誘拐
キーンコーンカーンコーン
チャイムの音に楓は息を吐いて、シャープペンシルを机に投げ出した。今日は中間テストの最終日なのだ。最後の教科は霊能理論。楓は木葉に霊能理論を教えてもらっていた。おかげでペーパーテストで赤点の心配はない。曲がりなりにも楓は頭がいい方なのだ。中学の頃は学年一位を取っていたほどには……。
ただ、問題は実技だ。いくら成績に関係ないと言っても、落第点を取るのは気分が良くない。だからどうする、と言うわけでもないが。
だが、今はテスト終了の解放感に浸っていたい。楓は答案用紙が回収されていくのを他人事のように眺めると、盛大に伸びをした。
「うーん……」
すっかりテストから解放された喜びで、気の抜けたホームルームが終わる。楓は立ち上がると、風紀委員会はの当番は無いことだし、そのまま帰るつもりで席を立った。木葉たちに手を振って、楓は教室から出る。
教室から出ると、廊下や道は帰る生徒たちや部活に向かう生徒たちで溢れていた。
いつか木葉たちと遊びに行きたいな。
今日は夕姫は部活、木葉たちは生徒会、光希はよくわからないが何か予定があるらしい。
「はあ……」
楓はため息を吐く。
「天宮さんっ! て、テスト終わりましたね!」
「桜木さん!」
はにかんだ笑顔でカレンは楓の顔を覗き込んだ。
「あ、あの! カレンって呼んでください!」
「う、うん、えっと、カレン? 何かボクに用だった?」
カレンは嬉しそうに頷いた。
「あの、今日、私、暇なんですけど、もし天宮さん……」
「楓でいいよ」
「か、えでさんが良ければ、一緒にカフェでも行きませんか?」
楓は学校の食堂を思い起こす。カフェはなかったような気がする。
「あれ? カフェってあったっけ?」
「カフェは学校の敷地外です、楓さん。もしかして、敷地外に出たことないんですか?」
楓は頭をかいて、答える。
「あー、うん、そうだね。いいよ、ボク、今日ヒマだし」
「ホントですかぁ!」
カレンはパアッと顔を輝かせた。
「じゃあ、今から行きませんか私、オススメの穴場のカフェがあるんです!」
「いいよ! 案内してくれるかな?」
「はいっ!」
カレンがセリフを噛む回数が減った事に楓は気づいた。きっと自分と話すのに慣れてくれたのだろう。そう思って、楓の心はほっこりとした。青波学園にはいい人がたくさんいる。中学の時までとは行かないが、それでも孤児院にいた時の何倍も良かった。
楓とカレンはほとんど空の鞄を提げて、校門を出た。よくよく考えると、楓が校外に出たのはこれが初めてだ。青波学園があるのは東京。渋谷や池袋が近くにあるのは情報として知っていたが、実際に行ってみると活気に溢れていて楓は驚いた。
確かに楓たち普通の人間は五星の外に出るのは自殺行為だ。よって、都市部に建てられた五星学園の周辺に人が集まるのは当然だろう。しかし、楓は五星外育ち。行っていた中学も五星の端っこだ。もちろん、こんな大きい都市を出歩くのは初めてだった。
「ほぇ〜……、人がいっぱいいる……」
「そうですよー!ここは東京、元々日本の首都なんですから!」
そう、15年前に世界が崩壊した時に日本という国家もまた消えたのだった。今の日本は天宮家を始めとする霊能力者で統治されている。天宮家当主になるということは、全ての霊能力者をまとめ、日本を支配するという事なのだ。
そんな事、ボクには出来ないや……。
楓は高いビルを仰いで、目を細めた。そんな責任が一介の『無能』に抱えきれるものであるはずがなかった。
「どうしたんですか?」
「あ、いや、何でもない」
不意にカレンに声をかけられて、楓は飛び上がった。カレンはにこりと笑って前を指差す。
「カフェはあそこを曲がったその先なんです」
大通りを横に曲がり、細い道に入る。歩いて行くと、どんどん人が少なくなっていった。もう何回曲がったか、覚えていない。カレンの案内無しでは帰れないだろう。カレンは薄暗い路地に入って、どんどん進んで行く。そろそろ不安になってきた楓がカレンを見ると、笑顔が返ってきた。それだけで楓は安心できる。大丈夫だと。
