第1話 喧嘩屋の意地
四方を囲まれ、俺は壁を背にしていた。
雨季の真っただ中とあって、空気は湿りきっている。ぼろぼろになった制服の上着が、首筋の汗に張りついて気持ち悪い。
普段の俺なら、喧嘩でどれだけ数的不利に立たされようと、そう簡単に慌てたりはしない。いざというときの逃げ道さえ確保できれば、大抵は何とかなるものだ。
だが、今回は……
「今のうちに膝をついて命乞いでも始めたらどうだ? そうすりゃ、なるべく早く終わらせてやるぜ。なあ、異世界人さんよ?」
街でも特にタチの悪いオークの一団。その頭目が、以前からやたらと俺に目をつけていた。
奴にとって俺は、てっぺんへ上り詰めるための邪魔者なのだろう。薄汚い路地裏にたむろする連中の中でも、少しばかり腕っぷしが強く、目つきの悪い野郎を一人叩きのめす。ただ、それだけの話のはずだ。
なのに……今日の遭遇は、どうにも妙だった。
少々、個人的な恨みが混じりすぎている気がする。
そもそも、俺はこいつと同じ地区で寝泊まりしているわけでもない。
というか、この忌々しい世界へ放り込まれて以来、まともに「家」と呼べる場所すらなかった。
それでも、物乞い横丁の外にまで俺の名前が知れ渡っているということは、喧嘩屋としての評判が先回りしていたらしい。
路上の喧嘩なんてものも、噂が一人歩きし始めれば、いつの間にか伝説めいた話になってしまうのだから面白い。
ついさっきまでは、目の前にいる大男どもと一時休戦する道も考えていた。
しかし、どうやらそういう流れにはならなさそうだった。
「そんなにやる気なら、一対一で勝負しようぜ。それとも怖いのか、豚面野郎?」
考えなしに挑発しているように見えただろうが、実際には相手の出方を探っていた。
こいつがどれほど挑発に乗りやすいのか。そして、どれほど最初の一発を打ちたがっているのか。
それを確かめたかったのだ。
「……ちっ」
思わず舌打ちした。
意外にも、奴は動かなかった。
残念ながら、そう簡単に頭に血を上らせて、隙を作らせることはできないらしい。
何しろ、向こうは六対一という圧倒的な数の優位に立っている。
妙な話だが、思っていた以上に頭が回ることには少し感心した。
……いや、感心している場合じゃねえな。
これは、なかなか厄介な状況になってきたぞ。
楽な喧嘩にはならなさそうだ。だが、何の策もなしに、こんな場所へ追い込まれる俺じゃねえ。
俺は、この路地裏の乱闘に至るまでの経緯を、ほんの一瞬だけ振り返った。
この街で生き延びるために戦えば戦うほど、俺に喧嘩を売りに来る奴が増えていく。
そんな悪循環が、毎日のように続いていた。
頼れる相手は、自分以外に誰もいない。
生き残れるか。それとも、あがいた末に死ぬか。
すべては俺次第だった。
考えてみりゃ、地球にいた頃も似たようなもんだったな……
「へっへっへ…… 面白え野郎だとは思ってたが、まったく、大した度胸じゃねえか! わざわざ会いに来た甲斐があったってもんだ。隅っこで小便漏らして震えてるような奴だったら、退屈で仕方なかったぜ」
一団の頭目――残虐なるコラグとして知られる男が、殺意を滲ませた目で俺を睨みつけていた。
「だがなあ……」
威圧感たっぷりのオークが、大きく口を開けて笑った。口元には、何本もの牙が並んでいる。
長く脂ぎった髪は後ろへ撫でつけられ、太い緑色の首の後ろで一つに束ねられていた。
噂には聞いていたが、大体は本当だったらしい。
こいつの身体は、今にも噴火しそうな火山みたいな迫力がある。
しかも、気性の荒さは火山以上ときた。
何の前触れもなく、拳が俺の腹へめり込んだ。
ほんの数センチの距離から放たれた一撃だったというのに、肺の空気を根こそぎ叩き出されるほどの威力があった。
もちろん、こういう汚い手を使ってくることは予想していた。
だからといって、今の俺にできることは、ほとんどなかった。
「その威勢は買ってやるよ、坊主。そこは認めてやる。だが、アイアンタスク・オーク団をコケにした罪は、そう簡単には許されねえんだ。わかるな?」
コラグは片手を振り、数歩後ろへ下がった。
その動きに合わせて、革の外套が翻る。
「お前ら、たっぷり可愛がってやれ」
俺が腹への一撃から立ち直るより早く、容赦のない袋叩きが始まった。
拳、肘、膝。それから、ほかにもいろいろ。
コラグの手下どもが次々と殴りかかってくるせいで、何を食らっているのかさえ、まともにわからなくなっていた。
当の頭目は、にやにやと笑いながら、その光景を眺めているだけだった。
「ほらほら、異世界人さんよ! ご自慢の魔法でも見せてみろって!」
「はっ! できるわけねえだろ! 使えるんだったら、とっくにほかの化け物どもと一緒に学院へ入ってるさ! なあ、嘘つき野郎!」
俺は歯を食いしばり、奴らの罵声に耐えた。
「……おう、その辺にしとけ」
ようやくコラグが、手下どもに暴行をやめるよう合図した。
もっとも、慈悲の心が芽生えたからではないだろう。
「ひょろひょろのガキにしちゃ、ずいぶん打たれ強えじゃねえか」
奴は嘲るように身を屈め、得意げな笑みを浮かべたまま顔を近づけてきた。
ここまで近ければ、鼻筋を横切る傷痕もよく見える。
過去の戦いで負ったものだろう。
全身が、とんでもなく痛かった。
だが、こいつにだけは悟らせるものか。
「お前らのパンチがへなちょこなだけじゃねえのか? そう考えたことはないのかよ、このクソ野郎!」
咳き込みながらも、俺は言い返した。
「いい大人が寄ってたかって学生一人を袋叩きかよ! 戦士としての誇りはどこへ行ったんだ?」
「ほう? 今のはなかなか面白えことを言うじゃねえか」
コラグが、もう少し近づいてきた。
「一番になりたきゃ、一番強え奴と戦わなきゃならねえ。負けたあとになって、ガキだから手加減しろなんて言い出すんじゃねえよ、坊主」
奴は、俺の理屈に心底呆れたとでもいうように首を振った。
俺は膝をついたまま、コラグを睨み上げ続けた。
あとは、奴が不用意に間合いへ踏み込んでくるのを待つだけだ。
そこが、俺の狙っていた隙だった。




