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美味しい魚と、引き返せない提案

 宰相代理は、悟っていた。


 ――このままでは、交渉に負ける。


 条件。

 主導権。

 空気。


 どれを取っても、自分は押されている。

 いや、押されているどころではない。

 

(……まずい)


 背中に、じっとりと汗が滲む。

 熊が、じっとこちらを見ている。


 あの熊は、分かっている目をする。

 いや、分かっているのは熊ではない。

 熊を纏った、あの男だ。


 ここで何か。

 何か、決定打を。


 そう思った瞬間――

 口が、勝手に動いていた。


「……そういえば」


 自分でも分かるほど、不自然な声だった。

 喉が少し裏返っている。


 広間の視線が、ゆっくりと集まる。


「我が国にはですね」


 なぜか胸を張る。


「非常に、美味しい魚がおりまして」


 国王が、ほんの少しだけ顔を上げる。

 熊の鼻先も、わずかに上を向いた。

 匂いでも嗅ぐつもりか。


「名前を――」


 間を取る。


 今さら引き返せるか?

 無理だ。

 もう半分は口に出ている。


「フフググと申しましてな」


 沈黙。


 兵の一人が、こっそり隣に囁く。


「噛んだのか?」


 聞こえている。

 全部聞こえている。


 噛んでいない。

 正式名称だ。

 自国の誇る海の宝だ。


「でっぷりとしておりまして」

「脂が乗り、身も締まり」

「実に、絶品なのです」


 語るほどに、背中の汗が冷える。


(なぜ今それを言った)


 冷静な自分が、遠くで頭を抱えている。


「……それは」


 背後から、従者の声。

 静かだが、刃のように鋭い。


「やばいやつでは?」


 ぴくり。


 宰相代理の眉が動いた。


「お前は黙っておれ!」


 ぴしゃり。

 即断。

 反射。


 従者は、口を閉じた。

 だが目が言っている。


(今のは違う)

(今のは地雷)


 国王は、少し考える。

 熊の外套の胸元で、熊が小さく首を傾げた。


「……それは」


 顎に手を当てて考える様子を見せ。


「食べてみたいもんだなぁ」


 軽い。

 あまりにも、軽い。


 その言葉に、宰相代理の心臓が跳ねた。


「そ、そうですか!」


 食いついた。

 反射だった。

 理性はすでに退場している。


「では、近々!」


 勢いのまま続ける。


「必ず、お持ちいたします!」


 従者が、静かに目を閉じた。

 ゆっくりと。

 祈るように。


(……言ってしまった)


 国王は、にこりと笑う。


「楽しみにしてるよ」


 その声には、警戒も疑念もない。

 ただ純粋な好奇心だけがある。


 それが一番怖い。


 宰相代理は、笑顔を貼り付けたまま、内心で必死に計算を始める。


(フフググ……)

(処理は……)

(職人は……)

(輸送は……)

(万が一は……)


 胃の奥が、きりきりと痛む。


 ふと、国王が付け加えた。


「……生で?」


 空気が止まる。


「…………」


 宰相代理の笑顔が、ほんの少しだけ引きつった。


「い、いえ!」


 慌てて首を振る。


「調理して、でございます!」


「そっか」


 国王は、それ以上追及しなかった。


 追及しない。

 それが逆に恐ろしい。

 問い詰められた方が、まだ楽だった。


 熊が、じっと宰相代理を見ている。

 瞬き一つせず。


(今ならまだ撤回できる)


 心の声が囁く。

 だが口は動かない。


 なぜなら、ここで引けば――

 “怖気付いた”ことになる。


 外交の場で、それは致命的だ。


「非常に繊細な食材でして」


 自分から流暢に続けてしまう。


「扱いには熟練が必要で」


「ほう」


 国王が興味深そうに身を乗り出す。


「面白い」


 面白くない。

 従者と執事の表情が同時に固くなる。


「つまり」


 国王は顎に手を当てる。


「腕の見せどころってわけだ」


 熊が、こくり。

 なぜ頷く。


「……」


 宰相代理は、背中を流れる汗を感じながら、理解した。


 これはもう、魚の話ではない。


 腕前。

 信頼。

 覚悟。


 それを試される場になっている。


「では」


 国王は楽しそうに言う。


「楽しみにしてる」


 それだけ。

 軽い。

 あまりにも軽い。


 だが、その一言で。

 すべてが決まった。


 フフググは、もうただの魚ではない。

 交渉の続きでもない。

 約束だ。

 しかも、撤回不能の。


 従者が、小さく囁く。


「宰相代理様……」


「分かっている」


 分かっていない。

 何も。

 だがもう戻れない。


 国王は剣を軽く肩に担ぐ。


「鉄は良かった」


 笑顔が眩しい。


「魚も良いといいな」


 軽い。

 本当に軽い。


 熊が、ゆっくりと瞬きをした。


 ――逃げるな。


 その目が、そう言っている気がした。


 宰相代理は、深く息を吸う。

 指先の火傷は、もう痛くない。

 代わりに、胃が痛い。

 広間を後にしながら、彼は思う。


(剣より魚の方が怖いとは……)


 背後で、国王の声が響いた。


「楽しみだな!」


 熊が、こくり。

 その頷きが、やけに嬉しそうだった。


 ――こうして。


 宰相代理は、交渉に負けかけた末に、

 自ら別の地雷を踏みに行った。


 しかも。

 両足で。


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