番外編 月は逃げない 前編
「すみれ様。本日は、こちらのお召し物でございますよ」
女中さんが衣桁から下ろしてみせたのは、淡い薄紫の生地に、白い桔梗の花が散った一枚だった。
窓から差し込む夕暮れの光を受けて、布の表面がやわらかく波打つ。
……これは、浴衣……?
浴衣なら、私も知っている。この邸に来てからずっと、寝間着として着せていただいてきたものだ。
「あの……まだ、眠るには早い時間かと……」
おずおずと申し出ると、女中さんは口もとに手を当てて上品に笑った。
「まあ。これは、寝るためのものではございません。夕涼みや、お月見に着るための浴衣でございます」
「お、月見……?」
「今宵は十五夜でございますよ。殿下が、お庭に席を設けるようにと」
十五夜。お月見。
言葉としては、知っている。朝霞の屋敷にいた頃、母屋から漏れ聞こえてくる話の端に、そんな響きが混じっていた気がする。
けれどそれは、明かりのついた部屋の中で交わされる言葉で、蔵の中にいる私には、一度も届いたことのないものだった。
「さあ、腕をお上げくださいませ」
するり、と肩に布が落ちる。
肌の上を、涼しい木綿が滑っていく。
帯を巻かれ、背中で結ばれ、ぽん、と軽く叩かれる。そのたびに、自分の輪郭が誰かの手で丁寧に整えられていくようで、落ち着かない。
髪も、いつもより高い位置でゆるく結い上げられた。
うなじに触れる夜の空気が、こそばゆい。
「まあ……とてもよくお似合いです」
鏡の中には、薄紫の浴衣を着た娘が立っていた。
……誰、なのだろう?この方は。
いつまで経っても、鏡の中の自分と自分がうまく重ならない。
継ぎだらけの木綿を着て、井戸の水で指を裂かれていた娘と、この娘が同じ人間だなんて、まだ信じきれずにいる。
それでも──ほんの少しだけ、綺麗、と思ってしまった。
思ってしまった自分が怖くて、私はそっと鏡から目を逸らした。
広縁へ続く廊下を歩いていくと、灯りを落とした先に、人影がひとつ立っていた。
暁臣様の姿を目に入れた瞬間、足が勝手に止まる。
「……っ」
いつもとは少し違う暁臣様の装いに、目が釘付けになる。
深い藍鼠の浴衣。三つ揃えの、隙のない鉄紺色ではなく。
白い襟もとが素肌の首筋をまっすぐに縁取り、鎖骨の影がのぞいている。
整髪料でいつも後ろへ流されている前髪が、今夜は無造作に額へ落ちていた。
衿から覗く喉が、呼吸のたびにわずかに動く。
その一点から目が離せなくなって、私は慌てて顔を伏せた。
……だ、だめ。見ては、いけない。
「すみれ」
「はいっ」
声が裏返った。
顔が熱い。首の後ろまで熱い。
「……なにを俯いている」
「い、いえ……なんでも……」
「顔を上げろ」
逆らえるはずもなく、恐る恐る目線を上げる。
けれど、視界に入るのは襟もとばかりで、とても正面から見上げることなどできない。
いつも私を包んでくれている、鎧のような肩の線が、今夜は布一枚の向こうにある。それだけのことなのに、心臓が壊れそうなほど鳴っていた。
「……よく似合っている」
「あ、ありがとう、ございます……」
「顔が赤いな。熱でもあるのか」
「ちがっ……ちがいます……!」
違うのだと言いたいのに、では何が違うのかを説明する言葉を、私は持っていない。
困り果てて黙り込んだ私を、暁臣様はしばらく黙って眺めていた。
それから、ふ、と息を吐くように笑う。
「行くぞ。月は出ている」
庭へ下りると、昼間とはまるで違う世界が広がっていた。
この庭園は、体調が戻ってから何度も歩かせてもらっている。石畳の続く道も、刈り込まれた松の形も、池の縁の飛び石も、もうすっかり覚えたつもりでいた。
けれど夜の庭は、私の知っている庭ではなかった。
道沿いに置かれた石灯籠に、ひとつずつ火が入っている。
橙色の小さな光が、足もとの石畳だけを頼りなく照らし、その先はすべて濃い藍に沈んでいた。
木々は昼の緑を失って、黒い塊としてそこにある。
りぃ、りぃ、と虫が鳴いていた。
鈴を振るような声が幾重にも重なって、庭のあちこちから湧いてくる。
鳴きやんだかと思うと、また別の場所から返事のように上がる。
こんなにたくさんの生き物が、この庭で息をしていたなんて。
昼のあいだは、まるで気づかなかった。
ふわ、と夜風が渡り、袖の中を通り抜けていく。
どこからか、甘い香りが流れてきた。
「……いい、香りです」
「金木犀だ。この時季になると、邸の裏まで匂う」
言われて振り仰いでも、暗くて木の姿は見えない。
見えないのに、香りだけが確かにここにある。
それがなんだか不思議で、私は少しのあいだ、目を閉じて息を吸った。
──けれど。
灯籠の光が届かない木立の奥へ視線が滑った瞬間、指先がすっと冷えた。
あの闇の色を、私は知っている。
湿った土間の匂い。膝を抱えた腕の重さ。扉の向こうが静まり返っていくときの、あの、置き去りにされる感覚。
夜というものは、ずっと、私にとってそういうものだった。
朝が来るまで、ただ耐えるだけの時間。
肩が小さく震えたのを、隣の方に気づかれてしまったのだろうか。
