第2話:世界が動き始めた日
本作品に登場する出来事、人物、団体はすべて架空のものであり、実在のいかなるものとも関係ありません。
1. 激震の地球、割れる世界
衝撃の「断交解散」宣言から一夜。世界はまだ、その言葉が持つ本当の破壊力と、それがもたらす地政学的な地殻変動の意味を理解しきれずにいた。日本の国会という、一見すれば極東の島国のドメスティックな政治空間で放たれた一言が、大気圏を突き抜ける電磁パルスのように地球全土の外交ルートを直撃し、既存の秩序を内側から焼き切ろうとしていた。
北京。
初夏のどんよりとした灰色のスモッグが低く垂れ込める中国外務省の会見室は、早朝から各国の特派員や主要メディアの記者たちによる異様な熱気に包まれていた。議場ですり鉢状の席から浴びせられるヤジを冷徹にあしらいながら、春三総理が放った「中国との断交」というフレーズがニュース速報として世界を駆け巡ってから、わずか数時間。中国政府の対応は、平時の外交摩擦のレベルを遥かに超越した、事実上の「戦時モード」そのものへと移行していた。
壇上に姿を現した小籠包外相は、カメラの前に立つ前から、抑えきれない怒りによってその顔を不気味なほど赤く紅潮させていた。いつもは計算高い笑みを浮かべる男の仮面は完全に剥がれ落ち、剥き出しの敵意がその歩調に現れている。演壇へ向かって重い足取りで歩み寄る彼に、背後から緊張した面持ちで同行していた秘書官が、周囲に聞こえないよう声を極限まで潜めて耳打ちした。
「外相、国内の主要SNSである『微博』や動画プラットフォームでは、すでに『即時日本制裁』『宣戦布告』を求める書き込みが数百万件、いや、一千万件を超えて暴走状態にあります。党中央だけでなく、人民解放軍の軍部からも、一歩も引かぬ強硬姿勢と具体的な軍事的見せしめを示すべきだとの、極めて激しい突き上げが来ております」
小籠包は薄い唇を噛み締め、短く、しかし低く唸るように頷くと、無数のマイクが乱立する演壇の前に立った。次の瞬間、数百台の報道カメラから放たれるストロボの白い光が、網膜を焼き切らんばかりに一斉に、かつ激しく弾け飛んだ。シャッター音がまるで機関銃の掃射のように室内に鳴り響く。
「日本の最高指導者である春三が、神聖なる国会の場において放った昨日の妄言は、我が中華人民共和国の主権に対する過去最大の侮辱であり、国際秩序に対する言語道断の暴挙である!」
小籠包は、握り締めた拳で激しく演壇を叩きつけるようにして声を震わせた。その震えは、単なる怒りだけによるものではなかった。戦後八十年近くの間、一貫して平和主義の憲法と経済協調の枠内に収まり、中国側の突っ込みに対しては常に遺憾の意を表明するだけだったはずの日本という国が、自らその檻を内側から破壊し、牙を剥いて飛び出してきたことに対する、本能的な「焦り」と「恐怖」が混じっていた。
「アジアの平和と安定を根底から脅かす日本の軍国主義化、そして周辺国を威嚇するための再軍備の野心を、我が国は絶対に容認しない! 中華人民共和国は、国家の尊厳、領土の一体性、そして人民の安全を守るため、必要とされるあらゆる措置を辞さない構えであることを、ここに全世界に向けて厳粛に宣言する!」
嵐のように浴びせられる各国記者の質問の声を完全に無視し、小籠包は足早に会見室を後にした。廊下を渡る彼の背中からは、冷たい汗が滲んでいるのが見えた。彼が向かったのは、外務省の奥深く、一般の職員や技術者の立ち入りが電子ロックと武装警察によって厳重に制限された、地下の安全保障作戦室だった。
重い防音の鋼鉄扉を開けると、そこにはすでに中央軍事委員会の制服組高官、国家安全部の情報幹部たちが顔を揃え、壁一面に巨大なプロジェクターで投影された東アジアのデジタル地図を睨みつけていた。地図上には、日本列島、台湾海峡、そして朝鮮半島が、一触即発の赤いシグナルで点滅している。
