月夜
前日に降った雨で浄化された夜空に、月面模様まではっきり見える満月がうかんだ。
ここは都心から、すこし離れた一軒家の縁側。淡い月光で照らされた庭には、男と女が肩を寄せ合う影が伸びている。
二人は新婚旅行から帰ってきたばかりだった。荷物を片付け終えて、一息吐いたところで月に魅入っていたのだ。
人肌を伝えあう安らぎに浸りつつ、男は満月を見ながら口を開いた。
「奇麗な満月だな。月にはウサギがいるって、昔の人が想像したのがなんとなくわかるよ」
女も「そうね」と相槌をうつと、男の話に続けた。
「だけど、国によって月の模様の喩えが違うのよね。女性の横顔とか、ライオンとかも聞いたことがあるわよ」
女の話が終わった途端、男の腹が音を出した。帰国と荷物の片付けという二重の忙しさから、食事をすることも忘れていたのだ。
まさか腹から返事が聞けるとは思ってもいなかったのだろう。女は微笑んだ。
「今夜は月見そばにでもしましょうか。あと、月の模様は女性の横顔とも言うから、母の味付けを真似して……」
「いいね。それとウサギは餅をついているから、餅も入れようか。満月を見ながら、ここで食べると、また味も格別になりそうだ」
彼女の案は面白い。同意した男は、言ってからあることに気づいた。
満月、餅をつくウサギ、女性の横顔。言った全てのワードを繋げるつもりなら、ライオンが足りない。どういったかたちで含ませればいいのだろうか。
「じゃあ、ライオンはどうするんだ?」
「ライオン? すぐ近くにいるじゃない」
男の問いに答えた女は、肩を寄せてきた。旅行先で試していたのだろうか。嗅いだことのない魅惑的な香水の香りが、男の鼻腔を通って脳を揺らす。
男の思考は混乱した。急に彼女が積極的になった理由がわからない。しかし、すぐにライオンの含みが思い浮かんだ。そうか、俺に夜の獅子になれというのか。
ライオンはその手に関しては、かなり精力的らしい。食事を摂らずに一日中、励むのだそうだ。
男の中で結論が出た瞬間、女の手が膝の上に置かれた。男は興奮した。今度は耳元に近づいた女の唇から出される温かい呼気が、耳殻を通って官能を揺さぶる。
理性が飛んでしまうと男が感じた時、今度は女の手が微妙な位置に置かれた。
――据え膳食わぬは男の恥。
そんな言葉が浮かんで、男は女の両肩をつかんで引き寄せる。ところが、この場とは不似合いな真剣な眼差しが、向けられていることに気づいた。
「もうっ、忘れたの。私は獅子座でしょ」
思いがけない返事に男は呆然とするしかない。
いや、女の心理を確認しないまま、行為に及ぼうとしたことにドキリとする。
旅行で疲れているはずの女に、あのまま強引に迫っていたら?
思いこみというものは怖いものだ。
新婚旅行先のシンガポールで撮ったマーライオンの写真が、テーブルの上に置かれたままだった。




