第52話 魚を食うということ
釣りを終えた国王たちは、ウマヅラフフググを持って村へ戻ってきた。
籠の中では、先ほど釣り上げた魚が元気よく跳ねている。
ぴちっ。
「元気だな」
国王が籠を覗き込む。
サファイアも横から顔を出した。
「食べる?」
「……」
国王が魚を見る。
そして、サファイアを見る。
「食べるか?」
「食べたい」
「俺も」
二人の視線が魚へ戻る。
その時だった。
「やめとけ」
背後から師匠の声がした。
「……」
「……」
二人が振り返る。
師匠は腕を組んで立っていた。
「こいつにゃ毒がある」
「やっぱり?」
「やっぱりじゃねえ」
師匠が呆れた顔をする。
「お前ら、さっきまで本物のフフググの話をしてただろうが」
「いや、でも」
国王が魚を見る。
「こっちはウマヅラだろ?」
「名前が違うだけで安心するな」
「毒も?」
「ある」
「……」
国王は魚を持ち上げる。
ウマヅラフフググはこっちを見ている
「見た目は普通なんだけどな」
「毒ってのは、見た目じゃ分からねえ」
師匠の声が少し低くなった。
「それに、魚を釣れることと、魚を食えることは別だ」
「……」
国王は黙った。
その言葉は、妙に鍛冶と似ている気がした。
鉄なら何でも鍛えればいいわけではない。
魚なら何でも食えばいいわけではない。
素材には素材の性質がある。
そして、それを知らずに扱えば――。
「命に関わる」
国王が呟く。
「そういうことだ」
師匠は頷いた。
サファイアも魚を見つめた。
「じゃあ……食べないの?」
「食べねえ」
「せっかく釣ったのに」
「釣ったことには意味がある」
師匠は二人の釣り針を見る。
「釣り針の試験はできた」
「それに」
国王が笑った。
「魚には魚の都合がある」
「どういうこと?」
「食われたくないだろ」
「魚だよ?」
「魚だって嫌だろ」
「……」
サファイアが魚を見る。
「そうかも」
国王は笑った。
「じゃあ、帰してやるか」
「うん」
籠を持って、三人は川へ向かった。
しばらく歩く。
やがて、あの川が見えてきた。
国王は岸へしゃがみ込む。
「ほら」
魚を水へ入れる。
一瞬、魚は動かなかった。
だが。
ぱしゃっ。
尾びれが水を叩いた。
魚は川の中へ戻っていった。
そして、そのまま流れに乗って見えなくなる。
「……行っちゃった」
サファイアが川を覗き込む。
「ああ」
「ちょっと残念」
「まあな」
国王も笑う。
「でも、釣れた」
「うん」
「釣って、試して、帰す」
「それも釣り?」
「たぶんな」
師匠が後ろで笑った。
「腹を減らしたまま帰るのも釣りのうちか?」
「それは困るな」
「じゃあ飯にするぞ」
「賛成!」
サファイアが元気よく手を上げた。
その日の夕食は、村の食堂だった。
大きな鍋が中央に置かれている。
野菜の煮込み。
焼きたてのパン。
ウマヅラフフググではない、焼いた魚。
鉄鍋で作られた料理から、湯気が立ち上っている。
「うまそう!」
サファイアが目を輝かせる。
「いただきます!」
「早いな」
国王が笑う。
サファイアはもう料理を口に運んでいる。
「おいしい!」
「そりゃよかった」
師匠も豪快に笑った。
「今日はよく動いたからな」
「国王も食べて」
「おう」
国王も料理を口へ運ぶ。
「……うまい」
「だろ?」
「やっぱり村の飯はいいな」
「お前は昔から、鍛冶場の飯をうまそうに食いやがった」
「腹減ってたからな」
「今もだろ」
「今もだ」
三人が笑う。
昼間の釣りの話も出た。
「それにしても、あの魚」
サファイアが言う。
国王の針、すぐ吐き出されたね」
「……」
「ぺって」
サファイアが口を尖らせて再現する。
「ぺっ」
「お前なあ」
「私の針はもっと長かった」
「はいはい」
「兄弟子さん、負けました」
「分かったよ」
国王が笑う。
