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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
エピローグ

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第52話 極東の暗影

 ベル歴995年、雷の月某日。


 オリガタ皇国中央島、『トキノ魔導科学開発局』の地下深く。外界の光も音も届かない、完全な密室空間。


 空間の中央に鎮座するオリガタの中枢システム【アケボノ】が、青白い光を静かに放ち続けている。


 その光に照らされるコンソールの前で、一人の女性が異常な速度で作業を続けていた。


「マナ波長の乱数化パターン、第十五万二千通り、失敗。……空間位相のズレを逆算し、レイシレベルでの乱数シードを再構築します。……だめです、また弾かれました」


 無機質な声を漏らしたのは、裏組織『エヴィス』の技術班「声の裂けヴォイス」の副官、ルネであった。


 彼女の目の下には濃い隈が刻まれ、眼球には無数の血走った線が走っている。両手に装着した手袋型の魔導デバイスから発せられる熱で彼女の指先は赤く変色しているが、痛覚すらも麻痺しているかのように、タイピングの速度は一切落ちない。大罪紋の影響により、自らの生命力を削ってでも解析を完了させようとする極限の集中状態にあった。


「……またか。先程まで捉えていたはずの基幹プロテクトの規則性が、なぜ急に乱れた」


 背後から、理知的で冷ややかな声が掛けられた。


 白衣を思わせる清潔な白いロングコートを纏った痩身の男。現場リーダーであるヴィクトル・ノヴァだ。


 彼の右目に装着された、モンサン製の特殊なモノクル型魔道具には、システムから抽出された膨大なデータが滝のように流れている。


「規則性が……変化しています。ただの乱数ではありません」


 ルネのタイピング速度がさらに上がる。魔導デバイスの鍵盤を叩く音が、静寂の空間に連続的な打楽器のように響き渡る。


「こちらの解析アプローチを認識し、それに合わせてレイシレベルでの位相を自ら組み替えているような……まるで、このシステム自体が意志を持って我々の干渉を拒絶しているかのような挙動です」


 ヴィクトルはモノクルの奥で微かに眉を動かした。


 単なる複雑な暗号ではない。侵入者の手を読み、その手口に合わせて防壁の形を流動的に変化させる。システムそのものが生きているかのように振る舞う。


「流石はオリガタの独自システム……いや、この『レイシ』という概念自体が、〝トキノ家〟の秘術といったところか」


 ヴィクトルの声には、苛立ちではなく、未知の技術に対する底知れぬ探求心と狂気的な執着が滲んでいた。


「マナ波長をレイシレベルで乱数化し、空間位相をずらすことで干渉を無効化する時空暗号。我々の技術体系には存在しない代物だ。鎖国の陰で、〝トキノ家〟という一族が独自に到達したこのブラックボックスは、世界の法則を根本から覆す可能性を秘めている。……この知の深淵を解き明かす過程そのものが、我々にとって至高の喜びですね」


 部屋の隅の暗がりから、屈強な体格を持つ男が進み出た。


 全身に魔導回路のタトゥーを刻み込んだ副官のザイードである。


「第三階層までの防衛術式、および空間圧縮トラップ、異常ありません。外部からの物理的な侵入者の反応はゼロです」

「ご苦労様です。引き続き、拠点の防衛を」


 ヴィクトルが短く応じた直後、背後の重厚な扉が音もなく開かれ、室内に静かな足音が響いた。


 豪奢な法衣を纏い、柔和な微笑みを浮かべた妖艶な女が、優雅な足取りで歩み寄ってくる。


 その後ろには、自分の身の丈ほどもある無骨な大剣を背負った少女が、無言で付き従っている。大剣の柄には、二つの円が複雑に絡み合うエヴィスの紋章が深く刻み込まれていた。


 ルーメン神教国第三席、慈愛の枢機卿レヴォンと、実行部隊の末席、第十六将のエンマであった。


「ご機嫌よう、皆様」

「これはこれは」


 ヴィクトルがコンソールから視線を外し、歩み寄る二人へと向き直る。


「日の光も届かぬ場所での作業……地下の空気は冷えませんこと?」

「お気遣い痛み入ります。わざわざこのような現場まで足を運ばれるとは。ですが、この底知れぬシステムが放つ熱気のおかげで、冷えることはありませんよ」


 ヴィクトルが恭しく一礼して応じると、レヴォンは優雅に頷いた。


「それに、ようやく手にした機会ですわ。マタディウス枢機卿のおかげで星辰のステラ・コロナを〝渡る〟すべを得ましたからね。逃す手はありませんわ」

「ええ。おかげで我々も、こうして極東の最深部まで入り込むことができました」


 ヴィクトルが応じると、レヴォンは室内のシステムを一瞥し、静かに問いを投げかけた。


「では、工作の進捗も順調ですの?」

「それが……、決して順調ではありません」


 現場の責任者であるヴィクトルの冷徹な報告に対し、レヴォンは慈愛に満ちた柔和な笑みを崩さず、上位者としての余裕を漂わせたまま応じた。


「あら?」

「申し訳ございません。先ほどルネも報告していましたが、このブラックボックスは想定以上に厄介です。完全に掌握するには、時間がかかるということです。……とはいえ、来年の秋までには、この【アケボノ】を完全に掌握したいと考えています」

