0053. 閑話・【光賀】底の知れぬ安房の主
里見様の「聞いておる」「欲しいらしいのだ」という奇妙な口ぶりにわしの全身が警戒を告げていた。
(……聞いておる? 欲しいらしいのだ?)
はて、おかしなことを仰せられる。まるで殿の背後に別の誰かがいて、その方が品を欲し、その方から話を聞いて、わしに繋いでおるかのようではないか。
この安房で里見様にそのような事を頼める御方なぞ、おらぬはず。まさか鎌倉公方様にお仕えする中で公方様の側近から何か言われておるのか?
いや、公方様が牛や豚を欲しがるとも思えぬ。
いささか気にはなるが、下手に藪をつついて蛇を出すこともあるまい。
わしが黙考していると、殿はその鋭い目でわしを射抜くように見つめ、声を一段と低めた。
「仁右衛門。優れた将の〝耳〟と〝目〟はな、この安房いや、日ノ本の浜で留まるものではない」
その言葉には底知れぬ響きがあった。わしの心の臓がどくりと大きく跳ねる。それは単なる比喩ではない。事実として、殿の耳と目はわしの想像を絶する場所にまで届いているのだと、そう言外に告げているかのようだった。
「……せっかくだから、教えておこう。近年、我が里見家には海を越えて様々な報せが届くようになった。その〝報せ〟がこの儂に奇妙な品々の存在を教えるのだ。儂が聞いた話では、綿花とは蒲公草 (タンポポ)のように白く固まっているそうだ。繭のようだとも言っておった。種子は非常に小さいらしい。それがそなたの生国に近い、西三河の矢作川の近くで自生しておるか、あるいは農民が育てておるやもしれぬ、と」
「なっ……」
わしは思わず息を呑んだ。西三河の矢作川。あまりに具体的すぎる地名。そして、蒲公草や繭のようという見たこともない作物に対する詳細な描写。これはただの噂話の類ではない。
「豚ははるか南のオキナハ……もしくは琉球と呼ばれておるかもしれぬな、そこにいるそうだ。オキナハでは『ウヮー』と呼ばれておるらしいぞ。
牛は蘇と酪を作り朝廷に献上するために白牛がよいとのことじゃ。数を増やしたいので雄と雌を数頭ずつは最低ほしい、と、そう言っておった。白牛もオキナハで聞いてみるとよい。南の方におるとのことだ。堺や博多の商人のところに行けば、琉球の話は聞けるやもしれぬ」
(…………!)
わしは驚きのあまり言葉を失っていた。
海を越えて……? 西三河の片隅の作物のことまで……? 琉球での土着の呼び名まで……?
この安房の主は、一体いかなる規模の諜報網をその手の内に収めておられるというのだ。西国を牛耳る堺や博多の大商人ですら、ここまでの詳細な報せを掴んではおるまい。
目の前の御方の底が全く見えぬ。この御方は、わしが思っていたような、ただ気骨のある田舎武将などではない。もっと大きく、もっと得体の知れない何かだ。
「……承知、いたしました」
わしは腹を括った。恐怖と興奮が腹の底で混じり合っていた。この御方はとてつもない野心とそれを実現するための常軌を逸した力をお持ちだ。
この商いを成功させれば、わしにとっても、またとない好機となる。二年前に感じた運命のうねりは終わってなどいなかった。今、再びわしの目の前で渦を巻こうとしている。
「ただ、いずれも初商い。値の付け方も分かりませぬ。光賀の一族として、損をせぬ動きは致しまするが多少の損はご容赦いただきたく」
「わかっておる。こちらもおぬしに無理を言っておるし、価格についても気にしておらぬ。人買いの時と同じじゃ。第一は手に入れること。入手することが何よりも大切じゃぞ」
この御方、本気だ。金に糸目はつけぬ、という覚悟が伝わってくる。
わしは得体の知れない畏怖を感じながらも、心の奥で商人としての血が確かに騒ぐのを感じていた。
――数週間後、わしは故郷である津島の土を踏んでいた。
まずは里見様が優先して欲しいと仰せられた、西三河での綿花の種子探し。そのためにはこの地で長年商いを続けてきた父の知恵が必要だった。
「父上、お久しぶりでございます。ただいま戻りました」
「おお、仁右衛門か。久しいのう。息災であったか」
「はい、おかげさまで。今は安房の里見様との商いが多うございます。今日戻りましたのも、その里見様との商いで、少し西三河の矢作川辺りの噂について、父上のお知恵を拝借したく」
「ほう、重畳じゃな。それで西三河の矢作川辺りの噂とは何じゃ」
「はい。〝綿花〟と呼ばれている作物のことをご存知ないかと」
わしがそう尋ねると、父は腕を組み、記憶の糸をたぐるようにしばらく考え込んだ。
「……綿花、か。そういえば、矢作川の西側、天竹辺りで尾張にはない、奇妙な作物を育てている者たちがいる、と聞いたことがあるな。
白い塊のようなものが実るらしいが、麻のように糸にするには手間がかかりすぎるうえ、量も少ないので商いにはなっておらぬようだ。もしや、それかもしれぬな」
――あった。
里見様のあの〝海を越えた報せ〟は、まことであったのだ。わしの全身に鳥肌が立った。
「ありがとうございます、父上。して、なぜそのような作物をご存知なのですか?」
「たまたま、西三河で商いしておる商人が仕入れに来てな、向こうの物珍しい土産話として聞いたのじゃ。誰も見向きもせぬ故、買い付けるのも容易かろう。ただ先ほども言うた通り、あまり量は無い。少ししか買い付け出来まいがそれでよいのか」
「構いませぬ。里見様はまずは入手することが大切だと仰せでしたので」
「そうか、それならよい。まあ、上手く買い付けしてくるがよい」
父の言葉にわしの胸はいっそう高鳴った。
里見様への人知を超えた存在に対するかのような畏怖。そして、それを上回る、未知の商いへの興奮が腹の底で渦巻いていた。
海を越える情報網を持つ、大いなる〝安房の主〟からの依頼。この商いはただの物探しではない。新たな時代を作るための礎を運ぶ仕事なのかもしれぬ。
この探しもの、必ずや成し遂げてみせよう。
わしは父に深く頭を下げると、すぐさま西三河へと馬を向けた。背に受ける故郷の風がわしの新たな門出を祝っているように感じられた。