「今日はサファイアの勝ち」
「やった!」
師匠も笑っていた。
「だがな」
師匠が箸を置く。
「勝った負けたってのは、今はどうでもいい」
二人が師匠を見る。
「大事なのは、本番で何をするかだ」
食卓の空気が少しだけ変わった。
「本物のフフググは、今日の魚とは違う」
師匠は静かに続ける。
「針を作ったから釣れる、なんて思うな」
「……」
「餌を付けたから食いつく、なんて思うな」
国王は黙って聞いている。
「魚はお前らの都合なんか知ったこっちゃねえ」
「食う時は食う」
「食わねえ時は食わねえ」
「そして、少しでもおかしいと思えば吐き出す」
師匠は国王を見る。
「だから、本番では焦るな」
「……」
「魚が来たからといって、すぐ竿を引くな」
「待つ」
「そうだ」
次にサファイアを見る。
「食いついたからといって、勝ったと思うな」
「……うん」
「魚が吐き出すまでの一瞬に、お前らが何を見られているかを考えろ」
サファイアは真剣な顔になった。
「針も?」
「ああ」
「釣り方も?」
「ああ」
「そして?」
「礼儀だ」
師匠は頷く。
「魚との勝負ってのはな」
一度、言葉を切る。
「魚を騙すことじゃねえ」
「自分が魚に合わせることだ」
「そこには正々堂々と戦う、礼儀ってのがある」
国王は、その言葉を噛みしめるように聞いていた。
「……鍛冶と同じだな」
「そういうこった」
師匠は笑う。
「鉄を自分の都合に合わせようとするんじゃねえ」
「鉄の状態を見て、自分が合わせる」
「ああ」
師匠は頷いた。
「火もそうだ」
「槌もそうだ」
「魚もそうだ」
「すべて相手をしっかり見ろ」
短い言葉だった。
だが、それは、長い修業の中で何度も聞いた言葉だった。
国王は小さく笑った。
「師匠」
「なんだ」
「やっぱり、ここに来てよかったよ」
「……」
師匠は一瞬だけ黙った。
そして、いつものように笑う。
「ふん、何を今さら言ってやがる」
「いや」
国王は箸を置く。
「王になってから、忘れてたことが多かった気がする」
サファイアが国王を見る。
「忘れてた?」
「ああ」
国王は笑った。
「鉄を見ること」
「火を見ること」
「相手を見ること」
「それから――」
国王は師匠を見る。
「弟子だった頃の自分を見ること」
師匠はしばらく何も言わなかった。
やがて……。
「なら、覚えて帰れ」
「うん」
「お前は王様だ」
「分かってる」
「だがな」
師匠は笑った。
「ここじゃ、ただの弟子の一人だ」
国王が笑う。
「それがいい」
「そうか」
「うん」
サファイアも笑った。
「じゃあ、私も弟子?」
「お前はまだ新入りだ」
「えー」
「文句があるなら明日、鉄下駄だ」
「……」
サファイアの顔が固まる。
国王が吹き出した。
「ははは!」
「笑わないでよ!」
「いや、明日もやるのかと思って」
「兄弟子さんも一緒だからね!」
「俺も?」
「当然」
師匠が豪快に笑う。
「明日は朝からだ!」
「ええっ!」
食堂に三人の声が響く。
笑い声。
食器の音。
薪の爆ぜる音。
そして、窓の外では、村のどこかで槌が鉄を打っていた。
カン。
カン。
カン。
その音を聞きながら。
国王は静かに目を細めた。
明日、この村を出る。
そう思うと。
胸の奥に、少しだけ寂しさが生まれた。
けれどそれ以上に、温かかった。
ここで受け取ったものがある。
師匠から。
村から。
そして、サファイアと過ごした時間から。
国王は湯気の向こうで笑うサファイアを見る。
「……また来ればいい」
小さく呟く。
その言葉を聞いたのか。
師匠が言った。
「おう」
「……」
「いつでも来い」
国王は顔を上げた。
「……ああ」
その夜。
鍛冶の村には、いつまでも槌の音が響いていた。
カン。
カン。
カン。
まるで、明日、旅立つ弟子を送り出すように。




