九.家族の異変
蝉の声が訪れる頃にやってきた連休の初日。
ハクアは高学院のあるスイレン中心部から
自宅がある郊外へと帰省していた。
大抵の生徒はそのまま学院の傍で過ごす
らしいのだが、シルクスに女史から預かった
件を話さねばと思ったハクアは朝食を食べて
すぐ列車に乗り、自宅へと足を運んだ。
だが、本来ならばくつろげるはずの実家には
とんでもない異変が起きていた。
ハクアはその事実を耳にするなり、
聞いたままの内容を繰り返し、叫んだ。
「母さんが出て行った!?」
昨日、母のカズラが突如家出したらしい。
ハクアが呆然と立ち尽くす居間には一家の
手伝いを行う爺と、門下生のジュラが動揺
した様子で代わる代わるハクアに事情を
説明していた。
「私は二階で坊ちゃんが帰ってこられる
準備をしていたのですが、奥方様が
突然怒った様子で出て行かれまして」
「たまたま庭にいた私に、あとのことは
よろしく、と。
それも泣き腫らしながら」
父ビャッコの弟、ロウガは髭をさすりながら
「やっちまったなあ、兄さん」
とにやにやしていた。当のビャッコは
居た堪れないのか虚勢をはっているのか
がちりと腕を組み、どかりとソファに座し、
ただ一人沈黙を貫いていた。
「父さんが悪いってこと、かな?
……うん、まあ、そうだろうね」
ハクアの一言にロウガはそれ以外ないよな、と
笑い出し他の者は当主ビャッコの凄みに目を
泳がせていた。
「あとシルクスが付いていってしまいました」
ジュラは困った様子でハクアに打ち明けた。
「シルクスが?」
「あの大猫はカズラ様に懐いていましたから。
その背に奥様を乗せ飛んで行ったようです」
「どこへ?」
「さあ……。それは判りません」
ジュラは首を振って答えた。
ハクアは父を振り返った。
「父さん、母さんを探さなくていいの?」
当のビャッコはやはり黙ったままである。
「……」
ハクアは呆れて腰に手をやり、
「母さんがいないと困るのは父さんでしょ?」
と諭しにかかった。
「……」
だが、やはりビャッコは何も言う気がないらしい。
眉間に皺が刻まれ、口はますますへの字になり
口を固く閉ざしてしまった。
ハクアはため息をついた。
「もういいよ、俺が探しに行くから。
ジュラ、ちょっとラウルスを借りるよ」
「ええ。どうぞこき使ってやってください」
ハクアは息つく暇もなく、庭で転がっていた
ムササビ熊のラウルスを起こした。
が、これもなかなか動かない。
だがビャッコと違い、口を開くだけ
まだマシな方であった。
「無理だよ、おれやる気でない」
「なんで!?」
今日はどいつもこいつもどうしたんだ、と
ハクアは一人困り果てながらもラウルスを
起こそうと、その毛むくじゃらの前足を
引っ張ったがびくともしない。
「せっかく五月蠅いシルクスがいないし、
こんなにのんびり寛げるチャンスを
逃せるわけないよ」
ハクアはなおもラウルスの角やら後ろ足やらを
引っ張り続ける。
「だけど母さんとシルクスが、どこに行ったか
わからなくて困ってるんだ」
「おれ、行先知ってるよ」
突如ラウルスが鼻先をハクアに向けそう言った。
ハクアは抱えていたラウルスの脇腹を離した。
「ほんと!? どこ?」
だがラウルスはふん、とそっぽを向き、呟いた。
「言わない」
「なんでだよ!」
ハクアは口を割らせようと躍起になったが
ラウルスはまるで泣き言を言うかの様に
ぼそぼそと語り始めた。
「嫌いな街だから。
あの子が突然いなくなっちゃった街だから」
「あの子って、ラウルスが好きだった、
熊みたいな子?」
ラウルスはそのつぶらな黒い瞳に涙を溜めて
こくりと頷いた。
それはラウルスがこの街にやってくる
ずっと昔のことらしかった。
ラウルスに瓜二つの姿でありながら
彼の話を黙って聞いてくれたその者は
ある日を境に突如姿を消したらしい。
かつてはその失恋の痛手で生気まで失い
ジュラの背に被り物の如く背負われていた
ラウルスであったが、厳しいシルクスの傍で
再び活力を取り戻したかに思えていた。
だが、傷はまだ癒えていなかったようだ。
ハクアはラウルスの傍にしゃがみこんだ。
「そういえば俺、その子を探すって約束して
全然手伝えてなかったね。
一緒にその街に行って、手がかりを探そう。
そして、一緒に母さん達を連れ戻そう」
ハクアはラウルスのビロードの肌ざわりの
背中を優しく撫でた。ラウルスはしばらく
黙っていたがやがて体をむくりと起こし
その背をハクアに差し出した。
「乗っていいよ。行先はロゼナの街だ」
大空に銀の角を輝かせ、ムササビの様に腹を
広げたラウルスが風を切り、宙を舞う。
「二人の喧嘩の理由、知ってるよ!」
ラウルスが背に掴まるハクアに向かって
突如叫んだ。
「え? なんて!? もう一回!」
ラウルスの声は風に飛ばされハクアの
耳にうまく届かない。
ハクアは叫ぶように聞き返す。
「喧嘩の理由!
カズラ様の事を、ビャッコ様が
馬鹿にしたんだ!
酔っぱらってたみたいだけど、
大笑いするビャッコ様が見えた!」
「見てたの!?
馬鹿にしたって、なんで!?」
ハクアも風圧に負けじと一層声を張り上げる。
「見てない!
カズラ様の心に映ったんだ!
見えたのはそれと、行先だけ!」
――――心を覗いたのか。
シルクスやラウルスと接するうちに、彼らが
人の心を読めるのは分かったが、いつでも
誰にでもするわけではないらしい。
だが、行先の情報は大いに助かる。
突発的に、なにかラウルスの血が
騒いで覗いてみたのだろうか。
ハクアはそんなことを考えながら
ラウルスが心を読んで知ったとされる
カズラの居場所、ロゼナの街へと向かった。




