フフググと、厨房という戦場
「――フフググだと!?」
鋭い声が、廊下の奥から飛んできた。
次の瞬間。
「誰か今、フフググと言いましたか!?」
扉が勢いよく開き、白衣姿の女性――料理長ニーナが、ずかずかと入ってくる。
いや、ずかずか、というより、進軍である。
足音が規則正しい。
目が据わっている。
腰に手。
白衣の裾が翻る。
完全に、戦闘態勢だ。
「……っ」
宰相代理は、反射的に一歩引いた。
本能が告げている。
この人は、剣より怖い。
執事が、すっと前に出る。
「ニーナ」
低い声で制す。
「今は来客中だ」
「それがどうしました」
ニーナはぴたりと止まるが、引く気配は皆無。
「フフググと聞いて」
きっぱりと言う。
「黙っていられる料理人が、いますか?」
視線が、広間を鋭く掃く。
「どこです?」
「どこにあるんですか?」
まるで密輸摘発官である。
「ここには、ないよ」
国王が、のんびりと言った。
ニーナは、ぴたりと動きを止める。
「……ない?」
「うん」
ニーナは、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
その呼吸は深い。
怒りを制御する呼吸だ。
もしくは戦闘前の呼吸。
「あれは」
静かな声で言う。
「料理するものでは、ありません」
広間の温度が、三度ほど下がった気がした。
宰相代理の背中に、嫌な汗が滲む。
「……じゃあ、なに?」
国王が、首を傾げる。
ニーナは、真っ直ぐに答えた。
「デュエルです」
「……決闘ってこと?」
「はい」
即答だった。
「生きるか、死ぬか」
白衣の袖を、ゆっくりとまくる。
「究極の勝負です」
その腕には包丁傷らしき古傷がいくつもある。
戦歴だ。
そして、ぎろりと宰相代理を見る。
「ね?そこの御仁」
「は、はい……!」
圧倒され、思わず返事をしてしまう。
なぜ敬語になった。
なぜ直立不動になった。
自分でも分からない。
「……で」
従者が、あらためて尋ねる。
「誰ですか、この人」
その言い方は完全に“珍しい生き物を見つけたそれである。
「料理長のニーナです」
執事が淡々と答える。
「ああ」
国王は軽く頷いた。
「そう、うちのラスボス」
「違います」
即答だった。
「私は最終防衛線です」
「ラスボスじゃん」
熊が、こくり。
なぜ頷く。
ニーナは、国王を一瞥し、無視した。
そして再び、宰相代理へ視線を戻す。
「フフググを口にしたのは、あなたですね」
否定できない。
空気が否定を許さない。
「……ええ」
「覚悟は?」
「……は?」
「覚悟は?」
二回言った。
二回聞くくらいには重要らしい。
「いや、あの」
宰相代理は必死に取り繕う。
「我が国では、祝いの席などで」
「祝いで命を賭けるんですか?」
真顔で返された。
「い、いえ! 適切に処理すれば安全で」
「“適切”」
ニーナの目が細くなる。
「その“適切”を、誰が担保します?」
「我が国の熟練の料理人が」
「名前は?」
「……え?」
「名前です。腕前は? 何人救いました?」
「救う?」
「誤った処理をしかけた客を、何人引き戻しました?」
質問の方向がおかしい。
だが妙に具体的だ。
広間の兵が小声で言う。
「救うってなんだよ」
「黙って」
隣が即座に制す。
国王は楽しそうだ。
「いいねぇ」
どこがだ。
ニーナは腕を組む。
「フフググは料理ではありません」
この一拍の重さよ!
「覚悟の証明です」
広間が静まる。
宰相代理の喉が鳴る。
「この国では」
ニーナは続ける。
「包丁を握る者は、全員が一度は向き合います」
「何と」
「自分の未熟さと」
しん、と静まり返る。
重い。
非常に重い。
だが。
国王が、ぽつりと言う。
「俺、まだ食べたことないけどね」
「陛下は黙ってください」
即断。
即斬。
広間に笑いが漏れる。
だがニーナは笑っていない。
宰相代理は悟る。
この人は本気だ。
本気で、厨房を戦場だと思っている。
「……では」
ニーナは、ゆっくりと一歩前に出た。
床板が、こつ、と鳴る。
その一歩に、なぜか兵が身構えた。
包丁は持っていない。
だがそのくらいの“圧”がある。
「フフググを持ち込むということは」
淡々と言う。
「この城の厨房に、戦場を持ち込むということです」
宰相代理の胃が、ぎゅっと縮む。
戦場。
またその言葉だ。
この国は、なぜこんなにも軽く戦場を作るのか。
「我が国では、珍味として」
「珍味?」
ぴくり。
ニーナの眉が動く。
「珍しいから食べる?」
「危ういから面白い?」
じり、と距離が詰まる。
「それは違います」
きっぱり。
「フフググは、料理人が自分の限界を知るために向き合うものです」
国王が、腕を組む。
「つまり?」
「逃げない者だけが、皿に乗せられる」
広間が、静まる。
熊が、じっと宰相代理を見る。
逃げるな、と言っている気がする。
「いや、なん……」
宰相代理は、乾いた唇を舐める。
撤回できるか?
