2.
チュンチュンと喧しくさえずる小鳥の声で意識が浮上する。空の色が薄くなる頃に寝付いたからすごく眠かったけど、今日もやることが山積みなので寝台の中で思い切り伸びをしてから起き上がった。
何とか身支度を整えて、大家でもある『グルナディエ』店主夫婦の住む母屋に向かう。長屋には簡単な洗面がついているけど炊事場とお風呂はついてない。なのでお風呂は町営の共同浴場へ、食事は母屋で食べるか、屋台でお弁当を買ってくるかだ。おかみさんは忙しい人なので下宿の子達で分担して家事もやる。最初のうちはそこまでしなくてもって遠慮していたけど、最近は「花嫁修業ご苦労さん」と笑ってやらせてくれている。
「おはよう!」
「おっはよー、フェリシア!」
「今日の朝ごはんは何?」
「仕入のあまりでお芋のクリームサラダと、とれたて卵のオムレツ。あと茹でたてぷりぷりの腸詰」
「わー豪華。朝から腸詰なんて久しぶりじゃない?」
私は目の前に置かれたお皿を見てお腹がぐぅ、と鳴った。
「物流の流れが本格的に変わったらしいよ〜」
「先週の皇子様ご来訪のおかげじゃない?」
「母なる精霊様、今日の糧をありがとうございます。素晴らしい腸詰をくださった皇子様に感謝します」
隣に座る友達が神妙な顔で祈りを捧げていたので笑ってしまった。私も同じように感謝の祈りを捧げてさっそくゆでたての腸詰に手を付ける。ぱりっとした皮がはじけて、甘い香辛料の風味と香草がほんのり効いた肉汁がじゅわっと口いっぱいに広がった。
「ん、おいし。角のエンリコおじさんのとこのやつ?」
「当たり。よくわかったね」
「バジルちょっと控えめ、南方大陸のナツメグ? だっけ? ちょっと甘い匂いのする香辛料が入ってるのは南部地帯だけだからね。エンリコおじさんフィア・シリス王国の肉職人でしょ。いいよねー、美食の都。一回でいいから行ってみたいな」
「美食家フェリシアだね」
「オムレツふわふわでとっても美味しい。ミナはいいお嫁さんになれるね」
「ありがと!」
楽しくおしゃべりしながら朝食を終えて私は市場に出かけることにした。今日は久しぶりのお休みだからのんびりしたいところだけど、休みの内にやっておきたいことがたくさんだ。個人で請け負っている縫物の資材が底をつきそうだし、読みたい貸本の続きが入荷する頃合いだから貸本屋にも行きたい。あと夜食用の日持ちする焼き菓子も買わなきゃ。
自分で襟に青い小花の刺繍を入れた白いブラウスとココア色のロングスカートに着替えて、背中の半ばまで伸びた茶色い髪を青い小花柄のスカーフで纏めると、借りていた本を籠に入れてさっそく市場へ向かうことにした。
「こんにちはー」
元気よく挨拶して貸本屋さんの暖簾をくぐる。ここ数年でずいぶんこの町にくる人が増えたから、市場にはいろんなお店ができた。
「いらっしゃい、フェリシアちゃん。続き、入ってるよ!」
店主のおじいちゃんから、私が楽しみにしている冒険小説の続きを受け取った。
「おじいちゃん、全部運んでおいたよ」
奥からどこかで聞いたような、若い男の人の声がした。
「おお、すまないねぇ。今日の入荷は重たい箱ばかりだったから助かったよ」
店主のおじいちゃんは店番用の机からお金を取り出そうとする。その気配に気づいたのか、奥にいた人が慌ててやってくる。
「いいって、お代なんかいらないよ。人助けなんだから。あ」
「あ」
棚の奥から姿を現わしたのは、酒場で会った男の子だった。今日も黒ぶちの眼鏡だけど前と違って腰に細身の剣を挿していた。
「いや、でもなあ。この間から色んなお店で手伝っているんだろう? しかもタダで」
「いいのいいの、じゃ、俺はこれで!」
ニコッと私に笑いかけて、男の子はさっと店から出て行ってしまった。私と店主のおじいちゃんは顔を見合わせて、揺れる暖簾を見た。
「お、追いかけようか?」
「あっという間だね、噂通りだ」
「噂って?」
「最近ね、彼があちこちのお店で助っ人してくれるんだよ。今みたいにお代を渡そうとすると素早く逃げてしまうから、とうとう猫の手君というあだ名がついて」
「ぷっ、猫の手も借りたい時に来てくれるから?」
「そうそう。お腰に立派な剣を挿しているからどこかの騎士じゃないかと皆で噂してるよ」
「ふーん、面白い!」
