伯爵令嬢にはおよそ不釣り合いなつぶやきが、春の陽光を浴びた花びらのような唇から漏れた。
(しかも)
そっと目を落としていく。
人形のような長いまつげがそっと伏せられる。
そして、美少女は羽衣のようなパニエの上から、色白の傷一つない陶器のような手で、
ぐわしっ!!
と、自身の股ぐらをつかんだ。
(やっぱり、ないッ……)
そう、ないものはない。
女性にはない。
男性にはある。
古今東西普遍のあるなしクイズである。
(5年経つのにまだ受け入れられん……この俺が! お貴族様の! お嬢様って柄か!?)
男児ならまだ気持ちの切り替えができた……のかもしれない。
だが、女。
しかも、美少女。
否、美幼女だろうか?
これまで、きれいどころとのアハンウフンもそれなりに経験してきた。
刑事としての仕事の一貫だ。
仕事上のターゲットが、シノギとして何箱かクラブも経営しているようなことが多かったため、客としてその筋の店に行くこともあった。
だが、特定の恋人やら愛人やらは、必要ないと思っていた。
大切なものなんてできてしまえば、仕事に差しさわりがでると思った。
自分はそれほど器用ではない。
だから、知らなかった。
(こんな杵つき餅の妖精みたいな体、どうやって動かせばいいんだ……!?)
取り扱いを間違えればすぐに壊れてしまうのではないか。
アニメでよくあるロボットだかなんだかにのせられる十代のパイロットだって、もう少し頑丈な装甲でスタートするはずだ。
こんな、華奢で筋肉がなくて、HP3みたいな身体に載せ替えられたって、どうやって生きていけばいいのか見当もつかない。
故・猪瀬……ノエルは怖れていた。
貴族のお嬢様生活には恐ろしいことばかり起きる。
うっかり『退屈だ』と漏らせば、エリーが
「お嬢様、それではお裁縫をいたしましょうか」
だとか言い出すのだ。
「春らしいモチーフで刺繍などいかがでしょうか。それとも、詩をお書きになってはどうでしょう」
「死……? 寝首をかく?」
「それとも庭園でピクニックをしながら、お花を摘んで冠にいたしますか。『木苺姫の午睡』や『ぬいぐるみ一家の大冒険』を持って行って、木陰でお読みになってもよろしいですね」
「……」
こんな具合なのだ。
(どういう不手際か知らないが、転生のミスなんてあるのか!? もう死んじまってるんだから、綺麗に『前世』の記憶を消してくれ! 俺はイチゴ姫やままごとなんかよりトイチとイタチごっこの方が馴染みがあるんだ! こんな令嬢があってたまるか!)
天に怒り、恨み辛みを祈っても、何の音沙汰も無かった。
こうしてようやく、現実をしぶしぶ受容しつつ、ノエルはすっくりすくすくと育ってきたのである。
「義理事かよ……嫌だな……」
(宮廷なんかくそくらえだ)
ノエルはほっぺたにパンパンに空気を入れて、ブーッと吐き出した。
金色の鏡の令嬢が釣り上げられた河豚のような顔をしている。
しかし、待っていても時は無情に過ぎる。
市場へ向かう子牛のような心持ちで、諦めたノエルはのろのろと食堂室へと向かい始めた。