小籠包はネクタイを緩め、上着を椅子に投げ捨てるなり、冷徹な声で室内の者たちに告げた。
「日本を徹底的に揺さぶる。奴らの傲慢な『断交解散』とやらを、文字通り血の海に変えてやる必要がある。しかし、我が国の海軍や空軍の正規戦力を今すぐ直接動かせば、日米安全保障条約を大義名分にして、ワシントンのアメリカ軍が即座に介入してくる口実を与えることになる。それは我が方の戦略にとって時期尚早だ。経済的なダメージだけでは、あの春三という男の狂気を止めることはできん。ならば、打つべき手は一つしかない」
中央軍事委員会の老将軍が、灰色の太い眉をひそめながら、その口元に冷酷な笑みを浮かべた。
「北を使う、ということですな」
「そうだ」と小籠包は冷たく言い放った。
「平壌に圧力をかけろ。現在我が国が供給している地下の資金ルート、重油のパイプライン、穀物の支援、そのすべての生命線をチラつかせてでも、今すぐ奴らを南へ向けて動かせ。日本の『断交解散』を、単なる国内の政権維持のための政局にとどめさせてはならない。東アジア全体の、引き返せない本物の安全保障危機、すなわち戦争の足音に変えてやるのだ。そうなれば、日本の世論は恐怖で分裂し、春三は自滅する」
国家安全部の情報幹部が即座にキーボードを叩き、最高強度の暗号化を施した特異通信回線を立ち上げた。北京の地下深くから、暗い渤海湾を飛び越え、平壌の最高司令部へと直行する極秘指令。
『即座に揺さぶれ。南を動かせ。我々は全力を挙げてこれを支援する。今がその時である。』
電子の波となって飛び去ったその一文は、東アジアの運命を決定づける最初のドミノを押し倒した。
しかし、中国がこの冷徹なチェス盤の上で打った布石は、それだけにとどまらなかった。
小籠包外相の密命を受けた駐ソウル中国大使の乗った、遮光ガラスで覆われた黒い高級セダンが、ソウルの大統領府――かつての青瓦台周辺の厳重な警戒網をくぐり抜け、緊急の会談へと滑り込んでいた。中国側が韓国政府に対して突きつけた要求は、外交交渉という生易しいものではなく、剥き出しの脅迫そのものだった。
「今回の日本の妄言と暴挙に対し、大韓民国政府は一切の同調、あるいは日本側の立場を擁護するような姿勢を示すべきではない。完全に『沈黙』を維持せよ。もし日本側に少しでも加担する、あるいは日米韓の安全保障協力を強調するような真似をしてみせれば、我が国は即座に、貴国に対する致命的な経済的・軍事的な超強硬報復措置を執行する。その覚悟を持たれたい」
韓国のウジェミョン大統領は、応接室のソファで対面に座る中国大使の冷ややかな視線を浴びながら、突きつけられた要求書を前に、青ざめた顔で指を震わせるしかなかった。
現在の韓国国内は、隣国日本で突如として巻き起こった「断交」という政変に対し、歴史的経緯から日本を徹底的に批判する反日派の世論と、北朝鮮や中国の脅威に対抗するために日本との連携を維持すべきだとする親日派・現実派の世論が激しく衝突し、国内の治安は乱れ、ウジェミョン政権の支持率は危険水域まで急落していた。足元がガタガタに揺らいでいるこのタイミングで、最大の貿易相手国である中国からレアアースの禁輸やサプライチェーンの切断といった経済制裁を受ければ、国家の心臓は一瞬で停止する。
ウジェミョンは苦渋に満ちた表情のまま、大統領府のブリーフィングルームに集まった、緊迫した表情の報道陣の前に出た。フラッシュの光を浴びながら、彼はあらかじめ用意された原稿を力なく読み上げた。
「……今回の日本国内における事態、および発言について、我が大韓民国政府としては、現時点において公式なコメントを控えるものとする。我が方は一貫して、東アジア地域の平和的かつ対話による解決を望んでいる」