「来年の秋、ですのね」

「ええ。……そちらの方は?」


 ヴィクトルが問い返すと、レヴォンは妖艶な微笑みを崩さず、僅かに眉を寄せて言葉を継いだ。


「残念ながら、こちらも決して順調ではありませんのよ。密偵たちを各地に潜伏させ、最適なタイミングで偽の情報を流し込んではいますが、オリガタの民たちの結束は想定以上に強固ですわ。まだ決定的な疑心暗鬼には至っていませんの」

「内部からの崩壊も、時間がかかるということですか」

「ええ。工作部隊が、北島のカムイ族と本島のクニツ族の間に亀裂を入れようとしていますが、未だ対話の余地が残されている状態ですわ」

「ですが、着実に種は撒かれています。むしろ、このシステムを掌握できれば内部崩壊は一気に加速するでしょう」


 ヴィクトルが淡々と応じると、レヴォンは静かに頷いた。


「ええ。貴方たちが完全に掌握する時期と歩調を合わせるなら、妥当な線でしょう。焦る必要はありませんわ」

「ええ。その時が来るまで、着実に進めましょう」

「ふふっ。……かつて手を取り合っていた同胞同士が、互いの幸福を妬み、傷つけ合う姿を見るのは、もう少し先になりそうですわね」


 レヴォンが愉しげに目を細めた、その時だった。


「失礼します、レヴォン様」


 音もなく、地下空間の暗がりから一人の男が姿を現した。


 漆黒の装束に身を包んだ男、第五将ムクロである。


「長老衆が滞在する集落周辺への細工、完了いたしました。周辺に本島の警備隊の遺留品を意図的に配置しております。夜明けと共に発見されれば、本島の仕業と疑うでしょう」

「ご苦労様ですわ、ムクロ」


 レヴォンが優雅に微笑むと、ヴィクトルが淡々とした声で応じた。


「見事な手際です。これで彼らの疑心暗鬼は決定的になるでしょう」

「ええ。重要なのは、誰がやったかではなく、誰を疑うか、ですね」


 ムクロは冷徹な声で応じ、言葉を繋ぐ。


「本島の仕業だと思い込めば、真実などどうでもよくなる。ヒトは、信じたいものしか信じない」

「頼もしいことですわね」


 レヴォンが優雅に微笑むと、ムクロが恭しく頭を下げたまま言葉を継ぐ。


「それと……」

「なにかしら?」

「海を隔てた隣国へと向かわせた別働隊からの定時連絡が途絶えました」

「マリノン海洋国……あそこには、この国の駐在大使であるタチバナが滞在しているはずです。彼を始末するための部隊でしたか」


 ヴィクトルが確認すると、ムクロが短く頷く。


「ええ。オリガタの守護魔獣であるギガ・ペリクスの卵を奪い、魔獣をルグラ島へとおびき寄せて標的を海に沈める手筈だったのですが……予定時刻を過ぎても、工作員はおろか、けしかけた魔獣がどうなったのかすら不明のままです」

「特級魔獣まで利用しておいて、失敗したか露見したか。いずれにせよ、あちらへ送り込んだのは捨て駒の数名ですわ。大局に影響はないでしょう」


 レヴォンは事もなげに言い捨て、背後の巨大なシステムへと視線を向けた。


「我々がこの中枢システムを完全に掌握しさえすれば、外界からの情報などどうとでも操作できますからね」

「ええ。それは分かっています」


 ヴィクトルが無表情のまま静かに頷く。


 レヴォンが穏やかに微笑む背後で、大剣を背負ったエンマは無言で立ち尽くしていた。


 彼女はまだ、この国で何もしていない。だが、その瞳の奥には常軌を逸した狂信的な光が宿り、ただレヴォンの影として静かに付き従っている。


「では、引き続き良き報告を待っていますわよ」


 レヴォンの優雅な声と共に、地下空間には再びシステムの駆動音と、ルネの異常なタイピング音だけが響き続けた。








第二部 「聖霊の試練編 上」 ―完―

 ご拝読ありがとうございました。


 これにて「箱庭と猫 第二部 聖霊の試練編 上」は完結となります。


 第3章で終わりと、話数的には少なく感じますが、文字数的には第一部と同じくらいになりました。


 一応予定通りではございましたが、早いよ、と思われた方には謝罪を。申し訳ない。


 それでは皆様、「箱庭と猫 第二部 聖霊の試練編 下」をお楽しみに!

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