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小説 長谷川宣以 悪の職 1745-1795  作者: 山田 誠一


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第九章:理想の黄昏


寛政五年(1793年)の夏。

江戸城から吹き抜ける風の匂いが、にわかに変わり始めていた。


宣以が愛用する真鍮の時計を磨いていた時、役宅の執務室に、血相を変えた酒井祐助が飛び込んできた。その手には、江戸城の御用部屋から発せられたばかりの、極秘の写しが握られている。


「頭! 大事にございます! 城内にて、地殻変動が起きました!」


「落ち着け、酒井。定信公が退陣されたか」


宣以は筆を置くこともなく、淡々と応じた。


「えっ……ご、ご存知だったのですか!?」


「数字を見ていれば、誰でも分かる」


宣以は机の上に、ここ数年の幕府の財政出納と、市中の物価の推移を記した表を広げた。



「定信公の倹約令は、確かに幕府の金蔵を一時的に満たした。だが、それは同時に、江戸の経済という血流を完全に止める止血帯となってしまったのだ。札差の資金を凍結し、民の娯楽を奪い、ひたすら出費の削減という引き算を続けた結果、何が起きたか。市場からは活気が消え、困窮した旗本や御家人の怨嗟が城の石垣を揺るがすに至った。至誠という名の理想論は、現実の経済にねじ伏せられたのだ」


松平定信公という当代随一の理想主義者は、自らが厳格に敷いた道徳の檻に、自らが囚われる形で老中の座を追われた。

宣以は深くため息をついた。定信公の私欲なき至誠、国を正さんとしたあの気高さは本物であった。その尊いお心が、泥まみれの人間社会という怪物に敗れ去ったのは、誠に痛ましい限りである。なれど、あまりに清らかな正義は、この泥にまみれた世を動かす燃料にはなり得なかった。それが、宣以が導き出した結論であった。


「……では、我が寄場はどうなるのでございますか。定信公の後ろ盾を失えば、鳥居耀蔵らが再び……」


「逆だ、酒井」


宣以はここで初めて筆を置き、不敵な笑みを浮かべた。


「定信公という絶対的な管理者が消えた今、幕府の役人どもは、自らの手で財政を回す論理を失して立ち往生している。そこでだ、粂八」


闇から姿を現した粂八が、深く一礼する。



「寄場で積み上げてきた、独自の財政帳簿を勘定所に持っていけ。今や、石川島は一文の国費も使わず、年間数千両の利益を上げながら、江戸の基盤を無償で維持している。この実績の数字を、新しく御用部屋に座る老中たちに見せてやるのだ」


「なるほど……お上の財政が火の車だからこそ、この勝手に富を生み出す箱を、彼らは喉から手が出るほど欲しがる訳ですな」


「その通りだ。これまでは不穏な抜け穴と見なされていた寄場が、明日からは幕府の財政を救う至高の模範へと反転する。構造の勝利だ」


数日後、勘定所から届いた達しは、宣以の予測を完全に実証するものだった。寄場の取り潰しどころか、長谷川宣以の「人足寄場取扱」の兼任を正式に認め、その運営方針を幕府の永久的な制度として法制化するという通達であった。


お上の都合や権力者の胸三寸で変わる政治に対し、宣以は社会の需要に完全に適合した自立する構造を創り上げることで、完全な勝利を収めたのだ。

その夜、宣以は一人、石川島の泥土手に立っていた。大川の向こうに広がる江戸の夜景は、定信公の倹約令から解き放たれ、再び怪しいまでの活気と灯りを取り戻しつつある。


寄場の長屋からは、明日の作業に向けて静かに寝息を立てる人足たちの気配が伝ってくる。かつて社会から不要の者として処理されかけていた数千の命が、今、この島で確かに息づき、明日の己の給金のために仲間のために腕を磨いている。


定信公、あなた様の理想とした美しい世は終わりました。ですが、泥の中から引き揚げたこの人間たちの理は、あなた様が去ったあとの江戸を、これからも静かに支え続けます。


宣以は懐から時計を取り出し、月の光に掲げた。


(最終章に続く)

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