ハトによる鳥害
「おいこら、どっか行け! しっしっ!」
それなりに大きな声を張り上げているのだが、相手はまったくそれに応じる気配がない。立ち去るどころか、我が物顔でその場を闊歩している。
声は間違いなく聞こえているはずだった。
しかしながら、俺の言葉の意味が伝わっているかどうかはわからない……というか、まずわかってなどいないだろう。
何故なら、俺が追い払おうとしている不法侵入者は人間ではなく、数羽の『ハト』だからだ。
「くそ、困ったな。どうすりゃいいんだ……」
肩を落とし、両手を腰に当てて、俺は連中をじっと見つめた。
俺が勤めているこの浄水場、その外壁の屋根付近には突き出た場所があって、どうもあそこはハト共には居心地がいいらしい。身を隠せるし、雨風も凌げるし……寄りつくにはうってつけの場所なのだろう。
しかし、うちの上司連中はどうも看過できないらしく、俺にハトの追い払いを命じてきた。
俺は業務の合間を縫ってさっそくこの場に赴き、ハトを追い払うべく努めているのだが……退去を命じてもまったく応じる気配がない。
どうにかしないと、きっと上司に小言を言われちまう。でも、どうしたもんだか……。
俺は腕組みをして、首を前後に振りながら歩き回る厄介者共を睨みつけていた。
すると突然、右のほうからベチャッという音が響いた。
「え?」
何の音だ?
俺は右を振り向いた。しかし、そっちには木々が並んだ浄水場の敷地の風景が広がっているだけだ。
だが、俺はすぐに自分が着ている作業着、その肩部分にこびり付いた白い物体に気がつく。
それが何なのかは、ものの数秒でわかった。
――ハトの糞だ。
「うおわあああああッ!?」
変態じみた悲鳴だと理解していたが、叫ばずにはいられなかった。
外壁の突き出た部分に居座るハト共に注意を向けすぎていて、どこかからか現れた別のハトに気づかなかった。俺は不幸にも、糞爆弾をまともに喰らってしまったのだ。
「畜生、コケにしやがって! 降りてこいこの野郎、ぐらあああああッ!」
怒りに任せて叫び、両手を振り回した。
だけど当然、ハト共にそんな言葉が届くはずがない。あいつらは変わらず、首を前後に振りながら外壁の突き出た部分を我が物顔で闊歩していた。
くそったれが、こうなったらハシゴでも持ってきて、無理やりにでも接近して追っ払ってやろうか。それとも罠でも仕掛けて生け捕りにしてやるか……と思っていた時だった。
――視界の端から、キツネが思いっきり軽蔑した目でこちらを見つめていた。
「んなっ!?」
仰天すると同時に、顔がみるみる赤くなっていくのがわかった。
ただのキツネなら別に驚く必要もないのだが、あのキツネは違う。人間と話すことのできる、賢くて利発な俺の友達だ。
いつもは会えれば嬉しいものなのだが、今回は事情が違った。いつからそこにいたんだ!?
「お前、何やってんだ……?」
キツネの言葉から察するに、どうやら俺がハト相手にムキになって、やかましく騒いでいた様子はしっかりと見られてしまっていたらしい。
俺は慌てて弁解した。
「ち、違うぞ! 別に俺の頭がおかしくなったとかそういうもんじゃなくて、あいつらを追っ払おうとしてたんだよ! 上司に言われてさ……!」
まあ、嘘は言ってない。
歩み寄ってきたキツネが、俺が指差した先を視線で追った。
「ああ、ハトか」
納得したように、キツネは言った。
とりあえず、俺がアホみたいに騒いでいた様子に関しては何も突っ込まれなかった。
「ったくダルいよな、ハトなんて別にほっときゃいいのに……!」
両手を腰に当てて、不満な気持ちそのものを吹き出すように言った。
「いや、そうとも言えないぞ。ハトはわりと、人間への実害が多い動物だからな」
「え、そうなのか?」
キツネを振り返ると、彼はじっとハトがいるほうを見上げ続けていた。
少なくとも、俺は今までハトが人間に害をなす生き物だとは思っていなかった。カラスとかと違ってゴミを漁り散らかしたりもしないし、なんだかんだで愛嬌がある感じがするし、平和の象徴とされているってのは俺も知っている。ドラマや映画のワンシーンで、結婚式で白いハトを空に向かってたくさん放つ演出だって目にしたことがあった。実害が多いとはどういう意味なのだろうか?
