【第1話:新型ゲーム機と極上のまかない、そして最強のセーフハウス】
俺の愛用する最新型携帯ゲーム機の8インチ有機EL画面の中で、下顎のないゾンビが俺の顔面を喰いちぎろうと飛びかかってきた。
俺は左手の親指をわずかに弾き、最小フレームでその噛みつきを回避する。
そのまま流れるような操作でアンデッドの眼窩にコンバットナイフを突き立て、背後にある赤い爆発ドラム缶を撃ち抜いた。
――『エリアクリア。オートセーブ中……』。
「ったく、相変わらずだな」
俺は固まった背中をぐっと伸ばしながら、小さくぼやいた。
「小児科病棟のど真ん中にまで爆発ドラム缶を配置するくせに、一番必要な時にはクソッタレな回復ハーブ一つ落ちてやがらない」
俺の名前はアンジェロ。34歳。
この人生において、俺が絶対の信仰を捧げているものは二つだけだ。
一つは、食材の命を骨の髄まで敬い、魚の骨一本すら無駄にしない『本物の料理』。
そしてもう一つは、ゾンビがうごめく『サバイバルホラーゲーム』である。
今、俺が両手に握りしめている携帯ゲーム機は、出航のわずか前日――つまり四日前に発売されたばかりの最新モデルだ。
俺は新しいハードや新型モデルが出るたび、必ず予約して発売日当日に手に入れることにしている。
新作のゾンビゲームが出たというのに、それを最高画質で遊べる最新ハードが手元にないなんて事態は、俺の辞書には存在しないからだ。
画面から顔を上げると、そこには白銀に輝くステンレス製の巨大な調理台が広がっていた。
ここは現在、イタリアの港を出航し、本土から航海距離にして丸二十四時間離れた外洋を航行している超豪華客船『ロイヤル・セレスティア号』のメイン厨房である。
時刻は午後三時。
慌ただしいランチ営業が終わり、ディナーの仕込みが始まるまでの束の間の休憩時間だ。
他の料理人たちは皆、船員室へ昼寝に戻るか、後部デッキへタバコを吸いに行ってしまい、広大な厨房に残っているのは火番を任された俺一人だけだった。
俺の背後では、50リットルの巨大な寸胴鍋が四つ、静かにコトコトと白い湯気を立てている。
その鍋の中で煮込まれているのは、牛の骨やスジ肉、手長海老の殻、そしてセロリやパセリの茎だ。
どれも、プライドばかり高くて腕の伴わない同僚のコックたちが、ランチの後に「ゴミ」として廃棄バケツに放り込んだ端材だった。
俺はそれをディスポーザー(粉砕処理機)にかけられる前にすべて救い出し、こうして極上のフォン(出汁)やビスクへと生まれ変わらせていたのだ。
あいつらは俺のことを「残飯拾いの変人」などと鼻で笑うが、俺が八時間かけて引くこの出汁がなければ、あいつらが作る一皿三万五千円の気取った料理など、濡れた段ボールと同じ味にしかならないというのに。
「さてと。ゲームのキリもいいし、遅めの昼飯にするか」
俺はゲーム機をテーブルの端に置くと、オーブンから自分用のまかないを取り出した。
ランチの仕込みで余った不揃いな茄子と端材のモッツァレラ、そして完熟トマトソースを幾層にも重ねて焼き上げた熱々の『茄子のパルミジャーナ(パルミジャーナ・ディ・メランザーネ)』だ。
さらにフライパンを強火にかけ、同僚が「形が悪い」と弾いた極上の牛もも肉の薄切りをオリーブオイルとニンニクでサッと焼き、濃厚なトマトとオレガノ、ケッパーで仕上げた『牛肉のピッツァイオーラ(職人風トマトソテー)』を皿に盛る。
俺は焼きたてのバゲットをちぎり、まずはパルミジャーナを口へと運んだ。
――美味い。
油を吸ってトロトロに溶けた茄子の甘みと、香ばしく焦げたパルミジャーノ・レッジャーノのコク、そしてフレッシュなバジルの香りが口いっぱいに広がる。
続けて、オレガノが効いた熱々のピッツァイオーラの牛肉を頬張り、皿に残った真っ赤なトマトソースをパンで綺麗に拭って食べ尽くした。
「……最高だな。客に出すコース料理より、こっちの方がよっぽど魂がこもってるぜ」
俺が最後のパンを飲み込み、満足してエスプレッソを一口すった、まさにその時だった。
――ガクンッ!!
