第一話 【終わりのはじまり】
「—————い。あ—————こん———って・・・。でも、———————しか———・・・。さぁ、————して?」
——誰?なんて言ってるの?
分からない。何かを言っているのは聞こえる。けれど、その声が何を言いたいのか、誰の声なのか、何も分からない。ただ、きっとその声はサーシャにとって大切な何かなのだと言う事を、頬に伝う一滴の心の欠片が告げていた。
悲しさとも苦しさとも違うその心の欠片は頬を滑り落ち、そのまま地面に触れて波紋を生み出す。その波紋は、瞬く間に伝播し、波となり世界を揺らす。そして世界はやがて崩壊を迎え、奈落の底へと崩れ落ちていった。
足場を無くした少女と共に。
(え!?やばくない!?このままだとアタシ死ぬんですけど!?嫌なんですけど!?)
永遠に終わりがない様にすら見える奈落の底への自由落下。
生き残る術が無いものかと辺りを見回す少女だったが、そんな心配は無用に終わった。
ビクンッという身体の鳴動により、意識が現実へと引き戻された事によって。
目の前には椅子と制服を着たエルフの同級生、どうやら先程迄の世界は夢で、今いる場所は教室なのだろうとサーシャはほっと一息をついた。
ここはエルフの森、ロングレイス大森林の一角に位置する木造の平屋、エルフの子供達が通う魔法学院だ。
この魔法学院にはエルフとして産まれたすべての子ども達が通っており、一クラス二十五人、計四クラスの生徒達全員が日々、魔法の研鑽に励んでいる。
そんな学院にサーシャも生徒として通っていた。
「やっと目が覚めたのか?」
まだぼやぼやする頭の中に先程までとは違う、明瞭で低音の心地良い音がするりと入り込んでくる。
心地良い低音の主は、ヴォルグ・イェッタ。肩にかかる長さのブロンドの髪をヘアピンで耳にかけ、綺麗な白のシャツと灰色のパンツに白衣を羽織ったサーシャ達の先生だ。
寝惚け眼を擦りながら目を向けると、サーシャはこちら側にやってくる先生を視認する。
そこで漸く微睡から抜け出すことに成功したサーシャは、同時にこれから起こりうる事態に気付き、咄嗟に額を手で覆おうとする。が、間に合わない。
バチンッという音と共にその骨ばった指から繰り出される殴打は見事、おでこにクリーンヒットした。
「痛あああああああああああい!何すんの先生!淑女の柔い肌に跡が残ったらどうするつもり!」
「何を言ってる!勇者になるんだ!とかなんとか言って自ら生傷を増やす様な鍛錬を続けている奴が!大体、授業中に寝てる奴が悪い!」
「なぁ!そんな事言ったら!眠くなる様な授業をしている先生だって悪いもん!」
「ほうー!?言うじゃないか?誰の授業が眠くなるだって?みんなを見てみろ!眠そうなのはお前だけだ!そんな事だから落ちこぼれなんて言われるんだぞ!」
「あー!アタシが1番気にしてる事を言ったなー!このー!!」
何を言っても正論で突っ撥ねられる状況にサーシャは憤慨し、その細い腕で武力行使に出る。
長身の優男は、その綺麗なブロンドの髪をヒラヒラと舞い踊らせながら少女を教書を持っていない方の手でいなし、苦笑しながら椅子に座らせた。
膨れっ面をして座り込む少女の姿に教室中から笑いが起こる。
「もー!みんな笑うなよー!アタシだって本気を出せばやれるんだからな!」
膨らんだ頬を更に膨らませてサーシャは抗議した。
その姿がまたおかしくて、教室中の笑いのコーラスは、先程よりも一層の盛り上がりを見せる。
ブーッと音を立てながらそっぽを向いた少女は、手元にある教書に視線を落とす。手元に置かれた教書には魔法陣とその魔法の発動条件が書かれていた。
——アタシも魔法が使えたらな。
少女は教書に利き手を置き、変化を待つ。しかし教書はどれだけ待とうともその手に反応しない。これがサーシャが落ちこぼれと言われる所以だった。
この教書は、エルミスティア魔法学院への入学時に生徒全員に配られるもので、まだ魔法を扱いなれていない者が魔法の初歩を学ぶ為の本だ。
魔法の素養を少しでも持つ者が利き手で触れると、体内の魔素に本が反応して低級魔法が誰でも発動できる優れ物で、これを礎に生徒達は魔法を学んでいく。
