29話 綾の過去~悲劇の始まり
【R15 注意】
本エピソードでは、登場人物の凄惨な過去と、心理的な外傷に触れる描写がございます。
鮮烈な流血描写やショッキングな展開が含まれますので、あらかじめご了承の上、読み進めていただけますと幸いです。
※苦手な方はこの章をスキップすることをおすすめします。
スキップした場合も、重要な情報は後続の会話などで自然に補足されます。
31話S 唯からのかぎりない真実で補足されてます
私は12年前のことを、今でも鮮やかに思い出すように語りだした。
「あの日は、母親も迎えに来てくれていなかったんだけど……家の入口が園バスの降車場所から、はっきりと見えていたこと。そして私がまだ幼いのに、妙にませていて、お姉さんぶっていたことが、いけなかったのかもしれないね」
悲劇はあったけど、多分ここまでにはなっていないと思った。
普通、園バスは事件を防ぐために、子供を一人で降ろすようなことは絶対にしない。先生たちはいつも、保護者や迎えの人が来るまでバスの中で待たせ、しっかり手渡しをする。それが決まりだった。
でも私は、その日の活動の時間に一生懸命に描いた絵を、早くお父さんとお母さんに見せたくてたまらなかった。胸が熱くなって、足がそわそわと動いてしまうほど、わがままを押し通してしまったのだ。
私が、しっかりしていた事、家の鍵をいつも持ち歩いていることも、先生はよく知っていたから。
「最初、園の先生もすごく悩んでいたよ。顔をしかめて、何度もバスの中を見回したり、家の方向を眺めたりしていた。でも、家が本当にすぐそこに見えていること、それに私が『早くこの絵を見せたい』と目をキラキラさせて訴えているのを知って、特別に許してもらえたの。普段も明るくていい子だったのもあったかもしれない」
あのとき、私はまだ何も思わなかった。
幸せな時間なんて、こんなにも簡単に、突然に終わってしまうものだなんて、想像もしていなかった。
『ねえねえ、先生。いいでしょ? わたし、はやくこの絵をお父さんやお母さんに見てほしいの!』
私はバスの中で立ち上がり、先生の袖を軽く引っ張りながら、甘えた声でねだった。
声が少し上ずっていたのを、今でも覚えている。
『わかったわ、綾ちゃん……。でも、本当に一人で帰れる? 危なくない?』
先生は心配そうに眉を寄せ、私の小さな顔をじっと見つめた。
優しいけれど、迷いの色がはっきり浮かんでいた。
『帰れるよ! ほら、家あそこに見えてるもん。だめですかぁ?』
私は丸めた画用紙をぱっと広げて、先生の目の前に突き出した。
上目遣いに頰を膨らませ、精一杯のおねだり顔を作った。
画用紙の真ん中には、クレヨンで一生懸命に描いた私自身がいて、両脇にはお父さんとお母さんと手を繋いでいる、
ありきたりだけど、ぎゅっと詰め込んだ幸せの家族の絵。
空は青く、太陽は黄色く、家はピンク色で、少し歪んでいても、私にとっては世界で一番素敵な絵だった。
『ねえ、ねえ。私の家、あそこだよ! あの白い屋根のところ!』
もう一度、先生に指をさして、家の場所を熱心に教えた。指先が少し震えていたかもしれない。
『う~ん……。なら、ちゃんと約束してね。必ずまっすぐ家に帰ること。よそ見したり、寄り道したりしないで。いいわね? 約束できる。絶対よ?』
先生の声は優しかったけれど、最後の言葉には強い念がこもっていた。
『うん! 約束する!指切りげんまんもするよ』
私は嬉しさのあまり、ぴょんぴょん飛び跳ねて、もう一度画用紙を丁寧に丸め直した。
紙の端が少し擦り切れそうになるほど、大事に抱きしめた。
『先生ありがとう! また明日ね!』
『……気をつけてね、綾ちゃん。すぐに家に入るのよ』
『は~い』
丸めた画用紙を両腕でぎゅっと抱えて、私はバスのステップを勢いよく飛び降りた。
足が地面に着いた瞬間、ほんの少しだけドキドキした。
でも、わざと胸を張って、振り返って先生に笑顔を見せた。
だって、私はもう鍵だって自分で開けられる『お姉さん』なんだから。
先生がバスの中から、心配そうにじっと見送ってくれているのが、背中に感じた。
あの視線が、今日だけは少し重く、優しく、私の小さな背中を押してくれているような気がした。
そうはいっても、私が家の敷地に入るまでは、園バスはちゃんと見守ってくれていた。
先生が窓から身を乗り出すようにして、私の小さな後ろ姿を最後まで見つめているのが、背中に感じられた。
バスが完全に動き出すまで、エンジンの低い音が遠くで響いていた。
アスファルトの道を、お気に入りの赤い靴が小気味よい音を立てて跳ねる。
カツン、カツン、カツン。
その音が、まるで自分の鼓動のように軽やかで、嬉しかった。
家まではたったの百メートルほど。
いつもなら長く感じる道も、この日はまるで魔法のように短く思えた。
早く、早く見せたい。
この絵を、お父さんとお母さんに。
お父さんは、今日もお仕事かな?
