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三点リーダ『……』の使い方

■ 1.はじめに


三点リーダ『……』の使い方について。


PC上で書く場合は、たとえば『;』を変換して『……』に、

そして『:』を『――』に変換できるようにしておくと、捗る。


これであれば、リーダを中黒『・』でそれを代用するとか、ダッシュを長音『ー』で代用してしまうなどの事象は無くなる。しかもワンキーだけでそれらを出すことができるので、登場頻度が否が応でも上がる。終いには、手のつけられぬ程に記号まみれとなる。




……しかし、その前に考えねばならぬ。


――そもそも、なぜ文中に点やら線を置くのか。

――どのように、その手の約物が発生したのか。

――それらを発生させた力学とは、なんなのか。




この二つの約物とその使い方は幾度となく議論の俎上に上がる類のものだ。それは原子力発電所と自転車置き場の議論にも匹敵するような物々しさと終わらなさを伴っている。それら――特に『……』――が、現代文芸の中核である――という人もいれば、あるいは逆に、それらの無意味な記号は全く不要だ――と主張する過激派原理主義派までもが存在し、その各々が奇妙で危ういバランスの上で対峙している。とても奥深い、そして業も深い、まさに罪つくりな記号だ。


これらの雑多かつ未解決で錯綜した現状も含め、それら『……』『――』の周辺を小奇麗に解き明かす必要がある。



■ 2.筆記と活字とタイプライタ


まずは、古いレジームから観ていこう。それは、古き良き活字の時代である。


この三点リーダを印刷するためには、その前の作業として、点を拾うという面倒くさい作業がある。考えても見てほしい。彼ら活字屋が持っている点(および点に類するちんまい記号)は、多岐に及ぶ。『。、.,・‘’”:;』などは判別するのすら面倒くさい、眼と頭を悩ませる厭な活字なのだ。小さすぎて渾然としている、そしてそれぞれの見分けがつきにくく、結果、誤植という大敵が生じる。


ここで参考になるのは『天皇陸下』だ。これもありえぬ誤植であり、さらには戦時下においては致命的な誤植である。正しくは『天皇陛下』。この四ツ文字をひとつの鋳型で形成した活字があった――という逸話まである。


筆での点描。面倒くさい。事実、筆で書かれた文字には句読点がまるでない。全ては文字間のスペーシング(つまりは分かち書き)と改行で代理されている。そして繰り返しのための筆用の記号、踊り字も存在した。『々、ヽ、ゝ』だ。他にも二の字点やくの字点がある。


この踊り字という発想は、アルファベット圏にはまるで見られぬ発想である。漢字は面倒くさいのであろう、できるだけ画数を減らすためにこの手の処置がとられた。


従って、リーダやダッシュのような筆記法は、まずは西洋にて発達した。文中に点々を潜り込ませる、あるいはラインを引く。そういうような表現がしっくりくるであろう場合が、あるのだ。筆者がなぜかそこに点や線を置きたくなった、そのような文脈が構成されてしまった、だから『...』や『--』を置く。


ここでは、文字固有の意味よりも、点々や線の視覚的効果のみで文章を分からせようとしている。その点において、三点リーダやダッシュは象形文字であり表意文字でありアスキーアートである。


実際に筆記している最中の動作は、紙に向かってペン先でツンツンとつつくという挙動や、語の前後にラインを引く、という行為。文中からの刺激によって、筆者がそのような行為をとりたくなった、そしてそれがそのまま文章になったものが三点リーダやダッシュである。


タイプライタではピリオド三つあるいはハイフン二つにて代用でき、この場合はタイプライタ以前に出来上がった様式からの継承であろう。


もしくは、三点リーダやダッシュがタイプライタ時代に入って初めて登場した場合。今まで意識しなかった文字外の文字たるピリオドやハイフンが余りにも明示されたため、それを使ってみたくなった。


有機的な空白である。行頭インデントのように、ただ空白を置くだけでなく、点や線で充填された空白を置きたくなった。空白であり、省かれたものでもある。含みを持たせる。考え続けているという継続状態の表記。言い淀みの明記。明言ではない状態。


そして、本邦における『……』『――』の導入である。ピリオドやダッシュで代用可能であった欧米でのリーダやダッシュを、別の記号にて再現した表記法である。だから使い方も似ている。似せる他、無かった。


二倍三点リーダ『……』とは、活字時代のお約束だ。二点リーダ『‥』も存在するものの、三点と二点が混在するような状況であると面倒くさい。活字を拾う作業が面倒くさい。だから出版社は強制したのだろう。「リーダは二倍三点のものを使いましょうね」と。それが楽な共通ルールであり、より出版しやすくするための方法でもある。



■ 3.PC‐キーボードでの三点リーダ


PC時代になると、句読点の隣に『・』が出現した。中黒である。点が置ければいいという発想がそもそも、そしてお次が活字拾いの手間解消。しかしそれらが払拭された環境では、当初の目的たる〈点が置ければいいよね〉という思考の自然な発露に立ち返った表現や表層が重要となる。


つまりは、眼に見える記号表現だ。それを実現するための方法は何でもよく、ただただそういう風に見えればよい。点を置くことが重要なのであり、それがどのような文字コードあるいは活字であるかは一向に気にしない。さらには、キーボードにおいてはそれをつつく行為の再現だ。欧米においての、ピリオドを手持ち無沙汰につつく行為。この挙動が中黒というキーボードの登場により、より再現できるようになった。


『・・・・・・』とキーボードを打つ瞬間、その挙動までもが再現でき、しかも視覚的に似ている効果までをも生み出す。日本のキーボードでは、リーダに相当する、より純粋な記号が置かれているのと等しい。それだけのために存在しているかのようなキーがあるのだ。