「ああ、もう多すぎて、どこから触れればいいのか迷うくらいさ」
「ちなみに、例えばどんな害があるんだ?」
キツネは、俺のほうを向いた。
「まずは、『糞害』だな。ハトは他の鳥以上に糞の量が多くてな、連中が陣取った場所はあっという間に糞だらけになってしまうんだ。自分の糞の上で生活することなんて、あいつらには何の違和感もないことなんだからな」
げ、マジか?
だとしたら、ここからは見えないけれど……ハト共がいるあの場所はすでに糞だらけにされているってことなのだろうか。
「どんな綺麗な建物でもハトの糞がこびり付けば景観は台無しだし、工場や倉庫とかに住み着いたハトが出した糞がそこの物品にこびり付けば、もう商品価値なんかあったもんじゃない。糞が付いてると知らずにそれを取引先に納入したりしようものなら、クレームどころか取引を打ち切られる事態にもなりかねないぞ」
「そんな弊害が……!」
キツネの説明に、思わず聞き入ってしまっていた。
「もちろん悪臭だって放つし、何より連中の糞には大量の雑菌やウイルスが潜んでいるんだ。あいつらが飛び立つ時の羽ばたきでそれが拡散し、人間の身体に入り込めば、感染症になる危険だってある」
「う……」
食欲が湧かなくなるような話だった。
雑菌がいるのは想像ができたが、金属を腐らせるとは予想外だ。
「まあ、そもそも糞に限らずあいつらの身体にはノミやダニが大量に付着しているから、糞をしなくたって十分不潔なんだがな。……キツネの俺が言えたことじゃないんだが」
基本的に、このキツネは俺とは常に一定の距離を開けて、それ以上は近づいてこない。
俺の健康に配慮してくれているのだ。
「ところで、その作業着も早いとこ脱いだほうがいいと思うんだが」
「あっ!? そうだった!」
キツネに言われて思い出した。
糞爆弾を喰らわされた作業着を、俺は慌てて脱いだ。これはもう、帰ったらすぐにでも洗わないとな……。
「続いて、『生活への実害』だな。マンションとかにハトが棲み付くと、糞で外に洗濯物が干せなくなるし、糞を餌にする害虫を引き寄せることにもなる……鳥が嫌いな人には、その鳴き声だけでもかなりのストレスになるだろうさ。ハトが寄ってくるというだけで、不動産価値が下がることだってあるからな」
「確かに、それは嫌だな……」
自分の服を糞まみれにされるなんて考えたくもないし、四六時中ハトの鳴き声が聞こえる部屋なんて、いかにも騒々しそうだ。
しかも糞を餌にする害虫って、つまりゴキブリとかそういうのだよな? う、さらに食欲が失せる……。
「さらに奴らの糞は酸性を含んでいていてな、金属を腐食させるんだ。過去にはハトの糞が原因で、橋が崩落した事例まであるんだぞ」
「ちょっ、マジかよ? 嘘だろ?」
半信半疑のまま、俺はスマホでネットを起動し、『ハトの糞 橋 崩落』と打ち込んで検索してみた。
検索結果に表示された記事を見て、キツネの言ったことが本当だったと知る。2007年にアメリカのミネアポリスで起きた出来事で、ハトの糞による鉄骨の腐食に起因して橋が落ち、多数の死傷者が出たそうだ。
冗談みたいな話だと思ったが、人の命に関わるならいよいよもって手をこまねいてはいられない。
このままあのハト共に居座られたら、この浄水場の天井も落ちたりするのだろうか。
それは飛躍しすぎかと思ったが、絶対にないとは言い切れないな……。
「わかったろ、ハトはそれなりに人間への害が多い生き物なのさ」
「ああ、とんだ『平和の象徴』だな」
ハトを追っ払う役を上司に命じられて、はっきり言って面倒だとしか思っていなかった。
しかしキツネの説明を受けて、真面目にどうにかしなければという気持ちになった。