突如、船底のエンジンから不自然な振動が伝わり、頭上のラックに吊るされたレードル(お玉)が一斉に激しく鳴り響いた。
天井の照明が揺れ、寸胴鍋のスープが危うく縁からこぼれそうになる。
「……なんだ?」
まだ次の寄港地に着く時間じゃない。本土から二十四時間も離れたこの海域には、小さな離島くらいしかないはずだ。
数秒後、両開き扉の上にある船内放送用のスピーカーがザザッとノイズを発し、一等航海士の張り詰めた声が響き渡った。
『――総員に告ぐ。本船は現在、孤島・ブラックロック島の沖合半マイルにて緊急停船した。今朝、小型艇で島へ上陸していた乗客一名が「重度の出血熱」を発症したため、現地の連絡船よりCデッキへ緊急収容する。医療班および警備班はただちに左舷ハッチへ急行せよ。繰り返す、左舷ハッチにて医療緊急事態発生――』
その放送が終わるか終わらないかのうちに、厨房の扉が勢いよく開き、いつも見習い相手に怒鳴り散らしている副料理長のジャン=リュックが、二人のパティシエを連れて入ってきた。
「おい、今の聞いたかアンジェロ?」
ジャン=リュックは真っ白なエプロンで手を拭きながら、面白そうにニヤついた。
「ロイヤルスイートの金持ちの爺さんがよ、あの島で変な野犬か何かに噛まれて、黒い血を吐いてぶっ倒れたらしいぜ。どうせまだ仕込みまで時間があるんだ、Cデッキに見物に行こうぜ!」
「あんたたちだけで行ってくれ」
俺は再びゲーム機の画面に視線を落としながら答えた。
「あと十分で仔牛のフォンの灰汁を引かなきゃならない。目を離したら焦げ付くからな」
「またそのゴミクズ鍋かよ、好きだねえお前も!」
ジャン=リュックは呆れたように肩をすくめると、パティシエたちを連れて笑いながら廊下へと飛び出していった。
「せいぜい一人でゲームのお化けと遊んでろよ、落ちこぼれ!」
バタン、とスイングドアが閉まる。
静まり返った厨房には再び、寸胴鍋が立てる穏やかな音と、俺のゲーム機から流れる不気味なBGMだけが残された。
十分が過ぎ、十五分が過ぎた。
俺は網杓子で丁寧にスープの灰汁をすくい取り、充電器を挿してある壁のコンセントの近くへ戻って、再びゲーム機を手に取った。
――『兆候』が始まったのは、まさにその直後だった。
一つではない。三つの異常が、俺がこの二十年以上プレイしてきたあらゆるゾンビゲームのオープニング映像とまったく同じ順番で、立て続けに発生したのだ。
【第一の兆候】。
頭上の船内スピーカーが突然プツンと入った。
だが、船長の声は聞こえない。代わりに流れてきたのは、耳を劈くようなハウリング音と、マイクが床に転がる乾いた金属音――そして、途中でブツリと途切れた誰かの断末魔の悲鳴だった。
【第二の兆候】。
コンロの上の換気ダクトから、生ぬるい異臭が逆流してきた。
十メートル先からでも肉の鮮度を見分ける料理人の鼻をごまかすことなどできない。
それは熱を持った鉄の匂い――大量の鮮血と、真夏の常温に三日間放置された腐肉のような、甘ったるくむせ返る死臭だった。
俺は親指をゲームのボタンに置いたまま、ゆっくりと立ち上がった。
【第三の兆候】。
俺は料理長室の入り口上部に設置された、小型の防犯モニターへと視線を向けた。
VIP用のルームサービスワゴンが到着するのを把握するため、Cデッキの業務用通路を映し出している白黒モニターだ。
その画面の中で――先ほど出て行ったばかりの副料理長ジャン=リュックが、白いコックコートを血まみれに引き裂かれながら、死に物狂いでこちらへ走ってくるのが見えた。
その後ろを追いかけているのは、『急病人』などではなかった。
片腕が九十度あり得ない方向に折れ曲がったまま、獣のように四つん這いに近い姿勢で猛ダッシュしてくる警備員の男だった。