その「沈黙」が、中国の意図通りの空白を作り出し、朝鮮半島の軍事バランスを致命的に崩壊させる引き金になるとも知らずに、韓国政府はただ嵐の前に首をすくめるカエルのように、現状維持を選択した。
一方、その頃のワシントン。
時差によって夜を迎えたホワイトハウスの大統領執務室では、トルンプ大統領が、重厚なデスクに足を投げ出したまま、自身のスマートフォンを大きな指で激しく叩きつけていた。彼は国務省の外交官たちが作成した「慎重な姿勢を求める」事前検閲原稿をゴミ箱に投げ捨て、自身の公式SNSに、大文字をこれでもかと交えた過激な文章を投稿した。
『我々は日本、そして我が友人である春三総理を全面的に支持する! なんという素晴らしい、そして勇敢な決断だ! 中国の不当な覇権主義と圧力に一歩も屈しない日本の姿勢は、真の同盟国にふさわしい! アメリカも、中国との経済・外交関係を根本から見直すべき時が来たのだ! 日本は孤独ではない、星条旗が共にある!』
国務省や国防総省の背広組官僚たちが「同盟国への過剰かつ急進的な肩入れは、予期せぬ国際摩擦を激化させ、米軍を不要な戦争に巻き込む」と慌てて火消しの補足コメントを準備し始めたが、世界の軍事ネットワークのトップである大統領の意志は、すでに現場の制服組へと直接下達されていた。
国防総省の統合参謀本部から、沖縄の嘉手納基地、およびグアムのアンダーセン空軍基地、さらには横須賀を母港とする第七艦隊に対し、警戒態勢を即座に引き上げるよう緊急命令が下る。
「台湾海峡の安定、そして西太平洋の自由において、日本の存在と、その防衛意思の明確化は不可欠だ」
そのドクトリンの通り、米軍の大型電子偵察機RC135や、最新鋭のイージス駆逐艦が、静かに、しかしその威嚇の意思を隠そうともせずに、波立つ東シナ海や台湾海峡周辺へと展開を開始した。
これに呼応するように、台北の総統府では、台湾総統が深夜にもかかわらず緊急の記者会見を開いていた。
「日本の春三総理による、我が台湾に対する明確な支持の表明と、毅然とした外交姿勢に、二千三百万の台湾国民を代表して心からの感謝と敬意を捧げます。台湾は民主主義の最前線の砦として、いかなる脅威にも屈せず、日本と共に歩む覚悟があります」
台湾国内では瞬く間に親日デモが巻き起こり、興奮した若者や群衆が日の丸と台湾旗を掲げて台北の街頭を埋め尽くした。世界は一瞬にして、日本が放ったたった一つのセリフを軸にして、恐ろしいほどの加速度で二極化の渦へと巻き込まれていった。
2. 官邸危機管理センターの咆哮
「総理! あまりにもリスクが大きすぎます! 経済が、市場が、この国のシステムそのものが持ちません!」
東京・首相官邸の地下深く。外の世界の喧騒から完全に遮断された防音壁と電磁シールドに囲まれた危機管理センター。
普段は冷徹な官僚たちが淡々と処理を行うはずのその空間は、今や各省庁から臨時に出向してきた幹部たちの怒号と、鳴り止まない暗号化電話の呼び出し音で完全に占拠されていた。壁のデジタル時計が刻む一秒ごとに、世界の状況が暗転していくような錯覚を覚えさせる。
円相場は1ドルあたり数円規模で乱高下を繰り返し、東京証券取引所のシステムは売り注文の殺到によって処理能力の限界に近い異常な数値をモニターに弾き出し続けていた。日本経済という巨大な船が、突然の嵐によって転覆しかけている。
外務省の事務次官が、額から吹き出る汗をハンカチで拭う暇もなく、険しい表情で入室してきた内閣総理大臣・春三の前に立ち塞がった。
