表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記録保管人の、最後の一行  作者: もも子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/5

第5話:琥珀の揺り籠

図書館の扉が開く音より先に、重苦しい溜息が聞こえた。


訪れたのは、初老の調香師だった。

彼の纏う香水の匂いが、図書館の埃っぽい空気を一瞬で塗り替える。 


「……私の嗅覚を、記憶と共に焼き払ってほしい」


彼はそう言って、一冊の手帳を差し出した。


それは調香師としてのレシピ帳だが、ただの調香記録ではない。

彼がかつて愛した女性の「香りの記憶」だけで構成された、いわば愛の墓標だった。


「彼女はもう十年前に死んだ。だが、私は今も、街を歩くたびに彼女の匂いを感じるんだ。……すれ違う女の髪から、通り過ぎる風の中から、時折、彼女がそこにいるかのような香りがする」


私は手帳に触れ、彼の記憶を紐解く。


そこには、愛の甘美な記録がある一方で、彼の深い自己嫌悪があった。


彼はかつて、自分の調香の才能を追い求めるあまり、彼女を疎かにしていた。

彼女が病に倒れた時も、私は「彼女の香りをどう再現するか」という身勝手な探究心に囚われていたのだ。


彼女が最期に「あなたの作った香りが好きだった」と微笑んで亡くなったとき、彼はその言葉さえも「自分の香水の評価」として受け取ってしまった。


その罪悪感と、彼女の香りを再現しようとすればするほど、彼女の体温が思い出されて窒息しそうになる――という、あまりに長い葛藤があった。


「……彼女の香りを再現することは、彼女を殺し続けることと同じだ。私は、彼女の匂いを嗅ぐたびに、自分の傲慢さを思い知らされる。だから……記憶ごと、消してくれ」


彼の動機は、単なる悲しみではない。


「自分が彼女を愛していたという自負」と「自分が彼女を殺したという罪悪感」の板挟み。記憶を消すことは、彼にとって「自分を赦すための最後の手段」だった。



私は儀式を始める。


彼の手帳から立ち上る香りが、図書館を甘く切なく満たす。

私は、彼が彼女を愛していた温かな記憶と、罪に震える冷たい記憶の両方を、黒い霧で包み込んでいく。


「……そんなに、消したいのですか」


「ああ。私は、香りを語る資格のない人間だ。……せめて、何も感じない空っぽの心で、彼女のことを思い出さずにいたい」


儀式が進むにつれ、彼の手帳が灰になっていく。


彼が必死に守り、そして捨てたかった、彼女との日々のすべて。


すべてが終わったとき、彼は呆然と自分の手を見つめた。

その瞳には、もはや調香師としての誇りも、罪の影もない。ただ、穏やかな空白があるだけだった。


「……ふう。不思議だ。なぜか、ずっと重い荷物を背負っていたような気がするが……今は、それが何だったのか思い出せない」


彼はふらりと立ち上がり、出口へと向かう。


扉の隙間から差し込む光の中で、彼はふと立ち止まり、微笑んだ。


「君のおかげで、これからは良い香りに囲まれて眠れそうだ。……ありがとう」


彼が去った後、暖炉には灰しか残っていない。


そこには、彼が必死に守りたかった、彼女の笑顔の残り香が、微かに漂っていた。

私はそれを、手で掬い取ることなく、静かに暖炉の奥へ押しやる。



保管人として、私は感情を介入させてはならない。灰になった記憶は、もう二度と戻らない。ただの塵だ。


窓の外では、雪が止み、月が昇っている。



図書館の静寂が戻る。

私は次の日記を棚から取り出す。

今日もまた、誰かが何かを忘れるために、ここへやってくる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