最終章:石川島人足寄場
一
寛政七年(1795年)初春。
火付盗賊改方の役宅、その一角にある執務室で、宣以は深い椅子に身を沈めていた。かつて江戸の悪党どもを震撼させたあの巨躯は、長年の激務と病魔によって、にわかに削ぎ落とされている。だが、机の上に置かれた真鍮の時計を見つめる鬼の眼の鋭さだけは、いささかも衰えていなかった。
「頭、お薬を持って参りました」
酒井祐助が、静かに、しかしどこか沈痛な面持ちで部屋に入ってくる。今や酒井も髭を蓄え、現場の数字を冷徹に見極める立派な組織の長へと成長していた。
「酒井、薬など要らん。それよりも、石川島の今月の帳簿を見せろ」
宣以は掠れた声で、しかし明確に命じた。
二
差し出された帳簿には、寸分の狂いもない数字が並んでいた。
現在、寄場に収容されている人足は三百名を超え、彼らが市中の土木工事や瓦製造で得た純利益は、幕府の財政を大きく潤している。さらに特筆すべきは、寄場を満期で出た人間のうち、再び罪に手を染めて伝馬町へ戻った者は、全体のわずか一分に過ぎなかった。
「……見事なものだな」
宣以は満足げに算盤の珠を撫でた。
「この仕組みさえ生きていれば、人は救われ続ける。お上の気まぐれな道徳ではなく、利害と規律の歯車が、江戸の闇を払い続けている証拠だ」
そのとき、部屋の障子がかすかに揺れ、粂八が闇から滑り込んできた。その顔には、いつにない緊張の色が浮かんでいる。
「頭、城内より急報にございます。長谷川様のこれまでの功績を称え、御用部屋より本役への昇進、ならびに加増の打診が参りました。役人ども、今や頭の理財の力を頼り切って居ります」
酒井の顔が歓喜に和らいだ。
「頭! ついに、お上が頭の正しさを全面的に認めたのですな!」
しかし、宣以はただ、低く笑っただけだった。その笑みには、この世の不条理をすべて見通したかのような、深い諦念と達観が混ざり合っていた。
「遅すぎるのだよ、酒井。そして、お上という生き物は、どこまでも強欲だ」
宣以は机の上の真鍮の時計を手に取った。
「俺が本役になれば、寄場は完全に幕府の官僚組織の中に組み込まれる。そうなれば、役人どもはまた、形式主義と保身のためにこの美しい歯車を歪めるだろう。この制度が最も健全に回るのは、現場の人間が、お上の目の届かぬ境界線で命を削って差配しているときだけだ」
三
宣以は、自らの引き際を、すでに数理的に計算していた。
彼は懐紙を取り出すと、筆を執り、一筆の書状を認めた。それは、役職の辞退届、ならびに自身の隠居を願い出る最後の建言書であった。
「頭……! なぜでございますか! これからというときに!」
酒井が声を荒らげる。
「俺の役目は、新しい火種をこの江戸の地に植え付けることだった。その火種は、すでに石川島の土深くへ根を張った。あとは、俺という老いた鬼が消え、お前たち若い血が、その仕組みをただ保守していけばよい。人間一人の英雄譚など、時の流れの前には無意味だ。残るべきは、制度の実証のみだ」
宣以は、粂八と酒井の二人を交互に見つめた。
「粂八、お前はこれからも泥の底を買い、仕組みから零れ落ちそうな奴らの声を拾え。酒井、お前は机の上で算盤を弾き、お上の理不尽から寄場の金を命懸けで守れ。……それが、俺の最後の頼みだ」
「……御意」
二人の目から、大粒の涙が畳へと落ちた。
同年五月、逝去。享年五十。
その死は、お上の記録には「一人の有能な武官の病死」として淡々と記されたに過ぎない。しかし、石川島の寄場では、その日、三百人の人足たちが一言の私語もなく、ただ黙々と油を絞り、瓦を焼き続け、その目から涙を流して死を悼んだ。
それから十年の歳月が流れた。
文化の世。江戸の街は、かつての寛政の厳罰が嘘のように、民衆の活気に満ち溢れていた。
隅田川の河口には、さらに拡張された石川島人足寄場が、今も変わらず、江戸湾の潮風を受けて佇んでいる。
寄場の大門から、一人の若い男が、真新しい大工道具の箱を背負って出てきた。かつて無宿人として捕らえられ、この地で腕を磨いた男だ。男の懐には、寄場で積み立てられた正当な給金が、ずっしりと収められている。
男は、門前で出迎えた年老いた町代たる粂八と、立派な役服を着た火付盗賊改の頭となった酒井に向かって、深く頭を下げた。
「お世話になりました。明日から、深川の長屋で一本立ちして参ります」
「行け。もう二度と、ここへは戻るなよ」
酒井が、かつての宣以のような、太く温かい声で微笑んだ。
男が江戸の賑わいへと歩き出していく。その背中を見送るように不条理の川の向こう、黄金色の夕日が、隅田川の水面をどこまでも温かく照らし続けていた。
(「悪の職」・完)
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