いや、もう遅い。
「我が国の料理人は、腕があります」
言い切る。
「ならば」
ニーナは即座に言う。
「ここで証明しましょう」
「……ここで?」
「はい」
即答。
「この城の厨房で」
一拍。
「同じ魚を、同時に」
広間の兵が、同時に息を呑んだ。
「同時に?」
国王が目を細める。
「面白い」
「面白くありません」
執事と従者が、同時に言った。
もう完全に同盟だ。
「腕比べです」
ニーナは、静かに言う。
「どちらが、より美しく、より正確に、より早く」
早くは危険な気が……。
「皿に乗せられるか」
宰相代理の背中を、冷たい汗が伝う。
これは外交ではない。
完全に、料理決闘だ。
「負けたら?」
国王が軽く尋ねる。
ニーナは、一瞬だけ視線を逸らした。
そして、戻す。
「厨房から退きます」
静寂。
重い。
あまりにも重い。
「え?」
宰相代理が間抜けな声を出す。
「本気です」
ニーナは微動だにしない。
その覚悟は、包丁より鋭い。
国王が、ゆっくりと笑う。
「いいじゃん」
「軽いんですよ、陛下は」
ニーナがため息をつく。
だが目は燃えている。
「東の御仁」
再び視線が刺さる。
「覚悟はありますか?」
広間の空気が止まる。
逃げれば、終わる。
受ければ、地獄。
宰相代理は、理解した。
これはもう、魚ではない。
覚悟の勝負だ。
広間の空気は、妙に澄んでいた。
剣が抜かれたわけではない。
兵が動いたわけでもない。
だが今、確実に何かが構えられている。
――包丁だ。
しかも見えない包丁。
「覚悟はありますか?」
ニーナの問いは、静かだった。
静かであるがゆえに重い。
宰相代理は、喉が鳴るのを自覚した。
ここで「ない」と言えば。
帰国後の報告書にこう書かれる。
――魚の件、撤回。
――理由、怖かった。
終わりだ。
「……あります」
言ってしまった。
従者が、ゆっくりと目を閉じる。
もはや諦めと祈りである。
国王が、ぱっと顔を明るくする。
「いいね!」
軽い。
本当に軽い。
「じゃあ決まり」
熊が、こくり。
なぜお前が決定に参加する。
ニーナは、ゆっくりと頷いた。
「日時は?」
「準備に時間をください!」
宰相代理は慌てて言う。
「輸送、職人、環境、刃物、氷、塩、温度、湿度、心の準備――」
「なお、食すものの心の準備は各自で」
ニーナが即断する。
容赦がない。
「厨房は貸します」
「貸す?」
「戦場ですから」
さらりと言う。
広間の兵が小声で呟く。
「やっぱ戦争じゃねぇか」
「黙って」
隣が制す。
国王は、楽しそうに剣をくるりと回した。
「鉄は鉄の戦場」
という事は……。
「魚は魚の戦場」
熊が、こくり。
もう慣れてきた。
宰相代理は、ゆっくりと息を吸う。
自分は何をした。
交渉を優位に進めるために、珍味を持ち出した。
その結果。
命懸けの料理決闘が決定した。
なぜこうなる。
ニーナは最後に言った。
「フフググは」
キリッ!
「逃げない者だけが、皿に触れられます」
視線が刺さる。
熊も、じっと見る。
国王は、にこにこしている。
執事は静かに頭を抱えている。
従者は、すでに帰国後の弁明文を考えている顔だ。
宰相代理は、悟る。
戦争は回避された。
だが代わりに始まったのは、
厨房戦争だった。
しかも、
包丁一本で国の威信を賭けるタイプの。
広間を後にする直前、国王がぽつりと呟く。
「楽しみだなぁ」
熊が、こくり。
ニーナが、真顔で言う。
「負けません」
その一言が、剣よりも鋭かった。
宰相代理は、天井を見上げる。
(どうしてこうなった)
だが答えは、もう出ている。
自分で踏んだのだ。
地雷を。
しかも笑顔で。