「中国政府からの公式な抗議文だけではありません! 北京、上海、広州にある在中邦人企業、さらには現地に滞在する数万人規模の日本国民から、暴動や身の危険を察知した悲鳴のような問い合わせが、我が省の回線をパンクさせる勢いで殺到しています! 総理、今すぐ、昨日の発言は『あくまで国会論戦における比喩的な表現であり、政府としての公式な外交方針の変更を意味するものではない』という、より踏み込んだ火消しのための官房長官談話を出すべきです! そうでなければ、今日中に実体経済が破滅します!」
春三は、手元の端末に次々と届けられる各国政府の生々しい反応が記載されたレポートに目を落としたまま、その端正な顔の表情を一つも崩さなかった。彼はゆっくりと顔を上げると、冷徹極まる、まるで氷の刃のような一瞥を事務次官に投げ、静かに、しかし部屋全体の喧騒を一瞬で凍りつかせるほどの重みを持って言い放った。
「私は国会という主権者の代表が集まる場で、この決断を国民に問うと言った。一度吐き出した言葉を、市場の混乱や官僚の恐れごときで引っ込めるつもりはない。この混沌、この経済的リスク、隣国からの脅迫、それらすべてを丸ごと抱えた上で、我が国が戦後引きずってきた欺瞞を捨ててどう生き残るのか。それを国民自身に選んでもらう。それこそが、私が名付けた『断交解散』の意味だ」
「しかし、安全保障の現実というものをご存知ないからそんなことが言えるのです!」なおもエリートのプライドをかけて食い下がろうとする次官の前に、春三の斜め後ろから、軍靴の足音を響かせるかのような力強さで歩み出た男が立ちはだかった。全日本保守党代表・翔鶴である。
「次官、外務省の心配はもう周回遅れだ。机の上の綺麗な外交論をこねくり回している暇があるなら、もっと足元に迫っている本物の『牙』に目を向けたらどうだ」
翔鶴は鋭い目でセンター中央に鎮座する巨大マルチモニターを指差した。その指先は、日本の周辺海域を指している。
「中国がこれだけの公式声明を出したんだ。ただの言葉のキャッチボールや、経済制裁だけで終わるわけがない。あいつらは表で奇麗事を言いながら、必ず裏で最も汚く、最も効果的な『カード』を切ってくる。特に、朝鮮半島だ。あの国が動くぞ」
その言葉が、まるで不吉な予言の成就であるかのように、危機管理センターの重い防音扉が勢いよく開き、内閣情報官が顔を真っ青にして駆け込んできた。その手には「防衛省情報本部・即時回覧・極秘」と鮮烈な赤字でスタンプされた紙の資料が握られていた。
「総理、翔鶴代表、大変です! 情報収集衛星の最新画像、および在韓米軍の通信情報収集部隊から共有された、最上級の電波警戒情報です。平壌郊外の拠点、および軍事境界線(MDL)付近の北朝鮮軍の全域において、通常訓練の範疇を完全に逸脱した、実戦展開レベルの異常な軍事アクティビティが確認されました!」
情報官が震える手でリモコンを操作すると、センターの中央モニターに、不気味な赤色で網掛けされた北朝鮮領内の全図が投影された。そこには、無数の戦車部隊や歩兵師団の識別シグナルが、まるで冬眠から覚めた蠢くアリの群れのように、一斉に南の国境へと向かって移動を開始している様子が、リアルタイムのデータとして示されていた。
3. 朝鮮半島の闇と「三つの理由」
日本からわずか数百キロしか離れていない、朝鮮半島の深夜。
平壌郊外の深い山中、幾重もの鉄筋コンクリートと花崗岩の岩盤によって外界のいかなる爆撃からも守られた、北朝鮮軍の地下総参謀部作戦指揮所。古びた蛍光灯の白い光だけが冷酷に照らす広大な室内には、北京の国家安全部から極秘裏に送られてきた暗号文が印刷された、まだインクの匂いが残る紙片が回されていた。
「中国の小籠包外相からの正式な作戦要請である。南への圧力を最大級に高め、東アジアの軍事的緊張を一気に爆発させよとの、最高指導者同志からの直命である」
