涼の記憶
涼は体重を壁に預けた。ガタンゴトンと小刻みに電車は揺れている。窓に目をやると、街並みが流れていくのが見えた。どうやら今日の天気は曇りのようだ。淀んだ世界がそこに広がっていた。
涼が向かっているのは涼の家だ。正確には神林本家である。昨日、電話があったため、向かわざるを得ない。あの家に帰るのは、とても気が重かった。そんな事を考えるのは後にしようと思い、涼は違う事を考えようとする。しかし、結局出てきたのは火曜日の放課後の事だった。
天宮楓。彼女が泣いているのは初めて見た。いつも笑っているあの少女が。とても強い楓が寂しそうに笑った姿を見て、涼は本心を隠す事が出来なくなった。
まだあの温もりをはっきりと思い出せる。あんなに強いのに、楓の肩は華奢だった。人を信じるのが怖い、と言って目を伏せた楓は、身体を強張らせながら、ずっと涼の顔を伺っていた。涼を傷つけてしまったのではないか、と恐れているようだった。涼はそんな楓を放っては置けなかった。
涼は顔に手を当てる。心の何処かが疼いている。小さな痛みを感じて、涼はそっと目を閉じた。
まさか自分があんな行動に出るなんて、思っても見なかった。涼は家の命令で護衛、婚約者候補となった。それに抵抗してずっと傍観者でいようと思っていたのに、手を出さずにはいられなかった。あの少女には不思議な魅力がある。自分はその何かに惹かれたのだと思う。そして、また、光希も。
がたんっ。
電車が一度大きく揺れて停車した。涼は目を開けて外を見る。ここが涼の降りる駅だ。
人混みに紛れて電車を降りる。今日は土曜日、東京の中心近くには多くの人が出歩いている。神林本家が位置するのは、青波学園からそう遠くない場所。本家の位置は天宮とは違って、秘匿はしていなかった。
涼は改札を通り、曇天の下に躍り出る。お世辞にも良いとは言えない天気、それは涼の気持ちをも代弁していた。
「ふぅ……」
涼は溜息をつく。久しぶりに本家に帰るのだ。緊張するのは当然だった。
涼はそこではいつでも要らない存在。誰からも褒めてもらった事は一度もない。涼には優秀な兄がいるからだ。神林の能力は家の中での優劣の基準。涼はいつでも敗者だった。三歳年上の空は幼い頃から神童と呼ばれ、神林家の中で将来を約束されている。しかし、神林として完成した技能を持たない涼は欠陥品。優秀な兄と比べられ、涼の心は荒んでいった。
そんな涼を救ったのは光希だった。
その日、5歳の涼は親から来客があると告げられた。
涼は親に叱られないよう、こそこそと窓の外を眺める。空が何をしても叱られないのに、涼は大した事じゃなくても叱られる。兄の方が自分よりも遥かに立場が上なのだと、涼は心に刻み付けられていた。
「まだかなぁ……」
涼は窓に頰を押し付ける。涼にはその『来客』とやらが気になる理由があった。なんでも、向こうにも涼と同い年の子供がいるそうなのだ。
「あっ」
涼が覗いていた窓から見えた。背の高い男と、涼と同じくらいの背丈の少年だった。二人は黒い服を着た女にの後ろについて歩いている。女は神林家の者だろう。涼は目を見開いて少年を見る。黒い髪の少年は俯いていて、涼の所からは顔が見えなかった。それでも、同年代の子供が、それも男が家に来るというのは、充分に心を踊らせる理由になる。
がちゃり。
ドアが開いた。涼は走ってその場に駆けつけたいのを堪えて、ソロソロと玄関に近寄っていく。そして涼の両親と向こうの二人の姿が目に見える位置で、そっと物陰に隠れた。両親に見つからなかっただろうか、と涼は心臓を押さえて伺うが、気づかれた様子はなかった。だが、少年と目が一瞬だけ合った。本当に一瞬で目が合ったかすらも疑わしい。それなのに涼は目が合ったのだという確信があった。
「ご無沙汰しております、神林さん」
長身の男が笑顔で両親に頭を下げた。知り合いなのだろう。
「いえいえ、こちらこそ。いつもありがとうございます、相川さん」
父が笑顔を見せた。涼はその目を見て、ゾッとする。父の目は全く笑っていなかった。氷のような冷たい視線が相川と呼ばれた男と少年に注がれている。嫌悪までも混ざった視線に気づいているはずの男が笑顔を崩さないのが不思議だった。
「では、相川さんとはお話があるので、光希君は涼と遊んで待っていたらどうかな?」
父がそう言ってこちらを刺すような視線で見て来た。どうやらバレていたようだ。叱られなかった事に安堵して、涼は前に出て行って男と少年にお辞儀をする。ちゃんと笑顔も作った。
「神林涼です」
顔を上げた涼の前で、男は少年の肩を軽く押す。少年は涼と同じようにお辞儀をした。笑顔ではなかったが。
「……相川光希」
「じゃあ、二人は外で遊んでいておくれ」
少年が名乗り終えたのと同時に、急かすように父は言った。あまり光希と言ったこの少年を自分の目の前に置いておきたくないようだった。時折父が自分に向ける冷たい視線を感じつつ、涼は光希に声をかける。
「光希、君?庭に行こう」
「ああ、わかった」
