掛け違い
閑静な住宅街の一角に赤レンガの建物があった。階段をあがった突き当たりには、心理相談室と書いた扉がある。
室内には臨床心理士がひとり。いつもは助手がいるのだが、今日は用事があるということで数時間ほど出掛けるという話だった。
これからくる患者からは、助手が電話で事前に話を聞いている。
臨床心理士はコーヒーを片手に相談内容を確認した。どうやら、離婚寸前の男らしく、妻と寄りを戻すか戻さないかで悩んでいるらしい。
「決断力のない男だな。なるほど、無職なのか。それで別れられないと」
相談を受ける立場である以上は、主観ではなく聴く側に徹さなければならない。患者がどのような苦しみの信号を発し、そして適切なアドバイスができるのか。更に悩みの内容を確認していく。
「暴力も奮われ、自室という逃げ場もないか……これは、自分に自信を持たせることが第一だな。そして、自立してもらわなければ」
質問の答えを読み終えた時、チャイムの音が鳴った。すぐに席を立ち、臨床心理士は患者を室内に招き入れる。
悩みを持つ者のほとんどが人の目を気にしている。それは、弱い部分を見られたくないためだ。そのため、チャイムが鳴ってから、患者と向かい合うまでは、あまり時間はかからなかった。
「気を楽にしていいですよ。電話で話された内容も聞いています。遠慮せずに、ここでは全てを言ってください。そうすることで嫌な気持ちも解消し、安心することもあるでしょうから」
そう言いながら臨床心理士は、強面で体格のよい男性なのにと患者を見ながら思っていた。患者は重い息を吐いてから、視線を落したまま口を開く。
「自由になりたいのに、性格まで強要されるんです。そして、馬鹿にされ蹴られ、それでも笑っていなければいけないなんて……もうたくさんです。消えたい」
消えたいという言葉が出たので、臨床心理士は驚いた。これは最悪の事態に成り兼ねない。慎重に言葉を選んでいく。
「まず、自由になる方法を考えましょう。次にあなたの性格の強要をする権利は誰にもないはずです。そして、馬鹿にされ蹴られることは、法的に考えてもおかしなことです。笑い続けることはないですよ。せめてここでは毒を吐いてください」
「私が消えても代わりはいると思っています」
「代わりはいたとしても、あなたに成り得る人は存在しません。あなたはあなたです」
臨床心理士がそういうと、患者は張り詰めた糸が切れたかのように笑顔を見せた。
「そうですよね。やはり、気持ちを強く持たないと」
「その意気です。自信を持ってください」
続けられた言葉で、男は更に自信を持ったらしく、興奮した荒い息をしていた。臨床心理士は後押しするかのように彼の背中を叩く。
「先生のお蔭で、先が見えた気がします。来てよかった。ありがとうございました」
相談にのって、これほど感謝されるのがはじめてだったため、臨床心理士は「あなた、ご自身の力で立ち直ったのですよ」と半ば照れ隠しのつもりで答えた。
「ええ、もうむこうには何も言わせませんよ。テレビを観ていてください。きっと成果が出るはずです」
妙なことを言い残して患者は去っていく。臨床心理士は見送ってから冷や汗をかいた。
どうにも別れ際の言葉が腑に落ちない。もしかしたら、アドバイスを全て曲解されたのではなかろうか。そうなると、大問題に発展する可能性がある。
その時、扉が開いて助手が入ってきた。
「ただいま帰りました。患者さんの具合はどうでしたか。なんでも、その責任感をかわれて、ご当地キャラクターの仕事を任されたそうで。あまりにも人気が出ないことから、市長と折り合いが悪くなったそうです。えっと……次の患者さんは、離婚寸前で悩む方でいいですよね?」
臨床心理士の手元には、次の患者の症状が書かれた紙。その紙には助手が言った、ご当地キャラクターのイメージチェンジに悩んでいる患者さんですと書いてある。
「ああ、そうか。間違いか。そういうことか……いや、大丈夫、大丈夫だ」
「どうしたのですか、先生。まるで患者さんのように顔が真っ青ですよ」
数か月後、ある地域のご当地キャラが大人気とテレビで放送された。
どうやら、子供に馬鹿にされ蹴られていたことから、もう馬鹿にされまいと特訓をして生まれ変わったキャラクターらしい。子供に蹴られそうになったら、その子供を抱き上げてこう言うそうだ。
「親はどこにいる」。もうひとつの決めゼリフは「俺に成り得る者は存在しない」。
「毒吐きキャラか。確かに相談された時に、そうは言ったが……世の中、何が流行するか、わからないものだな」
臨床心理士は息を吐くと、二度とあのような相談がこないようにと神棚に祈っていた。