しかし、そんな正に魔法の本ですら自分には一切の力を貸さない。
まるで世界そのものから拒絶されたかの様に感じられるその事象には、流石の少女も惨めな気持ちになった。
かくして、一年時の時点で魔法の才能がない事がわかった為、一時期は学院に留まることすら危ぶまれたが、幸い学院長である長老の計らいで退学にはならなかった。
しかし実技は勿論全て零点なので、毎年留年の危機に見舞われる事となったサーシャは死に物狂いで勉強する事で筆記を満点にし、なんとか進級へと漕ぎ着けてきたのだった。
そんな過去を思い出し、ハァ・・・と、サーシャは嘆息し硝子窓を見つめた。
そこには他のエルフ達と同じ長い耳を持つ真紅の髪を組紐で高い位置に結んだ金色の瞳の少女が映る。
椅子に座るその背は丸くなっており、特徴は他のエルフと同じなのに他のエルフと違って魔法が使えずに落ち込む今の自分を表している様で再度サーシャは嘆息した。
少しでも気分を変えようと窓の外に目を向けるといつもと変わらぬ風景、眼前に広がる森の木々達が目に入る。
もう何年同じ景色を見ただろうか?そして後何度、その景色の移ろいを見ようと変わらない自分の魔法の才を憎めばいいのだろう?そんな事をサーシャは思って三度目の嘆息をした。
(魔法が使えない者は森の外には出さん!なんて、アタシ勇者になりたいのにいつになったら外に出られるんだろ?あーもう!考えたらむしゃくしゃしてきた!雲でも数えておこっと!)
なんて先ほど怒られたと言うのに全く反省の色を見せないサーシャは雲の数を数え始めた。
初めは一つ、二つと数えていたサーシャの瞳が不意に止まる。
(何、あれ・・・?)
その瞳はある一つの違和感を捉えていた。
そんな筈はない。空にそんなものがある筈がない。きっとまだ寝ぼけているんだとそう思ったサーシャは目を擦り、再度空を見る。
しかし、何度擦っても結果は変わらない。それどころか、その違和感は見る度に数を増していった。
「ねぇ、先生?なんか、空がひび割れてない?」
先生の方に向き直しサーシャは告げた。その言葉に目を見開いたヴォルグは、すぐに窓の外へと目を向ける。
ヴォルグの首筋にはうっすらと汗が滲んでおり、あの違和感は異常事態なのだとサーシャはすぐに理解した。
ひび割れを視認したヴォルグは先程迄の表情から一変させ、険しい顔をして生徒達に顔を向けた。
「みんな—————」
ヴォルグが生徒達に向けて言葉を発そうとしたその瞬間、ひび割れた空が爆発音と共に砕け散った。
——爆発音がしてから数刻。
日暮れも近くなり、夜の闇が辺りを包み込み始めても、尚、爆発音は続いていた。禍々しく鳴り響くそれは、これから来る終焉を告げる鐘の音の様にも感じられる。
そんな絶望的な状況は何も変わらない中、生徒達はなんとか避難活動を終えていた。
先生の指示は、まるで初めからこの事態を想定していたかの如く的確で、生徒達を迅速に避難させる事に成功した。
避難場所はもう使われていない学院の旧校舎。
現校舎よりも一回りほど大きい二階建てのその校舎は、土壌汚染による生活苦で減ってしまった今よりも、多く子供達がいた時代を物語っていた。
移転後二十年程使われていないからか校舎内は少しカビ臭さがあり、使われている木材の至る所に虫食いの跡が見られた。しかしいざという時の為の緊急避難所として整備されていたのだろう、生徒達が普段通う学院と同様に、いやそれ以上だろうか?簡易結界が施されているのが確認できる。
生徒達はその一室に先生と共に一時的に身を隠していた。
机も椅子も撤去され、だだっ広い空間と化したその場所はここに避難してきた二十五人の生徒達が入ってもまだまだ余裕がある。
そこでようやく落ち着けた生徒達に、先生は初めて何が起きているのかの説明をしてくれた。
四十年前より魔獣が突如として人々の生活を脅かし始めた事。
エルフの民は結界を張る事で魔獣の被害を食い止めていた事。
十五年前から魔獣が活性化しており、いずれ結界が破られて魔獣の侵攻を許してしまうかもしれないと先生達には伝えられていた事。
そして今日、遂に結界が破られ魔獣の森への侵攻を許してしまった事。
