兄妹
既婚。それは、私の知る限り、すでに結婚している男女のことを指す。
婚姻。それは、私の知る限り、ある程度社会的にその男女関係を認可され、身体的にも結ばれる「夫」と「妻」のこと。
「でも、お前が来たから彼奴も俺も実質破棄されてる様なもんだからな」
確かに、ユキメもそんなことを言っていた。
結婚していたとしても乙女は救世の主のものになるって。何度思い返しても馬鹿げた制度だ。
何だろ、色々衝撃的すぎて言葉が出てこない上に頭も働かない。
私はスクッと立ち上がってアオツキを見る。
「ちょっと手洗いに行きたい」
「あー、そこまっすぐ行って2つ目の角右曲がったら地下水道があんで。流れがあるから気い付けや」
アオツキは無感情な声でそう答えた。
「ありがとう」
何故だろう、あんなけ突っかかってきた相手に笑顔すら向けられた。
私はそそくさとその場を離れようとする。
「ちょ、おい、カヨ?途中まで……」
カホが声をかけてくる。でも無視して進む。
私はこのぐるぐると渦巻いた感情を仕分けて弾き出し、カホに知られる前に一刻も早くこの場を後にしたかった。
「カホ、待ってや。俺と少しお話せぇへんか」
アオツキが追いかけてこようとするカホに声をかけているのを最後に聞いた。
ウザいと思ってたけど、今は素直に有り難い。そう若干の感謝を心の中でしながら私は去った。
地下水道ってのは私の想像した以上に広かった。私はそんな河へと拓けた廊下との境で壁にもたれて座り込む。ドウドウと音を立てる河音は、地下道に反響してより大きく聞こえてくる。
ここで用を足す気には、到底なれねぇな。
てことは、アオツキは私の意図、早くその場を離れたいってことだけを汲んでくれた事になる。いや、この音だと好きなだけ叫べるな。ったく、どこまで読んであの発言をしてきてんのか。アイツがいかに食わせ者かってことだけは分かったな。
確かに今の私には叫び出したい衝動もある。ちょっとでも気を緩めれば、この河にでも飛び込みたいと思うのかもしれない。それだけ不安定でおぼつかない。
「つーか……」
思わず口をついて出てきそうになる言葉を飲み込む。
あの時したキスはユキメとしてた成果ってことか?
ゴツッ
握り拳に力を込めて、地面にぶつけた。
痛い。
ゴツッゴツッゴツッゴツッ
くっそ痛いな。
地面に当たった結果のこの拳も、口を開けば出てきそうになる悪態を押し込むために嚙み締める唇も、どうしようもなく勝手に裏切られた気分になっているこの心も。
どうしろってんだよ。
ズルズルと這い回っては私を憔悴させるこの怒りの感情を。
場違いだってのは分かってるつもりだ。
カホは私を守るとしか言ってない。好きとか言われてないのに、勝手にその気になってたのは私だろ。これじゃあ私もクズ親父に弄ばれてたあの馬鹿女達と変わんないじゃんか。方や未亡人相手だ、私はれっきとした不倫関係……というか預かり知らなかったとは言え、あの2人の仲を引き裂いた張本人てことになる……て、ん?
そこまで思考が至って違和感に気づいた。
確かに仲を引き裂いたのは、私が原因だ。だけどそれで不倫関係は行き過ぎだ。でもそう思ってしまったってことは……。
「あぁ、そっか」
私は、カホを好きになっちゃってたのか。
「ふふ、馬鹿だなぁ……」
失恋が確定した後に気付くとか、とんだ愚かしさだな。自嘲を止められない。いや、行動する前に知れたのが不幸中の幸いか。
泣きたい衝動に駆られたけど、一歩のところで踏みとどまれたのは何かしらストップした感情のおかげだろうな。
「あの……」
不意に背後から声がかけられた。
聞き覚えのある声。今しがた私が通って来た通路を振り返ると白い服に小麦色の健康的な肌が映った。
予想してなかった相手だけど、今の私に人に気遣いできるほどの余裕も無い。涙をこらえて眉間にしわを寄せた不機嫌そうな表情のまま尋ねた。
「何だ?」
我ながら発言してみて後悔した。
や、流石につっけんどんすぎだ。ちょっと気持ちの立て直しを図って相手から顔を背けて目の前の地底河川を見つめた。
「用がないなら暫く1人にしてくんないかな」
「えっと、ごめんなさい……」
……ん?
この人、メノウ様だよね。
あのアオツキにバリバリ悪態と罵倒を連続して繰り出してた……。何か様子が違う。私の印象的にはもっと他の人に対しても似たような感じなんだと思ってたんだけど……。
もしかして二重人格か?それとも双子がいたとか……。
もっかい振り返ってメノウ様と思われる相手を見つめる。まだ踵を返してはいないみたいだ。結構無碍にしたのに踏みとどまってるってことは、何か事情があるんかな。
それにしても……うーん、やっぱりじっくり見てもメノウ様だ。これで双子なら逆に凄いな、多分無いだろうけど。
そして気まずい沈黙。
相手は話しかけたそうだけど言葉を選んでる感じだ。
「……アオツキを前にしてた時と随分様子が違うね」
思ったとおりのことを口にした。
「あ、はい。だって、あの、えっと……」
メノウ様は見た目相応の清純派乙女みたいに、恥ずかしそうに前に組んだ手をモジモジと動かす。そして意を決したかのように私を見据えた。
「あの、私を弟子にしてください!」
何とも言えない目から発されたプレッシャーに私が身構えるのと、その言葉が同時だった。
………は??
