運
男は雲の階段をのぼり続けていた。
のぼりはじめて数時間は経っているはずだが、疲れも空腹も感じない。
そして、周囲に広がるのは、先が見えない黄金色の景色だけだ。
男は息を吐いた。疲れたわけではない。自分の人生に嫌気がさしていたのだ。
自分に振りかかる災難ときたら、不運の連続としかいいようがなかった。
とにかく、何もないところで転ぶ。外に出れば必ず鳥のフンの直撃を受ける。雨の日は車が飛ばした汚水の犠牲になる。
賭け事だって勝ったことがない。懸賞にも当たった試しがない。
ここにきた理由も最悪なものだった。上司に使わないから貰ってくれと言われてポケットに入れたキャバクラのライターを、妻に発見されてしまったのだ。
発見されただけなら、まだましだった。
深夜まで出掛けていたのは仕事ではなく、それが理由だったのかと詰め寄られた。更に、妻は身支度をはじめると、実家に帰ると言って出ていってしまったのだ。
しっかりと起きて自分を迎えてくれていた妻。仕事の愚痴も嫌な顔もせず聞いてくれていた。背広もハンカチもネクタイも、しっかりとアイロンでシワを伸ばしてくれていたので、上司から褒められ、顧客には素敵な奥さんですねと羨ましがられた。
自分にはもったいないくらいの妻だ。こんなに献身的な妻はいない。すぐに誤解をとかなければ後悔する。
そして、慌てて妻を追いかけて家を出た瞬間、車に轢かれたのだ。
あとのことはよく覚えていない。
体を起こすと、目の前に倒れている自分がいた。
一体、なにが起きたのかと考えているうちに、体が浮きあがっていき、倒れている自分の姿が見えなくなったところで黄金色の光に包まれたのだ。
今、目にしているのは天国へ向かう階段に違いない。もし、生き返れるのならと、男は考えていた。
「こんな俺に、妻はついてきてくれていたのに……なんでこんなことになってしまったんだ。愛していると言いたい。それだけが心残りだ」
想いが言葉になって吐き出された。それでも現実は残酷だ。目の前に門が見えてくる。
これは天国の門だろう。男が近づいた途端、門は音もなく開いた。
男は目を大きく見開いた。眼前には光を放つ人物が座っていたからだ。
「お前さんが、今日きた新入りさんでっか。人生経過を確認するさかい、ちょっと待っといてえな」
男は、神様らしき人物が、ぶ厚い本の中身を確認する様子を、ただぼんやりと見ていた。
すると、ページを捲る神様らしき人物の表情が変わっていった。尻込みしてしまうほどの真剣な表情に、男は息を呑んだ。
「これは手違いや。お前さんの徳が人生に反映されておらん。すぐに配慮するさかい、手え出して」
言われるままに男が手を出すと、『聖徳』という判が押された。
「これで来世では運がつくはずや。今回は運が悪かったと諦めてもらって、来世にな」
神様らしき人物の言葉を訊いて、男は肩を落とした。妻に感謝の気持ちを伝えることもできないのか。途端に涙があふれてきて、目の前がかすむ。
瞬間、男は足の踏み場を間違えた。時間をかけてのぼった長い階段を転がり落ちていく。
そして、男はいつの間にか、途中で意識を失ってしまっていた。
目が覚めると、そこは病室だった。泣き声に気づいて隣を見ると妻がいた。
「あなた……よかった。事情は全部聞いたわ。それにうわ言であんなことを……勘違いして、ごめんなさい」
男は一度、呪った人生に感謝した。今回は不運が良いほうに転んでくれたらしい。
そして、手にあるのは『聖徳』の文字。これはきっと現世に反映されるのだろう。
不運で階段を転げ落ちたのだろうから、きっと次に同じ場所で転ぶことはない。
それでも、愛すべき妻と会えるのは、この一生だけのはずだ。
男は「ただいま、愛している」と言うと、妻を強く抱きしめた。