「サッカーをする人のけがとかしないように守る人」って、この前教えてくれたよね。
白いユニフォームを着た人たちの靴をその人に合うようにしてるって言ってたかな。
私はお父さんが大好きだった。お母さんも、そんなお父さんが大好きで、私のことも大好きだって、いつもぎゅっと抱きしめて言ってくれた。
きっと喜んでくれるよね。この絵を見て、「綾、すごいね! 上手だね!」って頭を撫でて、褒めてくれるよね。
そんなことを考えながら、私は玄関のドアの前に立った。
一度、深く息を吸い込む。冷たい春の空気が鼻の奥まで入り、胸が少し震えた。
左手に大事な絵をぎゅっと抱え、右手でポケットから鍵を取り出す。鍵は体温で少し温かくなっていた。
「ただいまー!」
元気いっぱいに声を上げて、靴を勢いよく脱ぎ捨てた。
廊下の木の床が足の裏にひんやり冷たくて、走るたびに小さく音がした。
「おかあさん、おかあさん! 見て見て! 今日活動の時間に描いた絵、すごくいいの!」
リビングのドアを勢いよく開けた瞬間。
リビングで見たのは……
ソファに座っているお父さんを、お母さんが後ろから抱き着いているように見えた。
最初は本当にそう思った。お母さんがお父さんの首に腕を回して、甘えるように抱き付いているんだって。
私は、回想をやめて、真剣な眼差しで私を見ている栞に目を移す。
「本当に聞くの? いい話じゃないし、きっと、気分のいい話でもないよ」
私にとってはもうトラウマというレベルを超えて、日常の一部になってしまった話。
でも、栞に聞かせていいのだろうか?
これを聞いて、私のことを避けるようになるならまだいい。
私は、この先を口にするのをためらっていた。
ここまでなら、ただ「昔、事件があった」という事実だけで完結できるし、何より彼女を傷つけずに済む。
「綾さん……私は聴くよ。もう覚悟は決めたんだし、ここまで聞いて『はい、終わり』じゃ意味ないってば。中途半端な気持ちなら、最初から踏み込んだりしない。だから、教えて」
「……わかった」
私はあの時をもう一度思い出しながらゆっくり語った。
それを見た瞬間、何が起きているのか全く理解できなかった。
お母さんの右手には、血のついた包丁が握られていた。
刃の部分が真っ赤に濡れて、ぽたぽたと血が滴り落ちている。
お父さんの首の左側からは、赤黒い液体がドバドバと勢いよく噴き出し続け、温かい血がソファの背もたれを伝い、床に落ちてはどんどん広がっていく。
赤い雨のような血しぶきが、壁や床、ソファ、カーテンに無数に飛び散っていた。
部屋の空気は一瞬で鉄のような生臭い匂いに満たされ、喉の奥がざわつく。
お父さんの目は虚ろに開いたまま、唇の端から血の泡がこぼれ落ちている。
お母さんの白い服は胸から腹にかけて真っ赤に染まり、頬や髪の毛の先まで血が飛び散っていた。
その顔は、私が知っている優しいお母さんの顔ではなかった。
焦点の合わない、遠い、まるで人形のような目で私をじっと見つめていた。
「……おかあ、さん?」
小さな声が、自分の喉から震えて漏れた。
その瞬間、頭の中で何かがカチリと音を立てた。
お母さんが持っているあの長いもの……包丁だ。
お父さんの首から、赤いものがドバドバ流れている。
お父さんは動かない。
お母さんの服が真っ赤で、目が……私の知ってるお母さんの目じゃない。
……血。
……お父さん、死んでる……?
