0054. 閑話・【光賀】長い旅路の最初の一歩
父上の言葉は、まさに闇夜を照らす一筋の光であった。父には感謝せねばなるまい。
教えられた通り、わしは西三河の天竹という村を訪れた。尾張との国境に近い矢作川のほとりにある鄙びた小村だ。村の佇まいを見る限り、決して豊かとは言えぬ。
だが、その片隅に探し求めていた光景を見出した。聞いていた通り、見たこともない、白い塊のようなものをつけた作物が陽光を浴びて細々と育てられている。
まずは、この村の長に話を通すのが筋だろう。わしは畑仕事をしている村人に声をかけ、乙名の家を尋ね、その軒戸を叩いた。
「ごめんくだされ。津島の連雀、光賀仁右衛門と申します。こちらの乙名殿にご挨拶と商いのお話がしたく、参上いたしました」
しばしの沈黙の後、ぎぃ、と音を立てて戸が開き、中から一人の老人が姿を現した。年の頃なら六十あたりか。日に焼け、深く刻まれた顔の皺は長い年月の労苦を物語っている。
だが、その両の目はただの老いぼれた百姓のものではなかった。わしの頭の先から足の先までをまるで品定めでもするかのように鋭く見据えている。
「……津島から、とな。わざわざこのような小村に商いの話とは大仰な。この村に津島の大きな店が欲しがるようなものなど、何もござらんが」
老練な男。一筋縄ではいかぬ相手だとわしは瞬時に悟った。
「いえいえ。わしが求めおりますのは、高価な品ではございませぬ。この村で育てておられるという、あの〝綿花〟にございます」
わしが畑の方を指し示すと、乙名はわずかに眉を動かした。
「……綿か。ほう、よくご存知で。だが、あれは我らが衣にするためのもの。とても商いに出せるほどの量はござらんよ」
「そこをなんとか。実は綿そのものではなく、わたくしが本当に求めておりますのは、その〝種子〟なのでございます。遠い国の貴人様より、『綿花の〝種子〟を買い付けてまいれ』とのご依頼を受けておりましてな」
わしが「種子」という言葉を口にした瞬間、乙名の目の色がはっきりと変わった。警戒の色がさらに濃くなる。
「……綿ではなく、種子とな。ふむ。して、その種子をどうなさるおつもりかな」
「ご依頼主様はご自身の領地でこの綿花を育てたいと、そうお考えのご様子でして」
乙名は太い腕を組み、しばし黙考した。その沈黙が重くわしにのしかかる。やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「……光賀殿。申し訳ないが、その話はお受けできかねる。もし、この近隣で綿花の栽培が広まれば、我らのささやかな暮らしの種が脅かされるやもしれぬ」
やはりそうきたか。一番の懸念はそこだろう。この村にとって、この作物は唯一無二の宝。その価値を知る者ならば、門外不出とするのは当然の判断だ。
「乙名殿、ご懸念はごもっとも。ですが、ご安心くだされ。わしがこの種子をお届けする先は、この三河や尾張、遠江といった地ではございませぬ」
わしはここで一世一代の芝居を打つことに決めた。
「海を越えた、はるか西……九州は筑前のとある大社にございます。神事に用いる特別な布を織るため、どうしてもこの綿花が必要とのことでして。この地での商いの邪魔になることは、決してありませぬ」
(――と、これはとっさの嘘っぱちじゃが)
わしは内心で舌を出した。
(坂東の里見様が買い付けに来たと、正直に話す馬鹿がおるか。それは新しい金山の在処を他の商人に大声で教えるようなものよ。遠い西国のわざわざ調べようもない相手の名を出す。これも生き馬の目を抜く商いの駆け引きじゃ)
わしの言葉に乙名は少し驚いたように目を見開いた。
「……九州とな。それはまた、ずいぶんと遠い話じゃな」
「ええ。道中も長く危険も伴います。だからこそ、もし種を分けていただけるのであれば、相応の礼はさせていただく所存にございます」
乙名は再び沈黙した。値の話に移る前にこちらの言葉の真偽、そして腹の内をじっくりと探っているのだ。手強い。実にごろつきだ。
やがて、乙名はぽつりと呟いた。
「……今まで種を売ったことなどないゆえ、値が分からぬ。光賀殿はいかほどでお買い求めなさるおつもりかな」
来た。一番厄介な問いだ。値付けをこちらに委ねることでこちらの懐とこの種子に対する本気度を探りに来たか。
「さようですな……。九州までの長い道のりを考えますと、あまり高値では買い付けられませぬ。一袋に一斤ほどございましょう。まずは一袋一貫文ではいかがでしょう」
わしはまず、こちらの最低ラインを提示した。これが通れば儲けものだが、この老獪な相手がそれで首を縦に振るとは思えぬ。
案の定、乙名はゆっくりと首を横に振った。
「光賀殿、それは少し足元を見すぎではござらぬか。我らにとって来年の収穫を占う、大事な種にございますぞ」
「では、一貫と三百文。これでご納得いただけませぬか」
「……もう一声。九州までの道中の危険とやらも、我らには関係のない話でござる」
「……分かり申した。一貫と五百文。これ以上はわしも商いになりませぬ」
わしの言葉に乙名の顔に浮かんでいた険がようやく、ふっと和らいだ。そして、にやりと年季の入った商人のような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。では、その値でお譲りいたしましょう。村中の者から来年の種を蒔く分を除いた余りを集めれば、二袋ほどにはなりましょう」
「かたじけない! 来年の収穫の後もまた買い付けさせて頂きたい!」
わしが頭を下げると、乙名は「先の長い話は、またその時に」と、笑って応じた。継続的な商いの約束はそう簡単には取り付けさせてはくれぬか。
村を後にしたわしは、ずしりと重い二袋の種子を荷駄の最も大切な場所へと仕舞い込んだ。
(……さて。長い旅の最初の一歩はどうにか踏み出せた)
里見様の〝報せ〟はまことであった。
ならば、はるか南の島にあるという〝豚〟や〝牛〟の話も真実やもしれぬ。
ここで一度、安房に戻り、種子を届けるのが筋だろう。だが、それでは機を逸する。この燃え盛るような興奮と得体の知れない安房の主への畏怖が、わしの背中を押していた。
わしは馬の向きを東の安房ではなく、西へと向けた。
次なる目的地は日ノ本の商いの中心地、堺の湊。
琉球や南蛮へ渡る船乗りたちから未知の獣の情報を聞き出すためだ。
懐には里見様から預かった、莫大な額の路銀がある。これはただの商いの元手ではない。わしの覚悟と才覚を試すための軍資金だ。
そして背には里見家の、そして、あの底の知れぬあの方の期待がずしりと重くのしかかっている。
(……とんでもない、商いになってしもうた)
だが、わしの心にあったのは困難な旅への不安よりも未知の品々をこの手で探し当てることへの商人としての純粋な興奮だった。
この長い旅路の果てに、一体何が待っているのか。
わしは西の空を見据え、故郷の土を力強く蹴った。
里見様、見ていてくだされ。
この光賀仁右衛門、必ずやご期待に応えてご覧にいれまする。




