鮫男
地上に解放されたオムレットは、その肌に感じる空気の冷たさに思わず身を縮めた。
大空洞内の高温な環境との落差に身体が驚いているのもあるが、換気口から流れ込む風は、ナイフで刺されたように冷たかった。
もう春だと言うのに、この場所はずっと寒い。世界から隔離された閉鎖空間のようだ。
夕刻の空は灰色の雲に覆われ、空気はどこまでも重たい。
晴れやかな気持ちとはいかないが、オムレットの心は踊っていた。
なにしろ、
「夕ご飯~夕ご飯~!」
枷を引きずりながらスキップし、目隠し越しに食堂の位置を捉える。
懲罰房での食事は、主に残飯や廃棄された黒パンだ。
とても人間に提供される食事とは思えない。
食堂の出入口からは囚人たちの喧騒がここまで響いてくる。
心なしか鼻孔をくすぐる夕食の香りが普段よりも鮮明に届くようだ。
それも空腹の音が腹部を常に殴っているせいだろう。
食堂の天井は高く、数百人はいる囚人たちの喧騒が大きく反響していた。
石畳を叩く靴の音。木製のトレイが擦れ合う音。
互いの会話を掻き消さんとばかりに飛び交う男たちの怒号が、今は心地いい。
「さあ、楽しむぞ~」
意気揚々と食堂の敷居を跨いだ。
その時だった。
食堂内の空気が明らかに変わったのを、肌で感じた。
先ほどまで、娼婦の話や自分の武勇伝を熱く語っていた囚人たちが、水を打ったように静まり返り、一斉にオムレットへ疑念に満ちた視線を注いだ。
スプーンを置く音すら憚られるほどの、刹那の静寂。
椅子から腰を浮かせた囚人たちは、いつでも逃げ出せるように全身をこわばらせていた。
まるで猛獣を目の前にした者のような反応だ。
「ん……?」
すぐに囚人たちは見て見ぬふりを決め込み、会話を再開した。
しかし、背中には明らかな警戒の眼差しが突き刺さっている。
「何だあいつら」
そんなことより、今は食事だ。
それは全てにおいて優先される。
荒鉄で組まれたアーチに灯る魔術聖火が、横長の木製テーブルをぼんやりと照らしている。
何十列も並ぶ席は、ほとんどがすでに囚人たちで埋まっているようだった。
オムレットは空いている席にいくつか目星をつけてから、配膳口に並んだ。
「えっと……おい。大丈夫かよ」
カウンターの向こうに立つ配膳係の手が、尋常ではないほど震えている。
黒パンを持つ手も、右へ左へと揺れていた。
最終的には、トレイに投げ捨てるようにして、どうにか受け取ることができた。
しかし、隣の配膳係も同様だ。
せっかくのスープの半分以上がカウンターにこぼれた。それでも配膳係はまったく気づかず、スープをトレイに載せた。
「調子狂うな……」
避けられることには慣れていても、あからさまに恐怖を向けられたことはなかった。
――いや、何度か心当たりはある。
目を覚まして医者に驚かれた時。
あとは中庭の一件で囚人に怯えられた時だ。
どちらも、大の大人が恐怖するほどの出来事ではなかったはずなのに。
どうして……。
「ま! 細かいことは気にしなくていいか! 飯だ飯!」
訝しげに思いながらも空腹には抗えず、事前に目星を付けていた席のうちの一つ。
窓際の特等席に腰を下ろした。
窓の外には雄大な山々が広がっている――はずなのだが、魔力感知の範囲外にある景色までは、オムレットには認識できない。
今日はあいにくの吹雪で、どのみち何も見えないのだろうが。
「うわ……」
「行こうぜ……」
「気を付けろよ……」
近くで談笑していた囚人たちが、目の色を変えてオムレットから離れていく。
まるで彼女を恐れているかのように――
「まあ、他人のことなんざ、どうだっていいか」
今は目の前の食事に集中しよう。
今晩の夕食は、出汁の旨味が一切感じられない半透明のスープ(もはや温水)と、石と見紛うほど硬い黒パンだ。
ただ固形物を食べさせておけばいいという、高貴なお方の暴論の産物だろう。
「うへへ……まずはパンをスープに浸して――柔らかくなったところを口にぶち込む。これが美味いんだよな~」
二か月ぶりの食堂の食事だ。スープが温水同然であろうと、パンが石のように硬かろうが、今のオムレットにとっては立派なご馳走だった。
十分にパンが水分を吸ったところを見計らい、パンを口に運んだところで、
「おい。てめーだロ? 例の死んだはずの教祖様ってのワ」
突然、視界が巨大な黒い影に覆われた。
「あぁ?」
口に運びかけていたパンを一旦、皿に戻して振り返る。
「……えぇ」
そこには鮫型の魚人族の囚人が立っていた。
身長は優に二メートルを超えている。