「寒くないか」
「……いえ」
「こちらへ来い」
言うより早く、手を取られた。
驚いて視線を落とすと、暁臣様は手袋を外していた。
何ものにも触れられないはずの、黒薔薇の手。
その素手が、私の指をひとつずつ確かめるように包み込んでいる。
「……あ」
手の平から伝わってくる熱が、腕を伝って、胸の奥まで届く。
闇の色は、さっきとなにも変わらない。
それなのに、もう、こわくなかった。
顔を上げると、松の梢の向こうに、月があった。
白く、まるく、あまりにも静かに。
池の水面にも、もうひとつ同じものが浮かんで、風が渡るたびに細かく揺れる。
その光を見ているうちに、胸の底から、ゆっくりと言葉が浮かんできた。
「暁臣様」
「なんだ」
「……蔵から見ていた月と、同じ月なのですね」
言ってから、しまった、と思った。
せっかくの夜に、こんな話をするものではない。
繋いだ手を離されてしまうかもしれない。
けれど暁臣様は、なにも言わず、ただ、握る指の力が、静かに強くなっただけ。
その痛いほどの力が、どんな慰めよりも雄弁で、私は言葉を失う。
あの頃、月は、遠くから眺めるだけのものだった。
高くて、白くて、私には決して届かないもの。
いいものは、みんな遠くにあるのだと、そういうふうにできているのだと思っていた。
それが今、私は浴衣を着て、庭を歩いて、この方と手を繋いで、同じ月を見上げている。
「……ずっと、見ていても、いいのでしょうか」
「月は逃げない」
暁臣様が、まっすぐ前を向いたまま言う。
「ゆっくり見ればいい」
池を望む東屋には、赤い毛氈が敷かれ、すでに支度が整えられていた。
背の高い薄が花器から溢れるように挿され、穂先が夜風になびいている。
その隣に、三方。
白い丸いものが、きちんと積み上げられていた。
下の段に多く、上に向かうにつれて少なく。てっぺんにひとつ。
まるで小さな塔のようだ。
「……わあ」
思わず、膝をついて近づいてしまう。
月明かりを受けて、ほんのりと青白く光っている。
こんなに整然と、美しく積まれたものを、私は見たことがなかった。
「これは……飾るものでは、ないのですか?」
問いかけると、暁臣様がわずかに眉を上げた。
「団子だ」
「だん、ご……」
「月に供えたあと、人が食う。そういうものだ」
「た、食べてしまうのですか!」
もったいない……せっかくこんなに綺麗に積まれているのに。
崩してしまったら、もう二度と、このかたちには戻らないのに。
「餅は、食ったことがあるだろう」
「……はい。お正月に、お雑煮を」
あの朝のことは、よく覚えている。
汁の中で、箸で持ち上げようとして、白いものがとろりと伸びる様に驚いた。
「あれは、しょっぱいものかと思っておりました」
「甘いのもある」
暁臣様が、三方から団子をひとつ取り、小皿の餡にくぐらせる。
崩れた頂上の跡が、なんだか申し訳ない。
「食べていい」
「……はい」
返事はしたものの、手が動かなかった。
どうしても、動いてくれない。
いただいてよいと言われている。ここにいてよいと言われている。それはもう何度も、この方の口から聞かせてもらってきた。
それでも、自分から手を伸ばすという行いは、私にはまだ、あまりにも大それたことだった。
伸ばした手を打たれてきた回数を、この身体が覚えている。
「……すみれ」
「あ……も、申し訳ありません、私……」
「口を開けろ」
「え」
顔を上げた瞬間、目の前に団子があった。
白いまるいものが、暁臣様の指に摘ままれて、私の唇のすぐ手前で止まっている。
「あ、あの、そんな、自分で」
「いいから開けろ」
観念して、ほんの少しだけ唇を開く。
やわらかいものが、そっと押し込まれた。
噛むと、餅が歯にまとわりつくように潰れて、遅れて餡の甘さが舌の上に広がる。
お雑煮の餅とは、まるで別のものだった。
やさしい甘さが、口の中いっぱいに満ちていく。
「……っ」
どうしてだろう。
視界が、じわりとにじんだ。
悲しいわけでも、痛いわけでもない。ただ、甘いだけなのに。
「泣くほどか」
「ちが……ちがうのです。ただ……」
うまく言えない。
あの蔵の中で、母屋から漂ってくる甘い菓子の匂いを、私は何度も想像していた。
どんな味なのかも知らないまま、想像だけで胸を縮めていた。
その想像の先に、こんなにもやわらかい味があったなんて。
「……甘い、です。とても」
「そうか」
暁臣様は、それ以上なにも聞かなかった。
代わりに、指の腹で私の目もとをひと拭いして、また団子をひとつ手に取る。
「もうひとつ食え。痩せすぎだ」
二つ目を口に運ばれながら、私は空を仰いだ。
高く澄んだところに、月がある。
薄が揺れて、虫が鳴いて、隣にはこの方がいて、口の中には甘いものがある。
……こんな夜が、この世にあったなんて。
「すみれ」
「はい」
「──月が、綺麗だな」
私は素直に、月を見上げた。
「はい。とても、綺麗ですね」
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