楓の復活と涼の電話
楓はそろそろ期末試験の勉強を始めようと、寮の部屋で教科書とノートを開いた。よくよく考えると後二週間ほどで期末試験が始まるのだった。
「あー、テストやだなぁ」
「ホントね。テストがこんなにも面倒くさい物だなんて知らなかったわよ」
楓と向かい合わせで教科書類を広げた木葉はボヤく。楓はその言葉に首を傾げる。よく考えると少し不思議な発言だ。そのまま捉えれば、木葉がテストを最近になるまで受けた事がないという事になる。
「木葉って、テストあんまり受けた事ないの?」
木葉は瞬きした。しばらく考えるような仕草をしてから頷いた。
「ええ、実は私、学校に行くのもこれが初めてなの」
「ほえ⁉︎そうなの⁉︎」
予想を上回る答えに楓は目を見張る。こんなにも博識な木葉が学校に行った事が無かったというのは驚きだった。木葉は少し恥ずかしそうに俯く。
「そうよ、私が一番学校に関しては初心者なの。意外でしょ?」
楓は即座に頷いた。意外過ぎる。色々な事情に通じている木葉だから、学校に行った事がなかったなんていう発想には及ばなかった。だが、木葉にも他の事情があるのだろうとも思う。かなり前から天宮家に仕えている木葉に、学校に行く暇など無かったのかもしれない。そう思うと、木葉にも楓とは違った苦労があった事が見えてくる。
「木葉にも、事情があるんだね。ボクさ、思ったんだけど、この学校って普通な生い立ちしてる人なんか、いないんだね」
木葉は微笑む。変な事を言ったかと心配になった楓は安心する。
「そうね、……そもそもこんな世界でまともに生きる方が難しい。私も、あなたも、光希も……、それぞれの運命があるわ。例えそれがどれだけ辛くても……」
「木葉……?」
楓は木葉がどこか遠くへ言ってしまいそうな気がして、不安に心がさざめき立つ。そんな心配そうな顔をする楓の頭に木葉は手を乗せた。
「そんな心配しないで。私はどこにも行かないわよ。それに、楓は今目の前にある問題に対処しなきゃいけないでしょ?あの二人といつまでも……」
「あぐっ……」
木葉に言われた言葉に楓は視線を彷徨わせた。木葉が言わんとしている事はわかる。楓に涼達とギクシャクしているのをなんとかしろ、ということだ。
「……ボクだってこのままでいたいわけじゃない。出来る事ならいつも通りでいたいんだ。相川と神林の事はすごく信頼してる。そのはずなんだけど……」
「心の奥底で信用出来てないのね。だから、簡単に揺らぐ」
木葉の唇が言葉を紡ぐ。楓の心の奥を暴いていくようで、どこか怖い。だが、楓は木葉の言葉を聞いている事しか出来なかった。
「……光希はあなたのために命を賭けたわよ」
「そ、それはわかってる!でも!」
木葉の言葉は鋭利さを増していく。
「涼はあなたの事を好きだと言った」
「……嘘だよ、そんなの!ボクなんかが誰かの大事な人間になんかなれない!」
楓は目をつぶって首を振る。やっぱり涼も信じられない。
「ボクは『無能』だよ⁉︎何の価値も無い、誰かに大事にされるような物じゃない!ボクは守られるようなものでも無いし、何の力も無いんだよ⁉︎」
楓は血を吐くように叫ぶ。『無能』である自分が大事にされるわけが……。
パンッ
乾いた音が響く。楓は頰を押さえて目を見開いた。木葉の手が楓の頰を平手打ちしたのだった。
「楓、いつまでも『無能』である事に甘えないで!あなたはもうただの『無能』じゃない。天宮家の一人、そしてSランク。何より将来、天宮家当主になるというあなたがそんなのでいいの?」
珍しく木葉が声を荒らげる。楓はただその勢いに圧倒される。