理解した途端、背筋が凍りついた。
胸の奥から、熱い塊が一気に喉までせり上がってきた。
「きゃ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」
私の叫び声が、喉を引き裂くように家中に響き渡った。
耳が痛くなるほど甲高く、長く、止まらない悲鳴。
「おかえり、あや」
お母さんの声が、ねっとりと甘く、でも少し低く響いた。
口の端にも、頬にも、顎のラインにも、血がべったりと付いていて、それが笑顔の形を歪めている。
その笑みは悲しそうでもあり、優しそうでもあり、弱々しくて、でもどこか狂おしさを孕んだものだった。
私がいつも知っていた、温かいお母さんの笑顔とは、まるで別人のようだった。
「お父さんはね……罰を受けたの。でもママは、それが許せなくて……バツをあげたわ。……でも、綾を一人にするのはかわいそうだよね」
お母さんはゆっくりと首を傾げ、私の目をじっと見つめたまま、優しく囁くように続けた。
「一緒に、お父さんのところに行こうね。今度は、間違えないように……ずっと一緒にいよう?」
「……お……かあ……さん?」
私の声は小さく震えて、ほとんど喉の奥で消えた。
頭の中がぐちゃぐちゃで、何が起きているのか、うまく整理できない。
お父さんが動かないこと、お母さんの服が真っ赤に染まっていること、部屋全体が変な生臭い匂いでいっぱいになっていること——それだけが、ぼんやりと胸に突き刺さってきた。
私は手に握っていた丸めた画用紙を、力なく落とした。
大事に描いた家族の絵が、床の血だまりに触れて、クレヨンの色が赤く滲んでいくのが見えた。
その時、玄関の方から慌ただしい足音と声が飛んできた。
「おい! 何があったんだ! 大丈夫か!?」
近所の人たちが何人か、息を切らして家の中に駆け込んできた。
大人たちの重い靴音と荒い息遣いが、一気にリビングに溢れ出す。
でもお母さんは、そんな大人たちなど最初から見えていないかのように、
一歩、また一歩と、私に向かってゆっくり近づいてくる。
私は、お母さんの右手だけを、ずっと見つめていた。
赤黒く濡れた包丁の刃が、部屋の明かりを鈍く反射して、冷たい銀色に光っている。
その光が、恐ろしくて、目が離せなかった。
「おい、咲夜さん! やめろ!」
近所のおじさんたちが叫びながら飛び出してきた。
誰かが私を抱き上げようと腕を伸ばした、まさにその瞬間。
「綾を……奪わないで……」
お母さんが、消え入りそうな、でもはっきりとした声で呟いた。
その直後。
お母さんは床に落ちていたもう一本の包丁を、迷いなく素早く掴み取った。
そして——私の目の前で。
お母さんは、笑ったまま、自分の首を深く横に引いた。
じゅっ……
湿った、肉を裂くような音がした。
次の瞬間、首の傷口から、熱い血がものすごい勢いで噴き出した。
赤い雨のような血しぶきが、私の顔に、目の中に、口の中に、髪に、服に、びちゃびちゃと降り注いだ。
温かくてねっとりした感触が頬を伝い、唇の間にまで入り込み、鉄のような強い生臭い匂いが鼻の奥まで一気に染み込んでくる。
お母さんの笑顔は、最後まで崩れなかった。
まるで「これで一緒にいられるね」と、私に優しく語りかけているみたいに、穏やかに微笑んでいた。
五歳の私には、もう何も理解できなかった。
頭の中が真っ白になり、胸の奥から熱い恐怖が爆発して。
「ひゃああああああああああああああああああああああああ!!」
喉が破れるような、甲高い悲鳴が止まらなかった。
声が枯れるまで、叫び続けた。
その後、私は意識を失ったらしい。
——
私は物語の凄惨な区切りで、言葉をぴたりと切った。
ゆっくりと息を吐き、真正面に座る栞を真っ直ぐに見つめた。
無言のまま、彼女の瞳をじっと見つめる。
この先を、本当に聴く覚悟があるのか。
もう引き返せなくなるということを、ちゃんと理解しているのか。