私はひとしきりお喋りしてから、友達のために新しい法令書と兵法書、恋愛小説、それから自分用の本の続きを借りて貸本屋を出た。次は布屋さんのある問屋街に行かなくちゃ。仕入が終わったら、ちょっと早めのお昼を食べて、お菓子を買って帰ることにした。
市場は先週に比べると本当に活気づいていた。どこも人や物で溢れ、お店の呼び込みですごく賑やかだ。物流の流れが変わった、と言っていたからこれは皇子様のおかげなのかもしれない。お味方が少ないって聞いたけど、それでも私達民のために頑張ってくださっているのかと思うと頭の下がる思いがした。
「こんにちは〜」
「いらっしゃい、フェリシアちゃん。今日は親方のおつかい?」
「ううん、お休みなの。今日は自分用の材料の仕入れ」
馴染の布屋のお姉さんと話しながら必要な布や糸、針を揃えてもらう。
「ねえ、聞いた? 最近、黒騎士様が時々この町に来られてるって噂」
「初耳。黒騎士様って、剣聖様?」
「ううん、若様よ。私服でいらしてたからお忍びじゃない?」
「若様のお忍びかぁ」
「私もさっきチラッとお姿を見たけど、やっぱり素敵よね」
「いいなぁ、私も一度お姿を見てみたいわ。仕事ばっかりしてないで、たまには街歩きもしなきゃダメかしら」
「そうしなさいよ。出会いは自分から求めてかなきゃ」
「今は自分の夢のために頑張りたいの。これ全部ください」
「話聞いてた?! っとにもう。全部でそうね……、百二十ナルね」
「えっ、安すぎない? 私、その倍は今日買ってるんだけど」
「あなたの納めた手巾とブラウスが良い値で売れたのよ。そのぶんおまけしてあげる。どんどん腕が上がっているんじゃない?」
「そう、かな。そうだったら嬉しい! どうもありがとう!」
「またごひいきに」
意気揚々と布屋を後にして今度は飲食街へ。かなり安く材料が買えたおかげで結構お金が余ったから、少し奮発してお店に入るのもいいかもしれない。お昼の鐘が聞こえてきて私は足を速めた。
「ちょっといい? 道を教えてもらいたいんだけど」
「はい?」
振り返ると着崩した軍服姿の男の人達が、何だか感じの悪い笑い顔で近づいてきた。不安を覚えて胸に抱えた荷物をぎゅっと抱きしめた。三人の男の人に囲まれて、しつこく食事に行かないかとうらぶれた歓楽街の方へ私を引っ張っていく。昼間なら大丈夫と思って裏道を通った自分の迂闊さを呪った。
「あー、いたいた。どこ行っちゃったかと思ったよ」
優しい声とともに、スッと目の前に白いシャツの後ろ姿が現れた。
「すみません、俺の連れに何かご用ですか?」
「連れ? 嘘つけ、この女ずっと一人で歩いていたろうが」
「俺達は西方諸侯の騎士だぞ。町人風情がそんな細い剣で何ができるんだ」
「それは失礼しました騎士様。見た所、襟に騎士勲章がないようですが、どちらのご所属でしょう?」
「……ちっ。おい、やっちまうか」
「女は連れて行こうぜ」
下卑た笑いと共に男達が剣を抜いた。目の前にいる彼がやれやれ、といったようにため息をついて「こんな安い挑発に乗るなよ、馬鹿な奴」と呟いた。それから一瞬身をかがめたかと思うと、すぐそばまで来ていた男の腹に彼の長い足がめり込んだ。身を二つに折って苦しそうにえづく姿に男たちが怯む。
「次」
せせら笑う彼が気に障ったのか二人が同時に斬りかかってきて、私は思わず悲鳴を上げて目を瞑った。何か重いものを蹴る連続音、くぐもった悲鳴、剣が地面に落ちる音。バタバタと走って逃げる音。遠くから呼子の笛の音が聞こえて、肩をとんとんと優しく叩かれた。
「フェリシアさん、だよね? もう大丈夫だよ」
顔を上げると眼鏡ごしに見える少し垂れた瞳が懐っこそうに笑った。
「け、怪我は!?」
「ないよ。あちらさんは俺の靴型の痣ができたかも」
思わず座り込むと荷物がぼとぼと落ちた。見かけによらずこの人すごく喧嘩が強い。抜剣した相手に素手で立ち向かうなんて無茶が過ぎる。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫。あの、助けてくれてどうもありがとう」
「う、いや、俺が挑発しなきゃああはならなかったし。こっちこそ怖い思いさせてごめんね。立てる?」
派手に散らばせた荷物を手早く拾い上げて籠に入れてくれる。私がお気に入りの冒険小説を手に取ると「続き出たんだ」とニコッと笑った。