心の中で聞き返してもカホじゃない限り答えてはくれないだろう。
カホを頭に浮かべるだけで今は頭がズキッと痛んだ。
「どうゆうこと?」
とりあえずカホのことを頭の隅に追いやって場の対処をせねば。
えっと?弟子?
……私の?何においてだ?
きっとこの世界じゃ戦闘能力は確実に劣る。別に礼儀作法や知識だってたいしたもんを持ち合わせていないし。その相手に対して何の教えを乞おうとしてるんだ。
「その、見るだけで人を物怖じさせる冷たい視線……私に足りないものを貴方は持っていらっしゃると感じました。その目があれば、あいつを更に……いや、そんなことはおいておいて、一体どうすればその様な目つきになれるのか、教えて頂きたいのです!」
何だそれ。
私は何とかため息を飲み込んだ。
「……そんなに冷たい視線だった?」
「はい!それはもう!あいつが戯言を話している間も終始氷点下の視線を注ぎ込み、あいつを牽制していましたし。更には先ほどの誰も寄せ付けぬかの様な威嚇の視線。是非得たいのです」
あー、何か悲しい。いや、虚しいか?とりあえず今なら水の操作は完璧にできそうな気がするな。若干すぐ近くにあるこの大量の水で試してみたい気も起こるけど、そこまでK.Yじゃない。
それにしてもメノウ様、私を罵倒するでなくここまで心的ダメージを与えられるとは賞賛に値するよ、ほんとに。
嬉々として語ってくるその言葉に、私は半ば諦めた。
「そんなこと言われてもな、教えることとか何もないんだけど」
真実、この目つきは生まれつき、もしくは生まれてからの環境に依存しているはず。そんなもの、メノウ様に言うつもりも教えるつもりも、それを課すつもりも無い。
「いえ、お側に置かせていただきたいのです!私はそこから学ばせていただきます」
…………うーん。困ったな。
一緒に居て良い事もなければ悪い事も無い。
つまり、断る理由もなければ首肯する理由もないんだ。
強いて断る理由を挙げるとすれば一緒にいると私が女とバレる可能性がかなり上がるってことか。
ただ、熱心なところが無駄に断りづらくさせている。
「あのさ……」
「これでも一通りの武道や術は備えた身、師匠のために私、どんな尽力も惜しみません。お願いします」
「師匠って、何だかな……」
おいおい、その響き、うちの師匠が思い起こされて気持ちが滅入るぞ。私はあんなジジイしてねぇよ。と、初代命の恩人ともいえる相手に対して不遜な考えをするけど、私と師匠の関係は正直そんな感じだった。
私の嫌悪の表情を読み取って、メノウ様が戸惑う。
「では、どの様にお呼びすれば?」
や、そもそも君の申し出肯定してないよ?断っても無いけどさ。何で当然の様に引き受けた前提で話進めてんのさ。
という心の訴えとは裏腹に、私は彼女の申し出を明確に否定できずに持て余している。
何ていうか、私、美人に弱いのかもしれん。
脳裏にユキメが浮かんで、いよいよ気持ちが暗くなる。
「師匠……?強引なのは承知しています。どうしても……ダメですか?」
悩殺的な上目遣い。きっとどんな手練れの男でも大抵はその手に落ちそうだ。
かく言う私もその1人なのかも知れない。
長いため息を吐いた。
「はぁ、良いよ、分かった。本当に大したこと出来ないからな?でも師匠は止めてくんない?歳もそんな違わないだろ」
「!!では、何と?」
メノウ様の目が歓喜に明るくなる。
その顔を見て、何処となく既視感を覚える。いや、気のせいかな。こんな顔の造りの人、私は知らない……記憶に無いし。でも何だろ、この感じ。すごく近い肉親の様な……。
「兄さん……?」
私は兄の顔を知らない。覚えていない。でも何故か思わずこの言葉が溢れていた。
「……!!分かりました、そう呼ばせていただきます、お兄様」
メノウ様……いや、メノウちゃんがそう満面の笑みで答えた時、私の中で何かが反応した気がした。
得てして私は、若干の憧れがあった「お兄様」呼びをしてくれる妹分を手にしてしまった。
何て言うか、悪い気はしない。
傷心だった私にそっと注がれた神からの癒しだとでも思う事にしよう。若干表情の筋肉が緩む。
メノウちゃんが側に居てくれるってんだから、せっかくだしあの罵倒ぶりを学ぼうかな。
メノウちゃんの前に右手を差し出す。
「よろしく、メノウちゃん」
「こちらこそ、よろしくお願いします。お兄様」
私の片手に対して、彼女は両手で包んで握ってくる。
あ、この子良い子なんだろうな……。
ここに来て漸くカホのことを忘れてホンワカと心が和むのを感じた。
そして、思い出したことがある。
逆に何で失念していたのか、自分を罵りたくなった。
確かに当時3歳で、その後の人生を日々生き残ることだけに費やしてきた私には、必要の無い情報だった。忘れていたのもしょうがないのかもしれない。
と考えると共に、複雑に幾重にも絡まった細い糸の塊が連想された。下手にパズルを解くよりももどかしく、理詰めに出来ないその簡素な内容に身悶えしたくなる。
私を生贄にクズ親父から逃れ、その身の安全を得たと思っていたその1人。
私の兄の名前が、恵介だった。
執筆スピードからばれちゃうかも知れませんが、ここからがやっと起承転結の「承」です。
やっとこさ話が進みます。暫く恋愛とはおさらばです、多分。
※誤字修正2/8