冷徹な総参謀長の号令が室内に響き渡ると、胸に無数の勲章をつけた将軍たちが一斉に起立し、軍帽のひさしの下で目をギラつかせた。
北朝鮮軍が、このタイミングにおいて、躊躇することなく一気に「南侵作戦」の引き金に指をかけたのには、国家の運命のパズルとして、あまりにも完璧すぎるほどの三つの理由が揃っていたからに他ならない。
第一に、国家の最大の経済的・軍事的生命線である中国からの「日本およびアメリカへの揺さぶり」という直接的な参謀本部レベルの要請と、それに伴う、作戦成功時の莫大な軍事支援、重油の無制限供給、穀物の無償譲渡という約束が取り付けられたこと。
第二に、日本が国会の場で台湾支持を明確に打ち出した以上、このまま日米台の軍事連携が完成すれば、共産圏全体の地政学的足場が完全に喪失するため、ここで一気に朝鮮半島で火の手を上げ、その連携の鎖を最も弱い部分から断ち切らなければならないという、大局的な戦略的必要性が生じたこと。
そして第三に――これこそが彼らにとって最大の勝利の予感をもたらしたものだが――日本の政治が「断交解散」という前代未聞の事態によって、選挙戦という内向きの壮絶な政治的空白期間を迎えようとしており、さらに隣国である韓国政府が中国からの露骨な経済的・軍事的脅迫によって、ウジェミョン大統領自ら「沈黙」という名の事実上の無抵抗姿勢を選択したこと。これら全ての条件が合致した今こそ、戦後八十年の間、彼らが血の涙を流しながら準備し続けてきた「祖国統一」の南侵作戦を実行に移す、歴史上これ以上ない「千載一遇の好機」が目の前に転がってきたのだ。
「南のウジェミョンは中国の影に怯え、大統領府は自国の軍隊に対して『北を刺激するな、一切の過剰防衛は許さん』と命令し、彼らの手足を完全に縛り付けている。日本が身内の選挙で大混乱に陥っている今、一気に南の心臓部を叩かねば、我々の世代に二度とチャンスは訪れない!」
総参謀長の乾いた怒号とともに、暗夜の静寂を切り裂いて、実戦部隊への命令が下された。
国境付近に張り巡らされた無数の地下潜行トンネルを通り、顔を黒く塗った高度な訓練を誇る特殊部隊の兵士たちが、一切の無線通信を発することなく、重い装備を背負って静かに境界線へと前進移動を開始した。
さらに、前線の山肌をくり抜いて作られた無数の掩体の鉄扉が開き、そこから数百門、数千門に及ぶ長距離砲や多連装ロケット砲の太い砲身が、鈍い金属音を立てて次々と夜空に向かって突き出された。その照準の先にあるのは、わずか数十キロしか離れていない、南の首都ソウルの高層ビル群と、一千万人の市民が眠る心臓部そのものだった。
北朝鮮側のすべての軍事通信は、傍受不可能な旧式の有線回線、あるいは完全に新しく書き換えられた独自の暗号アルゴリズムに切り替えられ、米軍の通信傍受網に対して完璧なステルス化を維持していた。しかし、この数万人規模の部隊の急速な集結と、国境沿いでの無人機による執拗な低空偵察飛行の急増は、現場の前線で命を張る兵士たちの肉眼と、最新鋭のレーダー網を完全に騙しきることはできなかった。
ソウルの韓国軍参謀本部、中央地下指揮所。
緑色の電子光が明滅する監視モニターを見つめる、若きオペレーターたちの顔は、極限の緊張と恐怖によって土気色に引きつっていた。
「参謀総長! 北の砲兵部隊が掩体から出て展開しています! 通信の沈黙が保たれていますが、これはただの訓練の動きではありません、実弾の装填準備に入っています! 敵特殊部隊の境界線接近のシグナルも多数確認。作戦準備を完全に完了しつつあります! 今すぐ我が軍も全軍に最高警戒態勢(デフコン1)を発令し、前線の師団に先制反撃、あるいは迎撃の自由裁量権を与えるべきです!」
