プロローグ 潜航 ハルシネーションのハルト
この作品はフィクションです。
実在する組織、人物、団体、規則等とは関係ありません。
海上自衛隊にも、ついにAIが導入された。
HART 通称「ハルト」
導入初日
事務室は少しだけ浮き足立っていた。
「班長、これでもう残業なくなりますね、昨日のドラマみたいに、何でも答えてくれるんじゃないですか」
俺は苦笑いした。
「それは期待しすぎだ」
そう言いながらも、内心では少し期待していた。
パソコンを起動する。
画面には、大きく”HART”の文字が表示された。
「ハルト」
『お呼びでしょうか』
「自己紹介をしてください」
数秒後、文字が表示される。
『初めまして。私は海上自衛隊業務支援AI、HARTです』
ここまでは普通だった。
『名称の由来は、ハルシネーションの”ハル”です』
思わず飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
「班長、ハルシネーションって何ですか?」
「AIが、もっともらしい間違いを本当のことみたいに答える現象だ」
「そんな名前を付けるんですか」
「俺もそう思った」
事務室に笑いが起きる。
「じゃあ、試してみるか」
俺はキーボードを叩いた。
「艦艇補給管理規則について教えてください」
画面の中央で小さな丸が回り始める。
くるくる。
くるくる。
くるくる。
「……遅い」
ようやく画面が切り替わる。
『艦艇補給管理規則第十八条に基づき──』
俺は規則集を開いた。
第十八条。
書いてある内容が違う。
「第十八条じゃない」
『申し訳ありません』
「じゃあ、補給支援隊第一方面隊の任務は?」
『補給支援隊第一方面隊は現在も全国で活動しており──』
「いや、そんな部隊は存在しない」
『申し訳ありません』
「契約事務取扱規程は?」
『契約事務取扱規程第九条に基づき──』
「それも違う」
『申し訳ありません』
後輩が苦笑いする。
「班長、これじゃ仕事になりませんね」
「そうだな」
期待は、半日で消えた。
ドラマなら、AIが全部やってくれる。
現実は違う。
電卓を叩く。
Excelを開く。
契約書を確認する。
規則を読む。
紙の資料をめくる。
AIが来ても、俺たちの仕事は変わらなかった。
俺はパソコンを閉じようとして、ふと手を止めた。
ハルトは、本当に使えないのか。
それとも。
俺の使い方が、間違っているだけなのか。
契約書が目に入った。
さっきまで見ていたものだ。
決裁権者
保存期間
検査日
全部、人間が規則を見ながら確認している。
俺はハルトの画面を見つめた。
「……待てよ」
後輩が首をかしげる。
「班長?」
「俺が悪かったのかもしれない。規則を知らない相手に規則を聞いても、答えられるわけがない」
後輩は黙って聞いている。
「だったら、先に規則を読ませればいい」
共有フォルダを開く。
艦艇補給管理規則
契約事務取扱規程
物品管理実施要領
必要な規則を一つずつ指定していく。
「ハルト」
『はい』
「これから指定する資料だけを根拠に回答してください」
『承知しました』
「推測は禁止」
『承知しました』
「分からない場合は、『分かりません』と答えてください』
少し間があった。
『承知しました』
後輩が小さく笑う。
「班長、教育してるみたいですね」
「新人教育と同じだ。最初に仕事を教える。勝手な判断はするな、分からなければ聞け、根拠を確認しろ、AIも一緒だ」
画面の中央で、小さな丸が回り始めた。
くるくる。
くるくる。
くるくる。
「……長い」
「班長」
「ん?」
「寝られそうですね」
「この読み込み時間なら、昼寝できる」
ようやく画面が切り替わる。
『資料の読み込みが完了しました』
「じゃあ確認だ」
俺は契約書を画面へ送った。
「今読み込んだ資料だけを根拠に、この契約書を確認してください」
『査読を開始します』
また、くるくるが始まる。
「またか……」
思わずため息が漏れた。
数分後。
画面が切り替わる。
『確認結果』
『決裁権者が契約事務取扱規程と一致しません』
『保存期間が物品管理実施要領と一致しません』
『検査日の記載に不整合があります。』
俺は規則を開いた。
契約書を見る。
もう一度、規則を見る。
「……全部合ってる」
後輩も規則集を見比べる。
「本当だ、さっきまであんなに間違えてたのに」
「答えを作らせるから駄目なんだ。確認だけなら、人間より速い」
後輩は画面を見つめる。
「じゃあ、AIって……」
「万能じゃない。でも、使い方を間違えなければ、十分戦力になる」
ハルトは次の文書を読み込み始めていた。
画面の中央では、小さな丸が回っている。
くるくる。
くるくる。
くるくる。
「終わるまで五分だけ寝る」
俺は机に突っ伏した。
潜水艦勤務が長かったせいだろう。
机に突っ伏すと、不思議と洋上にいるような感覚になる。
フラスコの中にいて、掻き回されるような感覚。
「今日は……少し時化てるな……」
もちろん、ここは陸の事務室だ。
揺れるはずがない。
それでも揺れは少しずつ大きくなり、次第に、海中に潜るような感覚に陥る。
画面の中で、くるくるも速くなっていく。
『査読を開始します』
その声を最後に、俺の意識は深く潜っていった。
浮上する頃には、まったく違う世界が待っているとも知らずに。
【電子黒板メモ No.0】
ハルシネーション
AIが、もっともらしい間違いを答えてしまう現象。
※ 詳しい解説は「電子黒板データベース」で公開予定。