そのどれもが遠い異界の話の様で、平和そのものの日常を過ごしていた生徒達の表情には困惑の色が滲んでいた。
しかし、事実として起こった結界の崩壊、避難時の先生の焦燥感に駆られた表情、数刻経ったにも関わらず鳴り止むことのない爆発音、そのどれもがそれが現実だと証明している事を悟り、次第に生徒達の表情が暗くなっていく。
当たり前のことだった。昨日まで生徒達が過ごしていた平和は突如として奪われ、明日の安寧も無い。そんな現状に何故齢十五歳足らずの生徒達が耐えられるだろうか。世界の誰が見たってこの子達を非難する者はいないだろう。
暫しの沈黙が流れる。
その話を聞いた後には、誰も話す気になどならなかった。
その空気の中では最早先生であるヴォルグですら口を噤み、その場を見守ることしか出来ない。
先生であるのに、大切な生徒を安心させてやる言葉もかけられない。そんな自分を恥じてか、ヴォルグは拳を強く握りしめていた。
しかしそんな沈黙はある生徒によって壊された。
「ちょ!?待って!?どうしよう・・・!?明日からの下着なんてアタシ持ってないんだけど!?」
その沈黙を破ったのはサーシャだった。
その余りに拍子抜けする文言に生徒達も、ヴォルグも目を見開いていた。こんな状況で明日の心配をする奴がいるか?と言わんばかりに。
「ぷっ・・・あははははっ!!!」
やがて堪え切れずに生徒の一人が声に出して笑い始めた。釣られて一人、また一人と笑い声は重なっていき、いつしか先程までの空気が嘘の様にみんな笑っていた。
「サーシャ!お前本当に間抜けだな〜!」
「本当!明日の心配してる場合じゃ無いでしょ私達!」
「なんだー?魔法を使えないサーシャちゃんは頭まで使えなくなっちまったのかー?」
「なっ!違うもん!!ただ下着そのままなの汚いな〜って思っただけだからー!!」
笑いながらマシューが揶揄うと、サリーとケルディが間髪入れずに続き、顔を真っ赤にしたサーシャは両手を上げて反論した。
その様子がまたおかしくて、笑いのハーモニーは輪をかけてその音量を上げた。
まだ顔を真っ赤にしているサーシャは一頻り怒り終えるとみんなの顔を見渡し破顔する。
(良かった。みんなが笑ってくれて。)
「でも、先生?これからどうするの?私達はどこにいけばいいの?」
笑いのハーモニーが落ち着いて少ししてから生徒の一人、深緑色の髪の少女、ミリエラ・アーデが少し不安気に尋ねた。それは生徒達全員が思っていた事だった。
先生はこれまでの事は話してくれたが、これからの事に関しては触れられていない。
安全地帯のエルフの森が失われつつある今、一体どこに行けば安全なのかを生徒達は知りたがっていた。
そんな生徒の様子を一望した後、ヴォルグはゆっくりと息を吸い込む。
それから、
「みんな、私達はこれより森の東側、いつもは近寄ってはいけないと言っている禁足地へと向かう。みんなには言ってなかったが、そこには聖域、強力な結界が施された遺跡が存在している。その場所で他の生徒達と合流し、安全の確保が終わり次第、とある街へと向かう手筈だ。かなり離れた場所にある為、みんなには無理を強いる事になるが、そこに着けば一先ずは大丈夫だ。頑張ってくれるか?」
一人一人の目を見て出来うる限り優しい声音で、けれど真剣な目でヴォルグは語った。
それは少しでも生徒達を安心させる為、そして、覚悟の有無を問う為でもあった。
これから先、少しでもみんなの心がばらければその時点で無事に辿り着くことは出来なくなる。もし、少しでも目を逸らす様な素振りを一人でも見せるなら、ここで自分の命を賭してでも生徒達を守り抜き、救援を待つ、その覚悟がヴォルグにはあった。
しかしそんな懸念は杞憂に終わった。
「「「「はい!」」」」
生徒達は誰も目を逸らさず、真っ直ぐにヴォルグの目を見つめ返していた。勿論不安もあっただろう。しかし、それを表情や声に出す者は誰一人としていない。それどころか、誰の顔を見てもその瞳には覚悟の色が映し出されており、その声にしても同様。
みんなの返答には、決意が宿されていた。
こうして生徒達は先生の先導の元、東にある禁足地へと向かい始めた。
その先に待ち受けるのが地獄だという事も知らずに。