しかし、作戦室の奥に座る参謀総長が、青ざめた表情で下した命令は、現場の若い志願兵たちの必死の訴えを無残に打ち砕くものだった。
「……青瓦台の大統領補佐官からの、直接の厳命だ。『これは日本の唐突な断交発言に伴う、中国および北朝鮮側の政治的なブラフ、すなわちデモンストレーションである。我が軍がここで過剰に反応して引き金を引けば、それこそ敵に全面開戦の正当な口実を与えることになる。大統領の許可なき一切の先制行動、および部隊の前進を禁ずる。現状の監視体制を維持せよ』……以上だ」
「そんな馬鹿な! 目を瞑って耳を塞いでいれば、敵の砲弾がソウルに降ってこないとでも言うんですか!? 我々を見殺しにする気か!」
オペレーターの悲痛な絶叫も、大国間のパワーゲームに怯え、硬直してしまった政治の決定を覆すことはできなかった。韓国軍は、最新鋭の兵器を抱えながらも政治的な鎖によって手足を完全に縛られたまま、暗闇の中から確実に近づいてくる破滅の足音を、ただ震えながら聞き続けるしかなかった。
この半島の恐るべき異常事態を、日本の防衛省情報本部もまた、独自の電波傍受と、数分おきに軌道上から送られてくる合成開口レーダー(SAR)衛星の鮮明な写真によって完全に捕捉していた。
官邸の危機管理センターの巨大モニターに、刻一刻と赤いプロットが増殖していく北朝鮮軍の「突入配置図」が更新される。
翔鶴がその画面を骨張った指で激しく突き刺し、春三の横顔に鋭い視線を向けた。
「総理。向こうはポーズや脅しじゃない、本気で獲物を殺りに来ている。これでハッキリした。お前が始めたこの『断交解散』は、もはやただの国内の小奇麗な議席争いや、政権の延命レースじゃない。この日本、そして東アジア全体の生存と未来の覇権をかけた、本物の、血が流れる安全保障選挙になったんだ」
外務省や内閣官房の官僚たちが「今すぐ解散の閣議決定を延期すべきだ」「国家の危機を前に選挙などやっている場合ではない、国会を休会にして準戦時体制へ移行すべきだ」と口々に騒ぎ立てる中、春三は腕を組んだまま、画面の向こうの平壌、そして国会前に集まる群衆の声を同時にその耳で聞くようにして、一歩も退かずに言い切った。
「予定通り、一分の狂いもなく行う。我が国の防衛力を、いつまでも他国の顔色を伺い、アメリカの庇護がなければ何もできない依存体質から引き剥がし、自立させる。そのために血を流す覚悟が、この国の主権者たる国民にあるかどうかを、私はこの混乱の真ん中で、真っ正面から問う。逃げ道は作らない」
4. 二極化する永田町、選挙戦前夜
東京・永田町。そこは国際政治の硝煙とはまた毛色の違う、人間の業とドロドロとした権謀術数、そして狂気的な熱気が渦巻く「もう一つの戦場」と化していた。
「春三の暴走を止めろ! 日本を再び戦前に戻すな!」
「断交反対! 経済を守れ! 対話による平和を!」
国会議事堂を取り囲むすべての道路と歩道は、文字通り人間の黒い海によって完全に埋め尽くされていた。新しく結成された野党新党の呼びかけや、強力な支持母体が全国からバスを仕立てて動員した数万人のデモ隊が、色とりどりのプラカードや横断幕を掲げ、拡声器の音量を最大にして「断交反対」「平和を守れ」とシュプレヒコールをあげる。その声は地鳴りのように永田町のビル風に乗って響き渡っていた。
しかし、そのわずか数メートル先、警察の機動隊が配置した分厚い鉄製の大型車両の向こう側には、まったく引けを取らない規模の、日の丸の赤と白の旗を無数に掲げた保守派の群衆が押し寄せていた。
「春三総理の英断を支持するぞ!」「スパイ防止法を今すぐ制定しろ!」「中国の不当な恐喝に屈するな! 立ち上がれ日本男児!」