光希がすんなり頷いてくれた事にほっとして涼は笑う。
「ほらほら、行くよ」
光希を半ば引きずって、涼は庭を目指す。一体親同士はどんな関係なんだろう、と気になったが、すぐにそんな些細な疑問は忘れてしまう。今は友達になれそうなこの少年に会えた事で、涼の気分は高揚していた。
「着いたよ、光希君」
「別に光希でいい」
「じゃあ光希、」
庭、と言ってもかなり広い広場に二人は出た。この広場は訓練にも使われているのを涼は知っている。空もここで術の練習をしていたのだ。空、兄の事を考えると辛くなる。涼は首を振って兄の事を今は忘れようとした。
「……ここが庭?」
光希は顔を輝かせて辺りを見渡している。涼はその表情に、光希が思ったよりも面白そうな奴だと思った。涼はにこにことしながら光希の疑問に答える。
「うん、『くんれん』とかもするんだ」
「へぇ……。お前もするのか?くんれん」
感心したように光希が言うので、涼は思わずうん、と頷いてしまいそうになる。寸前で涼は首を振った。
「……僕はここ、使わせてもらえないんだ。兄さんばっかだよ」
光希は眉をひそめた。涼は何故か後ろめたくなって、下を向く。
「……『兄さん』は優秀なのか?」
涼はハッとして顔を上げた。光希は簡単に気づいてしまった。本当は光希は気づいていなかったが、涼はそう思った。
「……うん、僕は『しっぱいさく』なんだって。兄さんは凄いんだ。僕よりもずっと強くて……。なのに、僕は弱くて……」
光希はキラリと瞳を一瞬煌めかせた。涼はその意味がわからずに首を傾げる。光希がそんな涼にグイッと顔を近づけた。
「だったらさ、お前も強くなれよ。お前の『兄さん』みたいに。いや、もっと強くなって、みんなを見返してやるんだ。……俺だってまだまだだけど、一緒に強くなればいいじゃないか」
「……僕が強く?」
「ああ!」
涼はこれまで思ってもみなかった選択肢に目を輝かせた。
「なりたい!僕、強くなりたい!」
光希はニヤリと笑みを浮かべた。ばーんっと涼の背中を叩く。
「うわわっ」
涼は手をバタバタさせて倒れないようにバランスを取る。それから、光希にニヤッと笑って見せた。
僕は兄さんみたいに『かんばやし』の能力が無くても、強くなるんだ。いつか兄さんと並べるくらいに。
今まで封じていた熱意が音を立てて燃え始めるのを感じた。いつか認めてもらう為に強くなる。それは、心を殺してしまおうとしていた涼に救いをもたらしたのだった。
「じゃあ、早速お手並み拝見だ!」
どこから取ってきたとも知れない木の枝を光希は涼に放る。涼は反射的にそれを掴んだ。光希は枝を両手で構える。その姿は凛としていて、綺麗だった。涼は光希に見惚れるのをやめて、枝を構える。涼も少しは剣術を嗜んでいた。光希の眉がピクリと上がる。どうやら涼の構えが様になっている事に少し驚いたのだろう。
「霊力はなしでだ、さすがに人の家だからな」
光希はそう告げる。涼は顎を引いて頷いた。光希の目がいつでも来い、と言っているように見えた。
「行くよっ!」
今度は光希が頷いた。涼は地面を蹴って走り出す。
「やあああっ!」
涼は真っ直ぐ枝を光希に振り下ろす。気づけば光希はもう目の前にはいなかった慌てて振り返ろうとする。が、光希の枝が涼の胴体に向かって振り下ろされる。涼は無理矢理身体を捻って後ろに下がった。
間合いを広げまいと迫ってくる光希に、涼は枝をかざして光希の枝を受け止める。光希は一瞬驚いたような顔をして、それからニヤリと口の端を持ち上げた。
光希の姿が消えた。霊力の気配は無い。霊力は使っていない。
ではどこに⁉︎
すぱぁん、と良い音を立てて涼の手から枝が無くなった。
「え?」
何も握っていない手を見つめて、涼はしばらく呆然としていた。光希はとても強かった。
「お前もなかなかやるじゃないか」
枝を手の中でくるくると回しながら光希は言う。
「……光希は、すごく強いんだね。……僕だって、僕だって強くなりたい!」
涼は光希に強い光を湛えた瞳を向ける。光希は頷いた。
「お前はきっともっと強くなれるはずだ」
そして涼は光希と一緒に相川みのるに稽古をつけてもらう事になった。みのるの元で涼は、自分の才能を開花させた。それは戦う事。『神林』とは違っても、戦う才能があるのは涼にとって大きな救いだった。
だが、いつになっても目の前には光希がいた。光希は涼の憧れだった。それは今でも変わらない。
小学生の途中までは一緒に訓練をする事が出来たのに、ある時を境に光希は涼に、周りの人間を遠ざけるようになってしまった。
光希が『孤高の天才』と呼ばれて孤立しても、涼はずっと光希について行こうとするのはやめなかった。光希は涼の憧れでライバル。そして、涼の親友だ。だからまた光希と一緒に戦えるようになって、涼はとても嬉しかった。
光希がいなければ、涼はきっとここにはいなかっただろう。
そうして昔の事を思い出していると、遠い記憶の中と全く同じ風景が目の前に現れた。
光希も涼も小さい頃は可愛かったようです。
 