「着きましたよー!」
カフェは小さなビルの一階にあった。自己主張する役割を完全に放棄した小さな看板だけが外の人間にそこがカフェである事を伝える唯一の存在だった。カレンは尻込みせずにドアを開ける。普段の様子からは窺い知れない動作だった。ドアに吊り下げられたベルが渇いた音で来客を告げる。
「何名様でしょうか?」
背が高く、明るい色をした髪を持つ男が丁寧にカレンに問いかけた。外国人だろうか。珍しい。男の顔にここに似つかわしくない傷があるのだけがとても気になった。楓はそんな落ち着いた雰囲気の中に違和感を感じた、ような気がした。しかし、楓にとって始めてのカフェだ。そんな事、期待に胸を踊らせる楓は気に留めなかった。
「こちらでございます」
2人がけの席の案内され、カレンと楓は腰を下ろした。しばらくすると、無言で2人の前に水が運ばれてきた。
「楓さん、何を選ぶ?」
カレンは手にメニューを持ちながら楓に問いかけた。手を顎に当ててしばらく悩んだのち、楓はカフェラテを頼む事にした。
「私はいつもの紅茶にしようかなと思います……」
楓たちはそれぞれ選んだ飲み物を男に伝える。男は穏やかな笑みを浮かべて頷くと、店の奥に消えた。
「あのー、その、楓さんはどうして、青波学園に入ったんですか? あ、その、悪い意味とかそういうわけじゃなくて……、そのただ単に気になったというか、その……」
カレンは恐る恐るといったように、上目遣いで楓を見た。
「その、ボクもわからないんだよね、それが……」
ごめん、と謝ると、カレンはぶんぶんと頭を横に振った。激しくツインテールが振り回される。
「い、いや! その、天宮さんが、あっ、楓さんが謝る事じゃ無いです!」
「カフェラテです」
顔を真っ赤にして首を振るカレンを無視して、すごく冷静に男は楓の前にコーヒーカップを置いた。
「砂糖はあちらにあるので、よろしければお使いください」
「あ、はい」
楓は砂糖の壺を一瞥した。しかし、砂糖の壺は手に取らない。楓は甘いものが苦手なのだ。熱いカフェラテはまだ飲めない。楓はフゥフゥと湯気を吹く。そうしている間に、カレンの紅茶が運ばれてきた。
「ここの紅茶、美味しいんですよ! あとコーヒーも!」
「そうなんだ! 本当にテスト終わって良かったよ……」
楓はまだ湯気が昇るコーヒーカップを口に近づける。コーヒーの香りがふわりと鼻孔をくすぐった。
「そうですねー! もう後は遊ぶだけですっ!」
嬉しそうにカレンは笑う。カレンはティーカップを傾けて、口に紅茶を含んだ。幸せそうに目を細める。そんなカレンを見て、楓は同じようにカフェラテを飲んだ。
「美味しい……」
楓は小さくあくびをする。目の前のカレンは美味しそうに紅茶を飲んでいた。楓はもうちょうどいい温度まで下がったカフェラテを飲む。
「ふぅ……」
コーヒーで身体が温まったのだろうか、楓は強い眠気に襲われた。
カシャンッ
楓の手からカップが落ちた。カップは軽い音を立てて、床の上に砕け散る。そこで楓の意識は途切れた。
***
桜木カレンは髪を解き、高い場所のツインテールに結び直す。その髪型の方が彼女には似合っていた。これで、気弱な少女はお仕舞いだ。カレンは冷たい瞳で倒れた楓を見下ろした。誰に聞かせるわけでもなく独白する。
「私を手こずらせたのはあんたが初めてですよ、天宮楓……。常人なら永久冬眠してる量の睡眠薬を飲みながら、しばらくけろっとしてるなんて信じられません……」
冷たく尖った言葉だった。いつのまにか、カレンの周りにはたくさんの人が集まっていた。店の店員の格好をした男、客を装っていたカップル……。そう、初めからここはカフェなどではなかった。『ベガ』から殺しの命令を受けた桜木カレンが天宮楓を罠にかかるためだけの場所。桜木カレンは歪んだ笑みを浮かべる。
「さあ、相川光希を地獄に送ってやりましょうか……」