両者の怒号と罵声が国会前の交差点の真上で激しく衝突し、小競り合いが起きて掴み合いが始まるたびに、防弾ヘルメットを被った機動隊のホイッスルが鋭く、悲鳴のように鳴り響く。街全体が、まるで沸騰した巨大な大釜のように、内側からグツグツと不気味な音を立てて煮えたぎっていた。
その地獄のような喧騒の真ん中で、国会議事堂の内部では、戦後日本の政治体制を根底から覆す、歴史的な政界大再編が最終的な手続きを終えようとしていた。
日本民主党を離党した石橋元総理をはじめとするリベラル派のベテラン・中堅議員52名、旧来の共産党、改革連合の全議員、そして彼らに同調した数名の無所属議員が国会内の大ホールに集結し、電撃的な野党大合同による新党『新改革党』の結成大会が執り行われたのだ。
初代代表の座に就いた赤獅子は、詰めかけた何百人もの報道陣の放つフラッシュの光を浴びながら、演壇の古びた赤絨毯を強く踏みしめてマイクを両手で掴んだ。その眼鏡の奥の目は、怒りと使命感でギラギラと輝いている。
「国民の皆さん、報道関係の皆さん! 現在の春三政権は、自らの経済政策の失敗と、国会での度重なる失言を隠蔽するために、我が国を隣国との取り返しのつかない戦争の危機へと、意図的に、かつ狂気的に突き進めています! これは政治ではなく、国家的な心中行為だ! 我々『新改革党』は、良識ある160議席の強固なワンブロックとして、この独裁的な暴挙を国会内外で断固として粉砕する! 来るべき衆議院選挙は、対話と協調による平和な未来か、それとも独裁と断交による悲惨な戦争かを選ぶ、この国の歴史上、最も重要な分岐点である!」
野党側が「反戦・反断交」という強固な一枚岩の盾を掲げて結束したのに対し、官邸の奥深くに陣取る春三と翔鶴率いる与党側もまた、冷徹な生存をかけた計算のもとに素早く動いていた。
昨日まで風見鶏のように去就を濁らせ、与野党の間を行き来していた残りの無所属の有力議員3名が、翔鶴による執拗な裏工作と官邸での直接の説得に応じ、正式に与党連立への参加文書に署名したのだ。
「この未曾有の国難、東アジアの危機において、安全保障の議論から目を背けることは、政治家の職務放棄である。我々は春三総理の退路を断った覚悟を支持し、共にこの荒波を乗り越える」
彼らが加わったことにより、日本民主党(残留派)と全日本保守党、そして無所属を合わせた新しい与党側の議席数は、一気に「305議席」という途方もない数字へと膨れ上がった。
衆議院における憲法改正の発議ラインである「310議席」まで、あとわずか「5議席」に迫るという、戦後日本の政治史上、いかなる大物政治家も成し得なかったほどの巨大な「改憲・自立防衛」を掲げる怪物連立政権が、この混沌の夜に誕生した瞬間だった。
新聞各紙は号外を連発し、テレビの報道番組は朝から晩まで、予定されていたドラマやバラエティ番組をすべて吹き飛ばして『断交解散・東アジア危機』の緊急特別番組一色に染まった。
テレビのスタジオでは、元外交官や経済学者たちが「一瞬でハイパーインフレと経済崩壊が来る」「いや、今こそ中国のサプライチェーンから脱却し、南鳥島の資源開発を進めるべきだ」と互いの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで怒鳴り合い、インターネットのSNS上では一般の国民、現役の学生、企業のサラリーマン、市井の主婦に至るまで、文字通り国全体が右と左に真っ二つに割れて、激しい言葉のナイフを昼夜を問わず投げ合っていた。もはや日本国内のどこを探しても、この濁流から目を背け、無関係でいられる安全な場所など残されてはいなかった。
5. 二つの引き金
そして、東アジアの運命を決める、決定的な瞬間が訪れる。
東経125度、北緯38度。軍事境界線を挟んで張り詰めた空気が漂う、朝鮮半島の最前線。
