4 兄上様との七つのお約束事
今朝の寝起きも最悪だった。
私は裏庭で一心不乱に剣の素振りをしながら、定期的に舌打ちをする。
あの腹の底まで真っ黒のドSコウモリめ。
毎度毎度ヒトを軽快にばかにしやがって。私の口が悪くなったのはあいつのせいだ!
悔しさを噛みしめつつも、夢の中で覚えた太刀筋を繰り返し、現実の体に覚えさせる。やられ損など我慢ならない。いつか必ず一刀両断にしてやる。
私は一振り一振りに丁寧に殺気を込め、朝の冷気を切り裂いていった。
「ライラお嬢様ー! そろそろお時間ですわよー!」
専属侍女のミミィに呼ばれ、最後に大きなため息を吐く。
剣をしまい、私は着替えのために屋敷に戻った。
手早くシャワーを浴びて真新しい学院の制服に身を包むと、ドレッサーの前に座らされた。ミミィが目を輝かせているのを見て、鏡の中の私はぶすっと唇を尖らせる。ミミィの奴、いつにもまして張り切ってやがる。面倒な。
「なんて顔をなさっているのですか。また悪夢を見ましたの?」
「別に。早くやれ」
「そう慌てずに……はぁ……っ! やっぱりお嬢様、見れば見るほどお美しいお顔! 社交界の至宝・プラチナの妖精と謳われたアルキュオン様にそっくりですわぁ!」
「……もう何千回も聞いた。似ているのは当たり前だ。母娘なんだから」
母譲りの長いプラチナブロンドの髪を触り、私はそっと鏡から目を逸らす。私は自分のエメラルドグリーンの瞳を真っ直ぐ見られないのだ。
「瞳の色以外は本当に瓜二つ! アルキュオン様が十四歳の頃を思い出してしまいますわ!」
「おい。私は今年で十六なんだが」
「この瑞瑞しい柔肌と初々しい制服姿、淡いピンク色の唇のなんて可愛らしいこと! ああ、結婚をやめてこのお屋敷に就職して本当に良かった! まさかアルキュオン様のご息女をわたくしのお人形にできるなんて……!」
「聞けよ」
私の頬に美容液をもみ込みながら、ミミィは恍惚とした表情を浮かべる。鼻息が荒くて怖い。この変態侍女め。
うぅ、早く終われー、じっとしてるのは嫌いだ。
……数十分後、凝った編み込みを羽根がモチーフの髪留めでまとめられ、薄い化粧を施された私が鏡に映っていた。流行中のヘアメイクに一手間加えたものらしいが、知ったことじゃない。
最後にハンドマッサージを受ける。治癒効果のあるオイルを入念にもみ込まれた。
「お嬢様。剣の鍛錬は程々になさってくださいませ。この美しい白い手にマメができるなんて、もったいなさすぎます」
ぷい、とそっぽを向く私。
自分の作品を見て満足げなミミィの視線から逃げ、食堂へ向かった。
「おはよう、ライラ。……今朝はいつにも増して可愛いらしくされたな。よく似合っている」
「おはようございます、兄上様……学院はおしゃれをして行く場所じゃないとミミィに言ってください」
「それはできない。約束事の一つだろう。我慢しなさい」
広々とした食堂の長い机には、私と兄上様――オルフェウス・シェリアークの席しかない。私はげんなりとした表情のまま、兄上様の向かい側の席に座る。
「…………」
ミミィも妙齢の女性なのだから、私ではなく兄上様に夢中になればいいものを。
艶やかな黒髪と透明感のある滑らかな肌、どこか冷めていながらも知的な青い瞳。中性的なその顔立ちは恐ろしく整っている。
給仕をする侍女たちが、あまりの神々しさに震えて涙ぐむほどだ。今月は兄上様に見惚れて何枚皿を割るんだろうな。
超のつく美形でミステリアスな雰囲気を持つ兄上様は、それはそれはおモテになる。この王国に三人しかいない次期大公だし、二十五という若さで“大賢医”の称号を持つ世界的にも有名な医術師だし、性格も穏やかで優しいんだ。
我が兄ながら、欠点はほとんどない。
