番外編 月は逃げない 後編
……通じていない。
まったく、これほど見事に通じないものか。
隣で、すみれが月を仰いでいる。
白い光を映した左右の色違いの瞳が、うっとりと細められていた。頬にはまだ涙の跡が残っていて、唇の端には餡がわずかについている。
言いたいことがあるなら、そのまま言えばいい。
遠回しに月を褒めるなど、馬鹿げた迂遠さだと思っていた。
その馬鹿げた回りくどさを、自分が試す日が来るとは思わなかった。
しかも、まるで届いていない。
俺はさっきから、一度も月など見ていないというのに。
「……暁臣様?お月様、ご覧にならないのですか」
「……見ている」
嘘だ……この娘の睫毛が震えるところを見ている。
団子を噛むたびに、頬がわずかに動くところを見ている。
浴衣の襟から覗くうなじの、細い線を見ている。
視線を外す気など、はじめからない。
深く息を吐いたそのとき、東屋の柱の陰で、なにかが動いた。
「……あれ」
すみれの声が上がる。
薄暗がりから、するりと出てきたのは一匹の猫だった。
夜と同じ色をした、黒い野良猫。
痩せてはいるが、毛並みはそう悪くない。金色の目が、灯籠の火を映して光っている。
「……可愛い……」
すみれの声が、聞いたこともないほど弾んだ。
制止する間もなく、猫はまっすぐすみれの足もとへ歩み寄り、あろうことか浴衣の裾に頭を擦りつけはじめた。
ごろごろ、と喉を鳴らす音まで聞こえてくる。
「かわいいです……ふふ、くすぐったいです」
すみれが膝を折り、細い指を伸ばす。
喉の下を撫でられた猫は、目を細めて、堂々とその手に身を委ねた。
獣というものは俺に近寄らない。
本家で動物を飼ってはいたが、犬も猫も、鳥ですら、幼い頃から一匹たりとも懐いたことがない。
理屈ではなく、黒薔薇の気配を本能で嫌うのだろう。近づけば逃げる。
それが当たり前の景色として、幼いころからずっと俺の周りにあった。
その当たり前が、今、目の前で覆されている。
しかも、俺の隣で。俺の婚約者の膝の上で。
「暁臣様、見てください。喉を鳴らしています」
「……そうか」
「わ、指を舐められてしまいました。ざらざらしています」
……舐めた。
この俺が、手袋を外すのにどれほどの覚悟を要すると思っている。
触れられる相手が、この世でただひとりだと。
その手を、野良の猫が、なんの断りもなく。
胸の奥で、ざらりと嫌なものが動いた。
自分でも呆れるほど、幼稚な熱だ。
「……妬く相手が人ではないとはな」
「え?」
すみれが顔を上げる。
猫を撫でる手はそのままに、きょとんと目を丸くしている自覚のなさが、また性質が悪い。
「なにか、おっしゃいましたか?」
「……いや」
「暁臣様も、撫でてごらんになりますか?」
すみれが無邪気に猫を差し出そうとした瞬間、黒い塊はぴたりと動きを止め、耳を伏せて、俺から一歩後ずさった。
「どうしたのでしょう?」
「……いい。獣には嫌われる質だ」
これでも王華と呼ばれる華を戴いている。
その男が今夜、野良猫一匹に距離を測られ、その上、婚約者の手を取られて胸を妬いている。
「すみれ」
「はい」
「……お前と出会ってから、いかに自分の器が小さいのか、思い知らされてばかりだ」
すみれが、ぱちぱちと瞬きをした。
「そんな……暁臣様は、いつも堂々としていらして、私なんかとは比べものにならないくらい、ご立派で──」
「立派な男は、猫に妬いたりしない」
「……ねこ」
言葉の意味が、ようやくゆっくりと染み込んでいったらしい。
すみれの頬に、灯籠の火とは違う色が上っていく。
「ね……猫、ですか。あの、この子に、ですか」
「他になにがいる」
「そんな……っ!だ、だって、猫ですよ……?」
「猫だろうと、なんだろうと同じことだ。俺の見ていないところで、お前が誰かに笑いかけるのが気に入らない」
あまりにも身勝手な言い分だという自覚はある。
だが、この娘が誰かに向ける笑みは、あまりにも長いあいだ誰にも向けられずにいたものだ。
その笑みを、野良の猫に先に持っていかれたと思うと、腹の底が収まらない。
「すみれ。こちらを向け」
「は、はい……」
顎に指をかけ、上向かせる。
猫の毛に触れていた手が、行き場を失って所在なげに宙をさまよい、やがて俺の胸もとの布を、おずおずと掴んだ。
その仕草ひとつで、簡単に許してしまう自分がまた腹立たしい。
「あ、あの……暁臣様、外は……」
「見ているのは月だけだ」
言い終える前に、唇を塞いだ。
餡の甘さが、まだ残っている。
驚いて震えた身体が、やがてゆっくりと力を抜き、俺の腕の中へ倒れ込んでくる。
その重みを支えながら、もう一度だけ深く口づけた。
足もとで、猫が心底どうでもよさそうに毛づくろいをしている。
「……っ、はぁ……あ、暁臣、様……」
唇を離すと、すみれは真っ赤な顔で、荒く息をしていた。
月明かりを反射した美しい紫色の瞳が潤み、今度こそまっすぐに俺だけを映している。
月にも、猫にも渡すつもりはない。
「すみれ」
「……はい……」
「もう一度言う」
夜風が渡り、薄の穂が揺れると、金木犀の香りがまた濃く流れてくる。
「月が、綺麗だな」
すみれは、空を見上げなかった。
瞬きを二度して、それから、燃えるように耳まで赤くなる。
「……っ、あの、それは……お月様のことでは、ないのですね……?」
「ようやく通じたか」
両手で顔を覆ってしまった娘の、結い上げた髪から覗くうなじが赤い。
その頭を胸へ抱き寄せて、今度こそゆっくりと空を仰いだ。
高く、白く、あの日となにひとつ変わらない月がある。
冷たい蔵の隙間から、この娘がひとりで見上げていたのと、同じ月が。
あの夜、この光は、誰の味方にもならなかった。
だが今は違う。
来年も、その次の年も、この庭で同じものを見せてやる。浴衣を着せて、団子を食わせて、隣で手を握って。
そのたびに、俺だけが月を見ずに、この娘を見ているのだろう。
「暁臣様」
「なんだ」
「……あの、来年も。一緒に、見てもよいでしょうか」
胸の中から、躊躇いがちな声がした。
答える代わりに、抱き寄せる腕へ力を込める。
薄の向こうで、黒猫が一度だけ振り返り、それから夜の中へ静かに消えていった。
虫の声だけが、いつまでも庭に満ちていた。
書籍版『無華の花嫁』の発売を記念して、すみれと暁臣のお月見のお話を書きました。
本編では冬に出会ったふたりですが、その後、すみれが季節ごとの行事や食べ物をひとつずつ知っていく姿も、いつか書いてみたいと思っていました。
今回は十五夜。浴衣を着て、お団子を食べて、暁臣と一緒に月を見る――すみれにとっては、どれも初めてのことばかりです。
そして暁臣は、とうとう猫にまで妬くようになりました。
本編を最後まで読んでくださった方に、「この先もふたりはこんなふうに季節を重ねていくんだろうな」と思っていただけたら嬉しいです。
書籍版『無華の花嫁』も、どうぞよろしくお願いいたします。