デジタル時計の数字が、あらかじめ設定されていた深夜の特定の時刻を表示したその瞬間、平壌の地下総参謀部の最奥に置かれた、二十四時間厳重に監視されていた暗号受信機から、ガタガタと重々しい音を立てて一枚の極秘指令書が吐き出された。
純白の紙面には、最高指導者の直筆による太い万年筆の署名と、鮮血のように赤い共和国の国章が、冷酷な存在感を放ちながら捺印されていた。
総参謀長がその紙片を両手で恭しく、震える指で受け取り、眼鏡の奥の細い目をさらに冷酷に細めた。彼はゆっくりと振り返り、前線のすべての師団長へと繋がる、傍受不可能な地下有線回線の専用マイクを掴んだ。その声は、冷たい地下の空気を震わせた。
「全軍に通達する。……『特別軍事作戦』の最終執行命令を受領した。作戦発動時刻は、今から5日後の午前零時とする。各前線部隊、特殊作戦大隊、および砲兵連隊は、これより完全な無線封鎖を維持したまま、南への突入および一斉射撃の最終秒読み(カウントダウン)に入れ。祖国統一の歴史を我々の手で書き換えるのだ」
前線の漆黒の闇の中で、砲撃手たちが冷たい鉄の感触を確かめながら、152ミリ榴弾砲の信管にその手をかけ、暗視ゴーグルを装着した特殊部隊の兵士たちが、自動小銃の安全装置を静かに解除した。東アジアを地獄へ叩き落とすための軍事の引き金が、カチリと不気味な音を立てて、限界まで引き絞られた。
まったく同じ、その瞬間のことである。
東京・首相官邸の本館二階、大記者会見場。
集まった数百人の記者やカメラマンが放つ、目も眩むようなストロボのフラッシュの光の海の中、内閣総理大臣・春三が、一歩一歩、確かな足取りで臨時の記者会見場の演壇へと登っていった。その表情は、国会の議場で赤獅子や頭過から激しい追撃を受けていた時と同じく、完全に冷徹であり、自らの選択した茨の道に一点の迷いも抱いていない男の、凍りついた横顔をしていた。
春三は無数のレンズが並ぶ演壇の前に立ち、マイクの位置を軽く調整すると、真っ直ぐにカメラの向こうの、テレビやスマートフォンの画面を凝視している日本国民全員の目を射抜くようにして、その声を響かせた。
「国民の皆さん。我が国は今、戦後の歴史において最大の転換期、いや、国家の存亡をかけた本当の国難の最中にあります。他国の不当な圧力に怯え、経済の数字や目先の現状維持だけに汲々として、自らの主権を他国に委ねてきた古い体制の民主主義は、昨日、あの国会の議場で完全に死にました。我々は、自らの国の誇りと、未来の子供たちの安全保障を、他国任せにせず、自分たちの手で勝ち取らねばならない時代に突入したのです」
春三は一呼吸置き、その長い指で、紫の袱紗から取り出した重々しい書類を静かに広げた。
「本日、私は臨時閣議を招集し、衆議院総選挙の正式な日程を決定いたしました。公示は今月XX日、投票日はXX日。この国の形を根底から新しく塗り替え、戦後体制に終止符を打つ、我が春三内閣のすべてをかけた『断交解散』の決戦を、ここに公式に開始いたします。選ぶのは、主権者である皆さんだ」
日本の政治が放つ、言葉と主権という名の、目に見えない引き金。
そして、朝鮮半島の闇が放つ、硝煙と鉄血という名の、実体を持った軍事の引き金。
国境を越え、全く別の場所で、全く異なる思惑によって動いていたはずの二つの致命的な引き金が、この2026年夏の歴史の歯車の中で、完全に一つへと噛み合い、同時に、限界まで引き絞られた。
誰も見たことのない、極東の存亡をかけた、硝煙と謀略、そして国家のプライドが激突する選挙戦の幕が、ついに切って落とされた。
(第2話・了)
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