それを問いかけるような、静かで重い視線だった。
「綾さん……まだ、続きがあるんだよね」
栞の声は静かだったけれど、決して引かない強さがあった。
彼女はソファの上で少し身を乗り出し、私の目を真正面から捉えていた。
長いまつ毛がわずかに震え、でもその瞳は揺るがなかった。
「うん。今話したのは……これから始まることの、ほんの序章に過ぎない。でも、これだけでも今のあなたにとっては致命的なスキャンダルだよ」
私は冷めた紅茶のカップを両手で包み込みながら、ゆっくりと言葉を続けた。
栞がただの一般人ならまだよかった。
けれど彼女は国民的女優であり、トップアイドルだ。
CM、ドラマ、映画、歌……あらゆるメディアに顔を出している、文字通り「国民的」な存在。
そんな彼女の傍に、私のような「毒」を抱えた人間がいることが知られたら——一大事で済む話ではなかった。
『親の罪は子に関係ない』
そんな綺麗事は、よく聞く。
でも現実は違う。
警察官の採用試験でも、一流企業の面接でも、親の不祥事が足枷になるケースは数えきれない。
身寄りがなければ、大人だってまともに家を借りることすら難しいこの世の中だ。
たとえ「先祖が極悪人だった」と判明しただけでも、後ろ指を指す人間は必ず現れる。
そんな私を、栞は雇っている。
友達だとも言っている。
それは彼女の輝かしい芸能人生にとって、最大の弱点になりかねない爆弾を抱える行為だった。
秋子さんは、それを分かっているから今日ここに来なかったのだろう。
私の口から真実を聞いたら、公私をわけて、非情な決断を下さなければならなくなるから。
「綾さんって、本当に私のことを考えてくれてるんだね」
栞がふっと柔らかく微笑んだ。
その笑顔は、スクリーン越しに見る完璧な笑顔とは少し違って、どこか幼くて、素直で、胸に刺さるほど温かかった。
「……うん、ありがとう。でもさ、世間体で『友達』のふりをする子ならいくらでもいるけど、私から『友達になりたい』って言った子は、数えるほどしかいないんだよ。あんまり舐めないでほしいな。今は同じ学年だけど、私の方が一歳年上なんだから」
栞は少し頬を膨らませて、強く言い放った。
その声には、照れくささと本気の苛立ちが混じっていた。
でも、私はまだ彼女の人生を狂わせてしまう恐怖を、拭いきれなかった。
「……なら私、自分からSNSでこれ、ぶちまけちゃうかも」
「は?」
私は思わず目を丸くした。
何を言っている?
「ほら、私から先にバラしちゃえば、綾さんが心配してる『スキャンダル』なんて関係なくなるでしょ?『実は私の親友にこういう過去があって……でも私は彼女を信じてる』って、私が堂々と発信すれば、叩かれる前に味方だってアピールできるじゃん」
「あなたバカなの?うん、バカなのは知ってるけど、そんなことして、あなたに何の得があるっていうのよ」
「だって、私は覚悟を決めてるって言ったのに、いつまでもウジウジ躊躇してる綾さんが悪いんじゃん。それにバカではないよ」
栞の突飛な理論に、私は完全に毒気を抜かれた。
思わず肩の力が抜けて、ため息が漏れる。
「……栞は、本当に変な奴ね。私を切ったほうが、楽だし、面倒なこともないでしょ。多分水無月芸能プロダクションもただでは済まないよ」
「綾さんにだけは言われたくないよ。ほら、早く全部吐き出しちゃって、社長たちもわかってる事でしょ。何とかなるって、ほら」
栞はそう言って、にっこりと笑った。
その笑顔は、まるで「もう逃げられないよ」と私を優しく、でも確実に包み込むようなものだった。
私は冷めきった紅茶の苦味を、ゆっくりと飲み込んだ。
喉の奥に残る渋さが、妙に今の気持ちと重なった。
カップをテーブルに置き、私は深く息を吐いてから、再び口を開いた。
その先の、もっと暗く、もっと長い物語を——ゆっくりと、語り始めた。
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