0052. 閑話・【光賀】静寂と新たな依頼
里見様からのあの百人近い子供たちを買い付けるという途方もない商いをどうにか成し遂げ、武田様への「気概」をお渡ししてから、早二年が過ぎようとしていた。
あの時、確かに感じたのだ。己の運命が大きくうねり変わっていく、あの肌が粟立つような感覚を。
生涯忘れ得ぬ、商人としての本能が震えた瞬間。
しかし、その後の日々は驚くほどに穏やかであった。まるで嵐の前の静けさとでも言うべきか、あるいは嵐が通り過ぎた後の凪か。
安房や相模、駿河を巡り、塩や干物を仕入れては武蔵などの内陸で裁く。以前と何ら変わらぬ、堅実な、しかしどこか物足りぬ商いの繰り返し。
もちろん、暮らしに困ることはない。むしろ、里見家との取引実績はわしの商いを円滑にし、以前よりも儲けは増えていた。
だが、あの血湧き肉躍るような興奮はどこにもなかった。里見様との商いも、あの大きな一件以降は、城で使う武具や米、酒といった細々とした御用聞きばかり。
運命の歯車は、一度大きく軋んだだけでまた元の退屈な軌道に戻ってしまったかのようだった。一度知ってしまった大商いの味は、わしの心に消えぬ渇きを残していた。
このまま、安房の一介の連雀商人で終わるのか。そこそこの富を築き、一族を安泰させて、それで満足するのか。そんな諦念が胸に染みつき始めた、ある日のことである。再び、里見様から呼び出しがあった。
「――殿がお呼びである」
使者の口上はいつもと同じだったが、その目に宿る光はどこかいつもとは違っていた、ただの御用聞きではないことを予感させた。
馴染みとなった城の廊下を進み、再びあの広間に通される。だが、その場の空気は前回とは全く異なっていた。
二年前、子供たちを連れて参上した時は、広間には奥方様や愛らしい姫君がおられ、どこか和やかな空気があった。
だが、今は違う。陽光の差し込む部屋には人の気配がない。しんと静まり返った広間の上座に里見様がただ一人、静かに座している。その静寂は百の兵が鬨の声を上げるよりもよほど雄弁に場の異常さを物語っていた。
そして、殿の目。その両の目に宿る光は、もはや懇意の商人を見る温かさを含んではいなかった。将が決戦を前に盤上の駒を動かす、あの鋭く冷徹な光そのものであった。
値踏みされ、心の臓腑まで見透かされているような感覚。わしは背筋に冷たいものが走るのを感じながら深々と頭を垂れた。
「仁右衛門、久しぶりじゃの。前の働き、実に見事であった。連れてきた百人を超える子らは、皆、元気に過ごしておるぞ」
声は穏やかだったが、その裏にある威圧感は隠しようもなかった。
「はっ、ありがたきお言葉にございます」
顔を上げることは許されぬまま、わしはただただ平伏する。
「うむ。さすがは安房一の連雀よ。さて、そなたに次の商いを頼みたくてな」
来たか。わしの全身の血が久方ぶりに沸き立つような予感がした。この二年間の鬱屈を晴らすような大仕事の匂いがした。
しかし、殿の口から語られたのは、またしても、わしの商人としての常識を根底から覆すような言葉だった。
「〝綿花〟の種子と牛、そして〝豚〟という獣を買い付けてほしい。あと買い付け先で何か良いものがあったら、それも頼む。安房に無い品であれば何でもよい」
「……は?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。あまりに突拍子もない注文にわしの思考が完全に停止した。頭を下げたまま、愚かにも問い返すような声が漏れてしまった。
(……めんか? ぶた? 聞いたこともない)
牛はわかる。農耕や運搬に欠かせぬ家畜だ。だが、綿花に豚とは。わしはこれまでの商いで培った知識を脳内で総動員した。津島で叩き込まれた諸国の産物、京の商人から聞きかじった南方渡来の品々、そのいずれの記憶をたぐっても、その名に心当たりは全くなかった。
日ノ本で流通する品ではない。少なくとも、わしら東国の商人が扱う品ではないことは確かだった。
「恐れながら、里見様。寡聞にして、綿花と豚なる品々は存じませぬ。どのような品物か見当もつかぬ故、値付けもそもそも見つけることすら叶わぬやもしれませぬ。今回の商い、私の手には余るやもしれませぬ」
商人としての矜持が知らぬものを知ったかぶりすることを許さなかった。この依頼を断れば、里見様との縁は切れるやもしれぬ。だが、安請け合いして失敗する方がよほど光賀一族の名に傷がつく。
正直に申し上げると、殿は「うむ」と鷹揚に頷いた。その反応はまるでわしの返答を予期していたかのようだった。
「そうかも知れぬな。だが、案ずるな。いや、それには及ばぬ」
殿の口ぶりが奇妙に他人行儀なものに変わった。
「綿花の種子はどこにあるかも、豚とかいう動物もどこにおるかも聞いておる。まあ、豚の方は可能な限りでよいがな。まずは綿花の種子が欲しいらしいのだ」
その言葉がわしの心に得体の知れない波紋を広げた。