「昨夜のラジオ、聞いていたか?」
「! はい!」
「ああ、ここ最近お前は光の日の放送を特に楽しみにしていたな」
アウリオン名物のラジオ放送、中でも異世界人のツバサくんが出る日は私だけでなく、王都中の人々が楽しみにしている。
ちょっと不憫で庇護欲を抱かせる彼は全王都民の弟的存在であり、若者たちのカリスマでもある。この半年で、彼の口からいくつの流行語が生まれたことか。
私もツバサくんのことを応援している。ごく平凡でまともな感性の持ち主、それでいて言葉の端々に人の善さがにじみ出ている。
この世界で彼が不幸になるようならば、我々は大いに反省しなければならない。
そんなあらゆる意味で注目のツバサくんが、昨夜の放送で私のことを話していた。そんなの、興奮せずにはいられないじゃないか。
学院で会えるのを楽しみにしながらベッドに入ったというのに、あのドSコウモリの夢のせいで台無しになったんだ。くそが。
「入学の儀のことは、王都の民にも好意的に受け入れられたようで良かった。皆、お前が実力で首席になったことを思い知っただろう」
兄上様は言う。
観戦中、上級貴族席で「学院長にどんな賄賂を贈ったのか」だの「うちの息子の方が立派に勇者役をこなせた」など、おおっぴらに陰口を叩いていた連中が、私の剣技と魔法を見て口を開けたまま凍りついていたらしい。
入学の儀での失態を、兄上様はあまり怒らなかった。
むしろ逆境の中でよく頑張ったと誉めてくれた。これは珍しいことだ。
……嬉しい。頬がにやける。
「傑作だった。『あなたのご子息と我が妹で模擬試合をさせてみようか』と提案したときの連中の顔は」
「もしその機会があれば、完膚なきまでに血祭りにあげてやります。シェリアークを侮辱する奴らには全殺しも辞さない構えです!」
私がちょっぴり誇らしげに宣言すると、兄上様の瞳がすっと細くなった。部屋の温度が下がる。
まずい。調子に乗って口が滑った。
「ライラ。つい先日人を殺しかけたことを忘れたのか?」
「わ、忘れてません。……さっきのは冗談です。ちゃんと舐めプ……ではなく、手加減して殿方に花を持たせます」
数秒後、兄上様は雰囲気を和らげた。セーフ。肝が冷えた。
「わざと負ける必要はない。だが、物騒なことを口にするのはやめなさい。シェリアーク家は医術の大家なのだから」
「はい、ごめんなさい」
素直に謝れば、兄上様が目を細める。侍女の一人が皿を落としたが、よくあることなので私たちは動じない。
「ところで、ライラ。お前が殺しかけたルルタという少年に、求愛めいた発言をされたそうだな」
「!?」
安心していたところに爆弾を放り込まれ、私はパンをのどに詰まらせた。
恥ずかしさとのどの痛みで顔がどんどん熱くなっていく。
「……久しぶりに私と交わした七つの約束事を復習しようか。学院での生活が心配になってきた」
私はリンゴジュースでパンの破片を流し込み、兄上様の冷たい号令に合わせて恐る恐る口を開く。
「一」
「ゆ、勇者を目指していいのは十八歳まで!」
兄上様の顔色を伺いつつ、私ははきはきと答えた。
二、学年総合一位を維持できなくなった時点で諦める。
三、思ったことをそのまま口に出さない。
四、身だしなみに気をつける。
五、社交界に最低限は顔を出す。
六、竪琴の練習は欠かさない。
「七」
「私の結婚相手は兄上様が決めます!」
「……よろしい。約束事を破り、目に余る言動をするようならば、学院は即退学。緊急時以外、剣を握ることも魔法を使うことも許さない。分かっているな?」
私は小さく頷いて、そのまま俯いた。
兄上様は私が勇者を目指すことに反対している。いや、この王国の全ての人間が許していないと言っても過言ではないな。
アウリオン王国は、二度と女性を勇者に選ばない。
