崩れゆく平穏
涼と夏美が予想外の来訪をした次の日。光希は目を覚まし、ぼんやりと立ち上がった。顔を洗って服を着替える。いつも通りの朝だ。
下に降りて朝食の支度を始める。この家に来てから、食事係は光希なのだ。というか、伊織は料理ができない。少し前に、料理の手伝いがしたいと言ってきた事があったのだが、その手つきの危なっかしさと言ったら、もうどうしようもない程だった。
包丁を刃の向きを逆さまにして持ち、ぶんぶんして物を切ろうとするのが怖すぎる。下手したら顔に突き刺さる所だった。無論、すぐに包丁を取り上げた。むくれた顔は可愛かったのだが、それだけでは終わらずに違う事をやろうとする。何故か火にかけたフライパンを上から覗き込もうとして、髪を燃やしかけた。おまけに稼働中のトースターに手を突っ込んで火傷しかける。
その惨憺たるもの、あり得ない程だ。結局光希は伊織に料理の手伝いをする事を禁止し、やっと心の平穏を取り戻した。
そうして伊織のトンデモ行動を思い出している間に目玉焼きが焼けて朝食の準備が終わる。
「おはよ、光希君」
「おはよう」
丁度ぴったりの時間に伊織が二階から降りてきた。ふわぁ、とあくびをした伊織はふらふらしながら席につく。
「今日も美味しいねぇ〜」
ハムスターのように頬を膨らませ、伊織は嬉しそうに言った。光希は仏頂面でぼそりと呟く。
「ただ焼いただけのただの目玉焼きだ」
「うーん、そうなんだけど、焼けるのがすごいなぁ、って」
伊織がにへら、と緩んだ笑顔を見せた。光希は頭を抱える。感心している所が完璧に間違っている。緩い笑顔を浮かべる伊織の気分を壊す気は無いため、言わないが。
「……そうか」
「うん、」
その後は静かに朝食を食べ終える。光希は伊織の謎常識に付き合うのは不毛だと気づいたのが、今日の収穫だ。気づくのが遅すぎる事に同時に気づき、微妙な気分になったのはまた別の話だ。
光希は冷蔵庫を開けた。食料が減ってきた。そろそろ買いに行かなければいけないだろう。というのも、残っているのが調味料だけなのだ。この状態だと、夕食が塩、とかいう乏しい物になってしまう。
光希は冷蔵庫を閉め、伊織に声をかける。
「伊織、スーパー行くぞ」
「はーい!」
出かける前の身支度は手馴れたものですぐに終わった。伊織を促して外に出る。
「寒くなってきたね〜」
伊織は白い息を吐いて言った。まだ五時だというのに、空は闇に沈もうとしている。嫌でも十二月である事を感じさせる、そんな天気だ。
「そうだな……」
光希も伊織と同じように白い息を吐いた。
「ところで、これから行くのは前に行ったところ? あの変わったおばさんがいた?」
「ああ、また値引きしてくれると嬉しいけどな」
ふふふ、と伊織は笑い声を上げた。光希も自分の口が緩むのを感じる。この生活がずっと続けばいいのに、そう思った。
しばらく歩くと、まだまだクリスマスセールを続けるスーパーが見えた。
「やっぱり、すごい人だね」
「セールだしな、ずっと前からやってるけど」
「あはは、そだね」
そして魔人と化すおばさま方に気をつけつつも、今度はそつなく買い物を終える事ができた。二人はレジ袋を提げて店を出る。
光希はレジ袋を片手に提げて隣の伊織を見た。
涼と夏美が突然押し入ってきたのがかなり前のように感じられる。本当のところ、まだ一日しか経っていない。そして、まだ連絡は入っていなかった。光希はポケットに入れたスマホに意識を向ける。もちろん、それが震え出す事はなく、涼と夏美も目ぼしい情報を見つけてはいないようだ。
伊織に気づかれないようにそっと伊織の顔に視線を向けた。すぐに逸らす。何となく、見ていられなかった。
昨日、夏美が口にした言葉が脳裏に蘇る。
『異端の研究』
涼が伊織にそれを聞いた時の伊織の反応。あの不自然な言動。伊織がその研究に関わる人間なのは確かなのだろう。
だが、この無邪気な少女が忌むべき研究の産物であるとは到底信じられない。研究によって生み出された能力、それはきっと稀有な物なのだろう。そして、その実験は伊織を苦しめてきた。
光希はレジ袋を持った方の手に力を込める。
そんな、小さな幸せすら知らなかった少女を、光希は救いたいと思った。それが今の光希のたった一つの願い、そして望みだった。
「ねぇ、」
伊織は顔を上げて光希を見た。紅い瞳に空が映り、光希が映る。
「何だ?」
「私の護衛、引き受けてくれてありがとう」
はにかむように伊織は笑った。光希の心臓が跳ねた。
「き、急に何だ?」
「別に、深い意味はないけど、言いたかっただけだよ……。もう気づいちゃったと思うけど、私は『研究』によって作られた兵器。こうやって誰かと一緒に買い物する事も許されない、そんな存在。私の能力についてはまだ言えないけどね」
伊織は夜空を見上げる。一番星が伊織の瞳の中で瞬いた。
「でも、光希君に会って変わったの。始めて誰かと居れる事が嬉しいと思った……」
「待て、黙れ」
光希は伊織の言葉を遮る。続きが聞きたかった。だが、今は……。
光希は周囲に睨むような視線を向け、伊織を近くに抱き寄せる。
「わわっ!?」
「良くない気配がする」
困惑する伊織を抱き寄せたまま、光希は霊力を使い霊力が使われているかを確認する。
「……人払いの結界か」
光希がぴりぴりした空気を纏ったのを感じた伊織は、震える手で光希の服を掴んだ。
「追手?」
光希は伊織を見ずに頷く。追手の姿は見えないが、結界がある所からそう遠くない場所にいるのは確実だ。とうとうやって来たか。光希は腰に手を伸ばした。空気を掴んだように見えたその手から一振りの刀が現れる。鞘に施された特殊な迷彩術式を解除したのだ。
光希と伊織を取り囲むように人影が五つ、ゆらりと姿を現した。
気配を全く感じなかった。光希の顔を冷や汗が伝う。直感が訴えている、彼等が訓練された手練れの追手だと。
光希は伊織を抱いた手に力を込める。
――絶対に渡さない。