というか、どうして今まで気づかなかったのか。そもそもここは浄水場なのだ。街の生活用水を担う拠点がハトの侵食を許していると知れれば、イメージダウンは避けられない。
2週間後くらいには社会科見学で近くの学校の子供達が来る予定になってるし、対策を考えなければな……。
「より確実な対策を講じるなら、専門の業者に頼むのを勧めるぞ。ハトは気に入った場所からはなかなか離れようとしないが、忌避剤なり防鳥ネットを張るなり方法はあるだろうし……あんな高い場所じゃ、お前ではさすがに届かないだろう」
「そうだな、あとでちょっと上司に掛け合ってみるよ」
ふと腕時計を見て、もうじき時間だと気づいた。
業務の合間を縫ってここに来たのだが、そろそろ戻らないと……。
「時間なのか?」
俺が何かを言うより先に、キツネが問うてきた。
「ああ、もう仕事に戻らないと……色々教えてくれてありがとな、それにしても、お前から大事なことを教わるのはこれで5度目か? 前々から思ってたけど、そこらの人間よりよほど博識だな、本当に恩に着るよ」
「いや、別に感謝する必要はない。そもそも今日は、俺のほうからお前を探していたんだしな」
「どういう意味だ?」
俺が問うと、キツネは俺のほうへ歩み寄ってきた。
立ち止まった場所は、一定の距離を隔てつつも、しっかりとお互いの顔が見えるくらいの位置だった。
「このところ、時々お前がベンチに座って空を見上げて、どことなく悲しい顔をしているのを目にしていたんだ。声を掛けるのを遠慮したことも何度かあってな、気になって探していたら、ハト相手に騒ぎ散らしているお前を見つけたというわけさ」
「あ……」
まさか、見られちまってたのか。
「去年の今頃だったよな? その……親父さんが亡くなったのは」
俺の気持ちに配慮してくれているのだろう、キツネは遠慮がちに言った。
覚えてくれているとは思わなかったが、彼の言う通りだ。
ちょうど去年の今頃は、末期がんに侵されて抗がん剤治療も断念せざるを得なくなり、悲しみと無力感に苛まれながら、弱っていく親父を見つめていたものだった。
「ああ、未だに親父のことを思い出すと、涙が出ちまいそうになってな」
草木のにおいを内包した風が吹き、温かさを肌に感じながら、俺は言った。
「はは、弱い奴だよな。もうさっさと忘れて、いい加減前を向かなきゃいけないってのによ……」
笑みを浮かべてみたけれど、本音を誤魔化せている自信はなかった。
「勘違いするな」
穏やかながら、真に迫る気持ちが滲んだキツネの声。
振り向くと、キツネがまっすぐに俺を見つめていた。
「前を向くということは、親父さんを忘れるということではない。誰かのために涙を流せるということこそ、強さの証だ」
含蓄のある言葉に、まばたきもできなくなる。
「焦る必要はない、時間をかけて痛みと向き合っていけばいい。キツネの俺でもいいなら、いつでも相談に乗るさ」
【ハトによる鳥害】
害鳥と位置付けられる鳥は複数種類いるが、その中でも代表格とされ、甚大な被害を出しているのがハトである。
ハトは他の鳥以上に食事量が多く、糞量もそれに比例して膨大で、悪臭や騒音に感染症、景観を損なうなど、数多くの問題を引き起こす。
帰巣本能が強いハトは、一度気に入った場所に執着する性質がある。住処とされた場所に巣を作られたり、卵を産んでしまったら、それは『ここは自分達の縄張り』であると認識している証拠だ。そうなってしまうと、追い出すことは非常に難しくなる。
『ハトがしばしば姿を見せるようになった』と感じたら、深刻な状況に発展する前に対策を打つのが好ましい。
自力での対処が困難になってしまった場合は、専門業者に相談すべきだろう。