実際に勇者を選ぶのは聖剣なのだが、心情的には誰も望んでいないのは確かだ。
シェリアーク家の中にすら私の味方は一人もいない。むしろ兄上様以外は私を疎んじ、無き者として扱っているくらいだ。
シェリアーク家は二百年以上かけ、女勇者ベガトリアスに傷つけられた名誉を回復してきた。それを私が勇者を目指すことで台無しにしようとしている。周りが冷たいのも無理からぬ話だ。
それでも私は勇者になることを諦めないし、条件付きとはいえ挑戦権を与えてくれる兄上様は優しい。
七つのお約束事の内容から、お分かりいただけるだろう。
ほとんどが貴族の令嬢として当たり前のことだ。兄上様は私にめっぽう甘い。
いわゆるシスコン……これが完璧超人である兄上様の唯一の欠点だろう。
私は兄上様の視線から逃げるように、スクランブルエッグを見つめた。
「でも兄上様、別にあんなの、ただの軽い冗談だと思います。真に受けてないし、全然意識とかしてません。だから、大丈夫です」
あの少年、ルルタは言った。
ライラにふさわしい男になる、と。
私も見くびられたものだ。
まさか一代で大公爵まで登りつめるとでも?
田舎の村人風情が、身の程知らずもいいところだ。私の身分に釣り合う男なんてこの国には両手で数えられるくらいしかいないというのに。ちょっと強いからって調子に乗るなと言いたい。
……でも、堂々と言い切って笑った様は、男らしくて素敵だったな。
あまりにもかっこよすぎたから、恥ずかしくて逃げ出してしまったくらいだ。
気付けば、無意識に両手で頬を押さえていた。顔が火照っていたのだ。対照的に、兄上様の視線が絶対零度になっている。
……あ、これはアウトだ。ヤバい。
私があわあわしていると、兄上様は小さくため息を吐いた。
「あのラジオのおかげで、魔王役の少年が要らぬ中傷を受けることはないだろう。怪我も大したことなく、すでに全治している。もうお前が気にかける必要はない。今後、接触は控えなさい」
ルルタの入学の儀での暴挙は不問になったようだ。一歩間違えれば「入学の儀を利用した大公令嬢暗殺未遂」の容疑で投獄されていてもおかしくはないのだが、ルルタに嘘を吹き込んだ人間がいることが複数名の証言から明らかになったらしい。
「……犯人が分かったのですね。どこの家の者ですか?」
「お前が知る必要のないことだ。既にしかるべき処理をしてある」
尋ねておいてなんだが、私もあまり興味はない。シェリアーク家や私個人への恨みや妬みを抱き枕にして眠れぬ夜を過ごしている連中は星の数ほどいるだろうからな。
そんな有象無象になど興味はない。
ただ、利用されたルルタのことは哀れだと思う。
だからラジオで彼の無実が広く知れ渡ったことは良かった。私は悪口に慣れているが、彼はそうではないだろうからな。
「とにかく、不用意に彼に近づかないように」
普段は物静かな兄上様がやけに釘を刺してくる。私の気持ちを見透かしているようだ。これはもう逃げるしかない。
「分かっています。そろそろ登校する時間なので失礼します」
「待ちなさい」
「まだ何か?」
むっとして兄上様を見ると、残酷なほど美しい微笑みを浮かべていた。背筋に悪寒が走る。
「学院の上層部には、それとなく『私は妹が学院に通うことを望んでいない』と伝えてある。その結果起こることを覚悟しなさい」
「っ!」
嫌われ者の私と違って、兄上様は王国の将来を担う立派な人間だ。その発言力、影響力は強大である。
覚えが良くなりたい、恩を売りたいと、みんなが兄上様が望み通りに動こうとする。
「これも愛情の形だと、お前ならば分かってくれると信じているよ」
「……行ってまいります」
私は振り返らずに、シェリアークの屋敷を後にした。