「俺さ、忙しくてまだ第一巻しか読んでないんだよね」
「そうなんだ。あの、失礼だけど名前を聞いてもいい? お店に来ていた人よね?」
「あれ、まだ名乗ってなかったっけ? 俺はジュスト。趣味は助っ人です。ところで暇?」
「ぷっ。今日はお休みなの」
「良かった。怖がらせたお詫びに昼飯をおごらせてよ」
「え、そんな、いいわよ。助けてくれただけで十分だし、お礼するのは私の方で」
「それならお礼に俺と昼飯を食べてよ、俺のおごりで」
そのおどけた言い回しに私は思わず声をたてて笑った。何処の世界にお礼に食事をおごる人がいるんだろう。憎めない彼の言動に頷くと、何だかとても嬉しそうに私の籠を持って歩き出した。
「町が大きくなったせいかな、あんまり治安良くないみたいだね。昼間でも裏道とか人気のない場所は避けた方がいいよ」
「そうね、気をつけるわ」
広場に続く道に出ると人でごった返していた。ちょうど昼時ということもあってどこのお店も大盛況だ。
「一人でフラッと来た時に開拓してるんだ。今日はここにしようかと思うんだけど、いい?」
ぴたりと足を止めたのは東部地帯の郷土料理のお店だった。鶏肉と旬のお野菜を赤ワインでじっくり煮込んだお料理で、茹でたお芋か平打ちパスタを添える素朴な一品だ。どうしてここにしたのかわからないけど、背の高い彼についてお店の入り口をくぐった。
「二人なんだけど、席あるかな?」
「少しお待ちください。って、フェリシア?! なに、こっちの彼と逢引?!」
「え、えぇえ! ち、違うよ」
「えっ違うの?!」
驚くジュストの様子に、給仕係の友達が吹き出しながら「すぐ用意しますね!」と笑って、私に片目を瞑って窓際の二人掛けの席を片づけに行った。手際よくお皿を下げて、布巾でさっとテーブルを拭いて私達に合図する。
「俺は鶏肉のワイン煮込みに麺つけよっと。フェリシアは?」
「同じお料理でつけあわせをお芋にしてもらっていい?」
「了解。すみませーん、注文お願いしまーす」
けして大きな声じゃないのに彼の声はすごくよく通る。音楽家だって言ってたから声量があるのかも。ふと私は彼のことをほとんど知らないということに気が付いた。猫の手よろしく色んなお店で助っ人をして、この町にある定食屋を制覇しようと思ってる?
呼ばれた給仕係の子がお冷を運んできて私達の注文を受けるとせわしく厨房へと戻って行った。ぼんやりと彼の横顔を眺めていると、こちらをパッと見たジュストの瞳とばっちり目があった。明るい所で見ると透き通るような翡翠色の瞳をしている。眼鏡ごしだと黒みがかった緑色に見えるからとても不思議な気がした。
「この町は色んな所から腕自慢の料理人が集まってるけど、いまのとこ『グルナディエ』が俺のなかで一位かな。美味しくて量多くて、何か懐かしい味がする」
「よかった、気に入ってもらえて。また来てね」
「うん。来週行かせてもらうよ」
「ね、流しの音楽家なんでしょ? 何が得意なの?」
「六弦リュート。歌の伴奏から舞踏音楽まで幅広く」
「わ、すごい。吟遊詩人みたいね、リュートで独奏だなんて」
「まぁね。懐が寂しい時はそのへんで拾った空き缶を、こう足元のとこに置いてさ」
とても心地よい優しい声が剽軽な話を次々披露する。私はいちいち笑わせてくるジュストのせいで昼食を食べるのに難儀した。彼の明るく懐っこい性格のおかげもあるけど、同じ年ということもあって、打ち解けるのにさほど時間はかからなかった。彼の優しい声が私の名を呼ぶたびに胸の奥がほわんと暖かくなる。これは何かしら? もしや恋? まさかね。おととい初めて会って、ちゃんと話すのは今日が初めてなのに。
美味しい昼食を終えると「野暮用があるんだ」と気乗りしない風に、私が行こうとしている市場と真逆の方に歩いて行った。結局、ジュストのことはリュートが得意ということしかわからなかった。南部地帯出身の親父さんお料理が懐かしいというのなら、彼はきっと南部地帯の生まれに違いない。今度会う時は楽器を持ってくると言っていたから、その時にでも色々聞いてみよう。
サラサラの茶色の髪をなびかせて雑踏に消えた背の高い後ろ姿を見送って、本日の重要任務「夜食用のお菓子購入」をこなすべく市場に続く道へと力強く踏み出した。