「……別に、ボクは当主になる気なんかない。『無能』なんかに当主なんか務まらない。相川も神林もボクなんかに縛られて……」
楓の言葉に木葉は目を細める。その視線の鋭利さに楓は背筋を凍らせた。
「……それが逃げだという事がわからないの?確かに光希は嫌々だったかもしれないし、涼もそうだったかもしれない。でも、今はあの二人は楓だからこそ守ると決めたのよ。あなたにはそれだけ人を惹きつける力がある。光希も涼も見ているのは楓、あなた本人よ」
楓は瞳を揺らす。そんな事、到底信じられなかった。
「……でも」
木葉は笑顔を見せる。
「楓は楓のまま、そのままの自分でいればいいのよ。変な事は考えなくていい……。ね?」
木葉が自分の事を心配してくれていた事に楓はやっと気づく。自分でも遅すぎると思う。それでも、嬉しい。楓は力いっぱい頷いた。
「……そうだな、ボクはあのままの自分で止まってちゃいけないんだ。木葉、ボクにそれを気づかせてくれてありがとう」
楓はふっと笑顔を作る。卑屈になるだけで何かをやり過ごす事が出来る時期はもう終わった。
そう、ボクは天宮家のSランクだ。
楓は新たな決意を心に刻む。そして楓は木葉の瞳を真っ直ぐに見た。
木葉は笑顔で楓の頭を撫でながら思う。
やはり天宮楓は変わっている。普通ならそんな直ぐに割り切れない。むしろ激昂する事の方が多い。それなのに、この少女は笑顔でそれを受け入れて頷いた。楓はどこか他人とは違う。自分の感情を律し慣れているのかもしれない。
木葉はそっと微笑む。そして、ちょっと前に置き去りにしていた問題を掘り起こす。
「……ところで、勉強、しなきゃいけないのだったわね」
楓はぱちっと目を開ける。恨めしく木葉を見た。この状況でそんな事を思い出させないで欲しい。
「木葉ぁ……。そんな事言わないでよ……」
「あらあら、ごめんなさいね。でも確かに、勉強する気は失せちゃったわね」
楓は激しく頭を振る。あんな話をされてから勉強なんて、出来るわけがない。そしてそんなに楓は図太くない。木葉は苦笑した。
「じゃあ、気分転換に外でも歩く?」
「ナイスアイデアだよ、木葉!行こ行こ!」
楓は机に手を置いて立ち上がる。長く、と言ってもそこまででもないが、座っていたため足が痺れた。少しその場で跳ねて痺れを取る。そんな楓を見てから木葉はスッと立ち上がった。
「行きましょうか」
「うん!そうだね」
二人は部屋の電気を消すと、廊下に出た。
「今何時だっけ?」
楓は歩きながら隣の木葉に尋ねる。木葉は制服のポケットの中に手を突っ込んだ。端末を取り出し、チラリと見る。
「まだ5時よ」
「そっか、学校の最終下校時刻かぁー」
「そうね、一回帰ってからこんな時間に出歩く事もあんまり無いし」
木葉の言葉に楓は頷く。
「そうだねー」
二人は階段を降りて外に出る。丁度寮に帰ってくる生徒達ばかりで、道は溢れかえっていた。夏の夕方の生温い風が肌を撫でる。楓は空を見上げた。まだだいぶ明るい。空が少しだけオレンジ色に染まり始めているのだけが、今の時間が夕方である事を告げている。
「楓」
木葉が楓の袖を引いた。楓は空から目を離す。
「何?」
視線で木葉がある一点を指し示す。楓はその方向に目を向けた。
「……相川と神林……?」
丁度楓と木葉の少し離れた所に光希と涼の二人が歩いている。いつも通りなようで安心しかけた楓だったが、すぐにいつも通りではない事に気付いた。二人とも表情が微かに硬い。何より会話が一切無かった。沈黙している。微妙な距離を置いて隣に並び、沈黙する。楓は眉をひそめた。
「……木葉、何であの二人……?」