鋭い牙に、真っ黒な瞳。
凶器に成り得る背びれは根元から切断されていた。鮫としての尊厳は失われているように思えるが、獰猛な本能は健在らしい。鋭い牙も抜歯するべきだと感じるのは、オムレットだけだろうか。
「悪いけどよ、俺は飯を食うので忙しいんだわ。あとにしてくれ」
これ以上、パンを浸していると崩れてしまう。
鮫男を無視し、慌てて脆くなったパンを口に運ぼうと試みる。
それが鮫男の逆鱗に触れたらしい。
「舐めるなヨ?」
鮫男の低い声が聞こえた刹那、耳を裂くような破裂音が響き、目と鼻の先にあった皿がテーブルごと消えてなくなった。
「は」
いや、消えたのではない。
鮫男の異様なまでに頑強な牙と顎によって、一瞬で噛み砕かれたのだ。
厚さ十五センチはある木製のテーブルが、柔らかいパンのように食いちぎられ、荒々しく木粉が舞った。
鮫男はバリバリと音を立て、木片ごとオムレットのスープやパン、皿を咀嚼し、そのまま胃袋へと収めてしまった。
「……雑食かよ、てめぇ」
「どうしタ? 怖くテ声も出ないカ?」
オムレットを嘲笑するように俯いた顔を覗き込んできた。
「俺の…………、」
「どうしタ? 泣いてルのカ?」
「俺の飯を食いやがったなああああああああああ!」
数か月ぶりの一般食だったのだ。
この日をどれだけ待ちわびたことか。
時には昆虫が出てきたこともあった。
死んだネズミがそのまま出てきたこともあった。
それでも耐えた。
ささやかな幸せまで奪うセリシウス監獄での不条理さに、心底腹が立った。
「弱いやつハ、飯モ喰えない」
「てめぇーを今すぐ三枚に下ろして食べずに廃棄処分したい気分だぜまったく!」
手元にあったスプーンを握り、あわよくば鮫男の眼球をえぐれないものかと愚考する。
「……で? 俺に何の用なわけ?」
こんな騒ぎを起こせば、懲罰房行きは確実。
それどころか、この場で殺処分だって考えられる。
小さそうな脳ミソしかなさそうな魚人ではあるが、最低限の危機感くらいは持っていても良いものだ。それなのに、鮫男からはまるで焦りが感じられない。
「俺たチ、もう我慢しなイ。アイツどうにかすル。俺様、何モ考えナくていイ。強者喰ウ。俺モ、強イ者なる」
鮫男はぶつぶつと何やら呟きながら、口元から涎をだらだらと垂らしている。
「はぁ……?」
鮫男の言動は要領を得ない。
しかし、一つ思い当たることがある。
「喰うってお前……」
魚人族の中には、未だに食人文化が残る部族がいると書物で読んだことがある。
自分よりも強き者を喰らうことで、今よりも優れた生命に近づけると言われている。
実際、一部の部族では、族長の代替えを行う際、次代の候補者が現族長を喰らうという文献が残っているほどだ。
この鮫男の罪状は、数百人に及ぶ食人行為――魚人族に伝わる食人進化論を盲信する狂人だ。
同じ考えを持つ部族の中だけにとどまらず、罪のない人々まで喰らっている以上、彼の罪は揺るぎない。
「お前、オリエントだロ? 俺、喰って強くナる」
鮫男はその分厚い腕でオムレットの肩を掴んだ。
「……またその名前かよ。俺はオムレット! 二度と間違えるな、この魚介類がぁ!」
この場所で唯一、自分だけのもの。
それは、いけ好かない助手が何気なく付けた、オムレットという名だ。
記憶を失う前の自分のことなんて、どうだっていい。
今はオムレットとして、好きに生きられればそれで楽しい。
だからこそ、過去の自分を持ち出されることに腹が立つのだ。
「俺、お前、喰ウ」
「いや、大人しく食堂の飯でも喰っておけよ。工夫次第で割と喰えるぜ?」
さり気なく鮫男の手を解き、ゆっくりと距離を取る。
「俺、お前、喰ウ!」
気が狂ったようにオムレットただ一人を見つめ、身体を震わせる。
「だからさ……」
周囲を見回すが、もちろん助け船は来ない。
それどころか、いい見世物だとばかりに眺めている。
実に気に食わない。
どう切り抜けるかと思考を巡らせていると、鮫男は遂に我慢の限界を迎え、叫び出す。
「俺、お前、喰ウゥゥゥゥウウウウウウウウ!」
「なッ……!」
殴られた。
何の駆け引きも、躊躇いもない。
気づいた時には、身体が宙を舞っていた――
魔力感知で捉えていた世界が反転し、情景が鮮烈にかき乱される。
そのまま受け身も取れず、窓ガラスに叩きつけられた。
魔術結界によって強化されたガラスは割れることなく、衝撃をすべてオムレットの身体へ跳ね返した。
そのまま、ずるずると滑り落ち、地面に倒れ込んだ。