画面の中で、警備員がジャン=リュックの背中に飛びかかる。
そのまま彼を床に押し倒すと、人間のものとは思えない顎の力でジャン=リュックの首筋に食らいつき、首を激しく振って肉塊を強引に喰いちぎった。
ドス黒い血しぶきが飛び散り、カメラのレンズの半分を真っ黒に染め上げる。
五秒後、ジャン=リュックの痙攣が止まった。
そして十秒後――首が折れて肩に垂れ下がったままのジャン=リュックが、ガクガクと操り人形のように立ち上がり、通路の奥から現れた他の七、八体の『元・乗組員』たちと共に、このメイン厨房の扉へと真っ直ぐ歩き始めたのだ。
俺は二秒間だけ、その場に立ち尽くした。
パニックにはならなかった。34年間培ってきた俺の脳内のスイッチが、『豪華客船のコック』から『サバイバルホラー総プレイ時間一万時間のガチ勢』へと、カチリと音を立てて切り替わっただけだ。
「……オーケー」
誰もいない厨房で、俺は静かに呟いた。
「こういうムービーは一生分見てきた。『おい、大丈夫か!?』なんて言ってあのドアを開ける奴がどうなるかは、嫌というほど知ってるぜ」
俺は氷のように冷静な手つきで、ゲーム機のホームボタンを押し、スリープモードに切り替えた。
そして何よりも先に、壁のコンセントへ駆け寄る。
そこから『純正の充電器』を抜き取り、断線しないよう丁寧にコードを巻いて、ゲーム機のハードケースと一緒に作業ズボンの深いサイドポケットへとねじ込んだ。
サバイバルの鉄則その一。
どれほど完璧な武器を手に入れようと、純正の充電器を忘れたゲーマーに未来はない。
次の瞬間、俺は厨房の出入り口へと疾走した。
幸いなことに、この厨房の扉はただの木の板ではない。
船舶の厳しい防火規定により、ガス爆発や火災を完全に封じ込めるための『厚さ五センチの特殊鋼鉄製・防火隔壁扉』が備え付けられているのだ。
俺は扉の脇にある赤い非常用パネルのガラスを肘で叩き割り、電磁ロックの手動解除レバーを力任せに引き下ろした。
――ガシャアアアアンッ!!
重厚な鋼鉄のスライド扉がレールの上を滑り、床を揺らすほどの轟音を立てて完全に閉鎖される。
俺が中央の気密ロックハンドルを二重に回し切った、まさにそのコンマ一秒後だった。
ドォンッ! バンバンバンッ! ギリギリギリッ……!
扉の向こう側に、ジャン=リュックたちの肉体が激突した。
鋼鉄の表面を爪で引っ掻くおぞましい音と、飢えた獣のような唸り声が響き渡るが、五センチの鋼鉄扉は一ミリたりとも揺らがない。
俺は一秒も無駄にせず踵を返すと、この厨房における唯一にして最後の開口部――レストランのホールへ料理を受け渡すための横長の小窓『パス(ディッシュ・パス)』へと走った。
防火用の金属製シャッターの取っ手を掴み、渾身の力で一番下まで引き下ろす。
そのまま左右の極太の鋼鉄製かんぬきを、ステンレスのカウンターの穴へと深く突き刺した。
――ガチャンッ。
静寂が訪れた。
いや、壁の向こう側では世界の終わりが始まっているのだが、この空間にいるのは俺一人だけだ。
俺は深く息を吐き出し、ゆっくりと周囲を見渡した。
ワンルームマンションほどもある巨大な冷凍・冷蔵室には、最高級の肉、魚介類、チーズ、新鮮な野菜が山のように詰まっている。
乾燥倉庫には小麦粉、パスタ、米、オリーブオイル、そして大量の塩。
水道の蛇口をひねれば水が出て、目の前にはあらゆる種類の包丁が並び、周囲は絶対に破られない鋼鉄の壁に守られている。
俺の口元に、自然と獰猛な笑みが浮かんだ。
「紳士淑女の皆様――」
俺はポケットの中のゲーム機と充電器の上から軽く手を当て、誰にともなく呟いた。
「俺の最高の『セーフハウス(安全地帯)』へようこそ、ってな」