木葉は小さく溜息をつく。
「……それは、あんな事があったからよ。例の件、たぶん光希も見てたわよ」
「⁉︎っふぐっ⁉︎」
楓は変な風に息を吸い込んで、目を白黒させる。木葉はやれやれと手を振った。
「そんな事があったら、気まずいに決まっているじゃない。それに二人とも楓をー」
「わあー!相川!神林!」
楓はいい笑顔で二人に向かってぶんぶん手を振る。木葉の言葉を思わず遮ってしまった。聞くのが怖くて。隣で木葉がもう一度小さく溜息をついた。少し後ろめたくなるが、それでもあの言葉を聞いてしまうよりもマシだ。
「や、やあ、楓」
「……」
涼は苦笑いをして楓にそっと手を振ってきた。光希に至っては無表情のままだ。楓はそんな二人を見て笑顔のまま固まる。
……そういえば涼に
楓は思考をフリーズさせて、それ以上考えないようにする。考えればまた色々な所がおかしくなる。木葉に言われて覚悟を決めたのが無駄になる。
「やっほー、相川。今日は何かあった?」
にこにこして楓は尋ねる。まずは関係修復が大事である。今まで無意識的にしろ避けてしまっていたのだ。これを機に直さなければ。
楓がいつも通りの笑顔で話している事にどことなく安堵した光希は、表情を少しだけ和らげる。しばらく考えて口を開いた。
「……今日は別に何も無かったが、天宮は何か良いことでもあったのか?」
「んーと、何もないよ、あはは〜。あ、でも、悩み事みたいなのは解決したんだ」
「そうか」
光希の表情が目に見えて柔らかくなった。楓はそれに嬉しくなる。関係修復する事に成功したようだった。だが、涼はどうだろう、と楓は視線を涼に滑らせる。
「楓は悩み事が解決したみたいで良かったね」
涼はにこりと笑う。楓はそれに同じような笑顔で頷いた。
「ああ、なんかやっぱりさ、ボクの気持ちの問題だったからね。……ボクがどう感じるか、どう思うか、結局自分次第なんだよね」
「楓は……、すごいね」
涼の言葉に純粋な憧れが混じる。楓は少しだけ眉を持ち上げた。
「……神林はー」
楓が何かを言いかけたその時、電話の着信音が鳴り響いた。それを聞いた涼の顔が僅かに青ざめる。楓は木葉に疑問の色を乗せて視線を向けた。木葉は口元から一瞬笑みを消す。何か心当たりがあるように見えた。
「はい、神林涼です」
涼は顔から笑みを消して、電話を取る。誰からかかってきたかはわかっていた。神林本家からだ。ゴクリと唾を飲み込み、涼は答えを待つ。
『涼か。今週末、家に帰って来い。そろそろ報告をして貰わないといけないしな』
家に帰って来られるか、ではなく命令だった。電話の主は涼の父親、神林家の現当主である。涼は溢れそうになる憎悪を心の奥に埋める。隠し切る。家に帰るのは苦痛だった。あの家に涼の居場所はない。それを知って帰るのは、辛かった。あんな場所に一秒でもいたくない。だが、涼には拒否権が無いのもまた事実だった。
「……わかりました」
『ところで、あの「無能」には上手く取り入れたのか?』
涼は口元に薄い笑みを浮かべた。
「……はい」
『そうか、ふん、まあ良い。週末、忘れずに帰って来いよ』
そう言って涼の手に握られた端末は沈黙した。
「何だったんだ?神林?」
楓は顔色が良いとは言えない涼の顔を見て問いかける。何か問題でもあったのだろうか。楓は心配になる。そんな楓に向かって涼は優しく微笑んだ。
「何でも無いよ」
光希はその言葉に眉を動かしたが、結局何も言わなかった。
「……それなら良いんだけど」
楓は二人の様子を見て呟くようにそう言った。
意外とあっさり楓は復活しました