それを『。。。』などと代用しても、中身の詰まった点としての表層からくる文芸上の表現や感情はもたらされない。輪ではなく点としての見栄え、そしてキーボードをつつくという行為の両方が必要なのだ。それでなければリーダは成り立たない。欧米ではピリオドとリーダは兼用されていたが、中黒という文字およびキーボードの登場により、欧米よりもさらに純粋なリーダ行為ができるようになったのだ。


が、たびたびこれらの深淵かつ果てしない議論の俎上に上がるように、『・・・・・・』などというリーダは〈お作法に合っていませんね〉〈ルール違反です〉〈ダメです〉などと言われる。変換キーを押せば、その中黒の羅列は即座に三点リーダ『……』に変換されるのだが。


そもそも、書き手が三点リーダの存在を知っているとも限らない。かな漢字変換というシステムの中に置かれ、〈隠されている〉記号なのだ。知ろうにも知りようがない。ならばこそ、目の前の刻印されている中黒『・』というちょうどいい記号をそのまま押すという行為が行われても、なんら不思議ではない。


さらには前述の割り当てによる変換での『……』の発現は、そもそもの三点リーダの性質を剥奪されている。その文字がほしいのではなく、もしもピリオドを打つという行為こそが三点リーダの本質となればどうであろう。;から……に変換するなどという行為は、三点リーダの本質からはかけ離れた行為となってしまう。感情の再現ができぬ擬似状態でしかない。



■ 4.指先


書く瞬間、今まさにそれを書かんとする瞬間の手の動きこそが、三点リーダにおいては最重要だ。


なぜ三点リーダ使いたくなるか、さらには、なぜその行為をしたくなるか。この論点において、指の動きは無視できない。感情の終端である書く指には、作家の心の迷いが集結する。その背景には、指先と紙上における、物理的なものとはまた別種の摩擦、いわゆる心理的葛藤がある。それが指先の動きに反映され、それらの複合的な挙動がそのまま記号となり、見なれた記号とその複合から全く別の意味を紡ぎだす。これが三点リーダの成立の要だ。



■ 5.無と省略


『……』は、省略を表す無の記号だ。数学においても〈続きますよ〉の意において『...』が使われる。例えば、自然数は『1, 2, 3, ...』などと書く。この後にはおなじみの数字が延々と無限に果てしなくだらだらと続く。


ここでは、容易に連想可能な省略――という確固たる意味をもって、三点リーダは明示的に用いられている。果てしない省略である。


この文脈において、用途が先にあるのではない。表現の一形態として、まずは省略を明示したいという大いなる意思がある。表現された省略、表現された空白、記号となった省略――を置きたい、という巨大な願望が、まず在る。そのような願望があって初めて、三点リーダやダッシュという記号表現が登場する。


そして、省略や空白を表す容易な記号として、点や線が選ばれた。逆にいえば、その表層を纏っていなければ、とても省略や空白には見えぬのである。


形から即座に連想できる意味、その記号の意味を知らずともその記号の意味が伝わる、まさに表意的な抽象記号として、リーダやダッシュは存在する。見えるものと感じることの記号的な一致により、これらの記号は成立している。


書かれ得ぬものを書く――という一点において、その身近な記号こそが、中途半端に紙上という空間を占有した、『……』や『――』なのだ。



■ 6.欠落


言い淀み。


どちらが先かは分からぬが、おおよそ発話のほうが先であろう。


言葉に詰まり、それを表現したのが『……』か。それとも『……』の後に初めて言い淀みが誕生したのか。――発話の方が先であろう。


人間はしばしば言い淀むことがある。言えないことを言わんとするとき、人は詰まる。言葉が出なくなる。意図的に言わないとき、言葉が見つからぬが故に言えない時。様々な状況が考えられ、その時どきに言い淀む。


淀んで詰まって略された空白の世界、それが我々の住まうこの社会なのだ、そのような大量の省略が有って初めて我々の本当のコミュニケーション空間が確立している。省くべからずと記された多種多様の空白、それらの淀みや含みがあって初めて成り立っている社会なのだ。


言ってはならぬこと。言葉が見つからないのではなく、言ってはダメなことがある場合。その最中に登場する記号も、やはり『……』だ。禁喋と言うべき瞬間、人は押し黙る。その些細な空白こそが『……』で表現される。強烈なストップがかかり、言う言わぬの間で強烈な葛藤が巻き起こる。その緊張感が、点や線に集約されている。


そして、言い淀むことで物語の中核がハッキリすることすらもある。言えぬことこそが言いたいこと、そのような文脈は往々にして存在し、それらは言えなかったという事実においてのみ表出してしまう。


欠けたものの明示は、通常の発話中では不可能だ。記号という表層をもつ文芸だからこそ明瞭となる。そこで欠落がある――と分かる。記号になって初めて、その欠落を認識できる。さらには、その欠如欠落の効果的な使い方すらも編まれる。


文芸においては、筆者の恣意的な欠落こそが『……』だ。その用法は、落とすべき表現を見定めてそこに『……』を当て嵌める、という無意識でのプロセスに依る。


何かを書くより、何を書かぬか――ということを見定める方が、より面倒な仕事であろう。この手の有機的な空白を作るには、それに至る過程や省略が発生すべき文脈の構築が不可欠となる。


語りえぬもの、語られなかったもの、語るべきではないもの。それらが幾層にも渡って沈殿している。この淀みの最下層こそが、我々の社会の基盤だ。我々の社会は、無言の王国だ。


その欠落がどのように生じるのか。それを作り話で示すのが、『……』や『――』のもつ役割だ。


すなわち三点リーダの使い方とは、欠落ある文脈を作り出すことそのものである。


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