はちみつ色の求婚(4)
その呪いがどういうものなのかほんとうに理解したのは、数日後、領地のベッドで目覚めてからだった。
心が動かない。
目が覚めて良かったと、心からの言葉と笑顔を向けられても。見舞いにと贈られた花が居室に咲きほころんでも。ただ、そうあるだけ。風が気ままに吹くのと同じ。
もともと感情がぼんやりしがちだった幼少期に拍車をかけて表情が抜け落ちた。うれしいも、たのしいも、自分の中から生まれることがない。
近くにいるひとが嬉しがっていたらうれしい。喜んでいたらうれしい。悲しんでいたらかなしい。苦しんでいたらかなしい。
すべての出来事が鏡の向こう側で起きているようで、自分の世界とは隔てられている。鏡の世界には、決して触れることができない。
そんな人間が、これから王位を戴くお立場となる方の隣に立ってはならない。
そんなことは殿下もとうにわかっているはずなのに、どうしてこんな申し出をされるのだろう。
真意が知りたくてじっと見つめる。
殿下は、瞳を伏せがちに笑んだ。
「うん、知ってる」
わたしは戸惑う。ならばなぜ。
尋ねる前に、殿下は続けた。
「私は、知っているから。それからのシェリーのことも」
「それからの……」
「そう。それでもシェリーは、私たちを大切にしてくれているだろう?」
「それは、」
そうするしかなかったからだ。たとえ愛せないとしても傷つけたくなかった。だから大切にした。大切にすることなら、できたから。
「……でもわたしは、誰かひとりを選ぶことはできません」
〝特別〟はつくれない。誰のことも愛せないというのは、そういうことだ。
「いいよ。シェリーは選ばなくていい。私が選ぶ」
「、」
「私は、いずれ王位を戴く。だからシェリーはそれで良いんだよ」
「それでいい」
「うん」
いつのまにか顔を伏せていたことには、頬に触れられて気づいた。
目を上げる。瞳が合う。殿下は、柔和なまなざしにほんの少しのきびしさを覗かせた。
「君は誰も選ばない。だから、すべてを愛せる。この国を、この国の民たちをただしく愛せる。私は、そんなシェリーが欲しい」
ああ、と思う。殿下にとって、これは文字どおり〝契約〟なのだ。国の礎となるための、まつりごとのひとつに過ぎない。
それならば、たしかにわたし以上の適任者はいないと思えた。
愛せないのだから愛を求めることはない。その特性は、この役割に極めて相応しい。たったひとつの愛を求めて、むやみに殿下の為政を阻むことはない。
「承りました」
やや頭を落として告げると、殿下はいささか困った顔をした。
「……少し、勘違いをしていそうだけど。まぁ、いまはそれでもいいか」
「かんちがい?」
きょとんとしたわたしを見つめて、殿下はいたずらっぽく笑う。
する、と頬を撫でたかと思うと、腰を取られた。
ぐっと引き寄せられて、立てた膝の内側に迎え入れられる。
瞬きが触れてしまいそうなほど近くに殿下のお顔がある。とっさ目を伏せかけたわたしにさらに近づいて、おおきな手のひらで両頬をくるんだ。
「夫婦となるからには、こういう触れ合いもすることになるからね」
最初は、まぶたへ。
吐息のような軽さでくちびるが触れた。それから、頬に、顎に、首筋に、あたたかな感触がすべり降りてゆく。
微かに触れているだけのはずなのに、触れられるたびおののくような感覚がするのはどうしてだろう。
「いやじゃない?」
ふるりと首を振る。びっくりはしているし、少しくすぐったいけれど、嫌ではない。
殿下はわたしの頬を両手で包んで、ほんとうに? と尋ねるように瞳を合わせた。
「はい」
「よかった。もう少し深く触れてもいい?」
「……? はい」
深く、とは。
確かめる前に、くちびるが口の先に触れる。
殿下は、目を見開いたわたしを可笑しそうに見つめた。そのまま、首を傾けてくちびるを丸ごと覆うように重ねてくる。
わたしは今度こそ身を強張らせた。
こんな触れ方は知らない。こんな、体も心も絡め取られるような触れ方は。知らないけれど、これがなんなのかは知っている。
口付け、と呼ばれるもの。
ものがたりの中では、想い合うふたりがする触れ合い。紙で踊る文字にも、それはそれはときめきに満ちた表現であふれていたけれど、そのどれともこれは違う。
触れるところから知らない感覚が呼び起こされて、袖を掴む手はおのずと縋るようになった。
殿下がそっとまぶたを押し上げる。口付けを追うようにくちびるをなぞる手つきは優しい。
「これは、いやじゃない?」
「は、――んっ」
うなずき切る前に、殿下はさらに深くくちびるを重ね合わせてきた。
ついばんで、離して、そのすきまで、吐息を盗んで。
「気持ちいい?」
こくんとうなずく。
体が熱い。頭がぼうっとする。そう、たぶん、これは、――気持ちがいい。
「でんか、」
どうしたらいいかわからず、言葉が迷子になる。視界がゆらゆらと揺れているのはどうしてだろう。
「……かわいい、シェリー」
ちゅ、と音を立てて額に口付けを落とすと、殿下は名残惜しそうに顔を離した。
火照った頬を撫でる手のひらは、なにかを堪えているかのようにぎこちない。眼差しは甘くわたしを見つめている。
どれだけ言葉を尽くされるよりもその瞳の中にほんとうがあるようで、わたしも黙って殿下を見つめ返した。
く、と殿下の喉仏が上下した。
「困ったな」
「?」
「ずっとここにいたくなってしまう」
はぁ、とため息をひとつ。肩に顔をうずめたかと思うと、甘えるようにずるずると体重をかけてくる。
幼子のようでかわいらしい。わたしがぽんぽんとその背を叩くと、殿下はもう一度大きなため息をした。
すこし離れた場所で、何かが動く気配がする。合図、だ。
殿下は日々王太子としての業務に忙殺されている。本当なら、こんなにも長くプライベートの時間が取れるお方ではないのだ。
側近のみなさんがずいぶんと譲歩をしてくれたのだろうことは、日の差す角度でわかった。もう真昼が近い。
「……行こうか」
しぶしぶと、ひどく口惜しそうに殿下が呟く。
こんな殿下は珍しい。またたくわたしを見つめて、苦笑めいた笑みをすると、殿下は先に腰を上げた。やや腰を曲げて、わたしに手を差し伸べてくる。
わたしはためらう。この手を取ってしまったら、この時間が終わってしまうことを知っていたから。
ずっとここにいたかったのは、きっとわたしのほう。
(でも、そう思う理由もわたしにはわからないのだわ)
ゆるくかぶりを振る。
振り切るように手のひらを乗せると、指のはざまに殿下の指がするりと割り込んだ。
「もう少し、ね」
いたずらっ子のふりをして、その手のひらは大人びている。
そっと握り返すと、斜め上にある口元にちいさな笑みが浮かぶ。
どきりと跳ねた鼓動を押し隠すように胸に手を当てて、わたしは殿下と足並みを揃えた。
お付き合いくださりありがとうございます。
序章はここまでです。
また少し書き溜められてから来ます。




