怪奇
深夜、乗客の足が尽きた無人の駅前に、一台のタクシーが停まっていた。
回送の札を立てた車内には、運転手ひとりだけ。
慣れない道を走ってきたせいか、完全に迷子になっていた。カーナビもないため、地図を広げながら、どこにいるのかを調べる。
看板に書かれていた文字を頼りに現在地を確認した途端、運転手は息を呑んだ。そこが怪奇スポットとして有名な場所だったからだ。
――嫌な時期にきてしまったものだ。
じっとりと肌に吸いつくような湿気と、生温かい空気が混合される夏の夜に、誰が好き好んでこんな所へくるのだろうか。
運転手は心霊番組や怪奇特集が苦手で、妻や娘がその手の番組を見はじめると、必ずといっていいほど、奥の部屋に逃げこんでいた。
――こんな場所に一分一秒も長くいるのは、ごめんだ。
ハンドルを切って、車を急反転させると、国道に出ようとする。
目の前の信号は赤、通過する車は一台もないが、信号無視をする訳にはいかない。
立ち並ぶ家々には、まだ明りが点いている窓がある。タクシー会社という広告を背負っているのだ。違反を見られて会社に報告されたり、写真に撮られてしまえば信用にかかわる。
その時だ。何かがぶつかった音を、運転手の耳は捉えていた。
跳ね返った小石が当たった音ではない。無機物ではなく、有機物がぶつかった音。
バンッ! バンッ!
一定の時間をおいて繰り返される音は、車の背後から側面に、側面から運転席に徐々に近づいてくる。
前方の信号が青になったのにも関わらず、運転手はアクセルを踏みこめなかった。金縛りにあったように、恐怖で足が竦んで動けない。
瞬間、今までで一番大きな音とともに、血塗れの手が運転手の横の窓に叩きつけられた。
そして、顔面蒼白の女が姿を見せた。顔半分が鮮血で染まっている。その女が口を開く。
「乗せて……」
消え入るような声を聞いて運転手は震えあがった。慌ててアクセルを踏みこんだ。祟られるとかは考えなかった。乗せて怖い目にあうのだけは嫌だという思いしかなかった。
バックミラーで女の姿を確認する。起きあがった女はタクシーを追いかけてきていた。
そして――豪快にこけた。
心拍数が跳ねあがっていた運転手も、これには驚いてタクシーを停めた。窓を開けると、幽霊もどきの女の声が辺り一帯に響いていた。
「お願い乗せてよお! 終電に乗り遅れたのよお。酔っぱらって転んで、血塗れなのは謝るわあ」
ろれつの回っていない女の相手に、運転手は涙目になりながら叫んでいた。
「ややこしい真似すんな! お蔭で……ちびっただろお!」




