2話S ぶかぶかのシャツ、ほどける心
鳴り止まないアンコール。鼓膜がびりびりする。何万人ぶんの歓声が、波みたいに押し寄せてくる。
派手なスポットライトが肌を焼くみたいで、私はその光の中で「霧生栞」を最後まで演じ切る。
指先の角度も、瞬きの回数も、笑うタイミングも、全部ちゃんと合わせる。
ステージを降りた瞬間、息が戻る前に人の輪ができる。
囲まれて、肩を押されて、次へ次へって運ばれる。
秒で区切られた通路を歩くたび、私は私から遠ざかっていく気がする。
機械みたいに動けてしまう自分が、いちばん嫌だ。
「栞、次のライブまでにあと二キロ絞って」
「笑顔が硬いよ。もっと『幸せな女の子』を演じて」
……ねえ、誰か。私の目を見て。
そんなの、口に出せるわけない。
喉が細くなって、空気だけが引っかかる。
苦しい。
このままじゃ、私は私じゃなくなる。
気づいたら、着替えを済ませた足で、そのまま楽屋を飛び出してた。背中でマネージャーの声が聞こえる。
「栞止まりなさい」
「栞戻りなさい」
名前を呼ばれる。けれど、私の足は止まらなかった。
背後でマネージャーたちがどんなに叫んでも、一度も振り返ることなく楽屋の搬出口を押し開ける。
瞬間、土砂降りの雨が顔を叩いた。
「……あはっ」
冷たくて、痛いけど、それが妙に嬉しい。
久しぶりに、自分の意思で動いている実感がしたから。
物心つく前から、私はこの世界にいた。
可愛く笑い、望まれる歌を歌い、愛嬌を振りまく。
幼い頃からずっと、私は「霧生栞」という名前の商品だった。
それが普通で、当たり前で。
けれど、ふと気づいた時には、自分が何のために演じているのかさえ分からなくなっていた。
……だから、逃げた。どこでもいい、誰も私を知らない場所へ
そんな場所日本にあるのかな?
そう思っていても、心に体がついてこない。
無理なダイエットに連日の睡眠不足。
原因なんて分かっている。
それでも少しでもいい、私になるために一歩でもいい前へ進むの。
もう足元がふわふわする。
自分が空っぽで、中身のない殻だけが歩いているみたい。
雨がどれだけ降っても、私の穴を埋めてはくれない。水はただ、虚しく通り抜けていくだけ。
「……あ、もう、無理……かも」
視界がぐにゃりと歪み、膝が地面を打った。
泥水に顔が浸かる。意識が真っ暗な闇に吸い込まれていく。
その最期に、見えた気がする。
降りしきる雨の向こう側に立つ、透き通るような銀色の髪の女神が…。
重たいまぶたを無理やり押し上げると、ぼんやりとした視界に普通の天井が映った。
……ここ、どこだっけ。スタジオ……じゃない?
ホテルでもないよね。
いつも私を焼き付ける真っ白なライトも、ホテルの豪華すぎるシャンデリアもない。
少し古びていて、どこか懐かしい匂いがする、ただのアパートの天井。
あぁ、そうか。私、雨の中で力尽きて……。
「……いたた」
体を起こそうとしたけれど、鉛でも埋め込まれたみたいに体が重くて、すぐにシーツに沈み込んだ。
でも、なんだか体が軽い。
いつも私を締め付けていた、あの息苦しい衣装がどこにもない。
ふと手元を見て、思わず自嘲気味に笑ってしまった。
着せられているシャツが、笑えるくらいにぶかぶかなのだ。
肩のラインは二の腕まで落ちているし、手首なんて袖の中に完全に隠れてしまっている。
布団の中で動くたびに、余った生地がカサカサと肌を撫でる。
……大きい。これ、私を助けてくれた人のかな
指先だけを少しのぞかせて、自分の体を包む大きなシャツをぎゅっと握りしめてみた。
私のサイズなんて無視した、無骨で、温かい贈り物。
誰の期待も背負っていない、ただの「布」に包まれていることが、今の私には涙が出そうなほど心地よかった。
深い闇の底を、ゆらゆらと漂っているみたいに重い頭を無理やり動かして、枕元に視線を向けた。
そこには小さなトレイに乗ったお椀と、一枚の紙きれが置いてあった。
『目が覚めたら、それを食べなさい。雑炊を作っておいた』
たったそれだけの、素っ気ない書き置き。
お椀の蓋を取ると、閉じ込められていた白い湯気がふわっと舞い上がり、出汁の優しい香りが鼻をくすぐった。
中には、柔らかく煮込まれたお米と、細かく刻まれた野菜。
その上から、ふんわりと黄金色の卵がとじられている。
見た目は質素だけれど、今の私にはどんな高級料理よりも輝いて見えた。
震える手でレンゲを持ち、まだ熱いそれを一口、口に運ぶ。
「……あ」
驚くほど、優しい味だった。
喉を通るたびに、お腹の中からじんわりと熱が広がっていく。
無理なダイエットで空っぽだった胃袋に、そして、誰にも頼れず凍りついていた私の心に、その温かさが溶け込んでいく。
……温かい。本当に、温かいよ……
誰かの期待に応えるためじゃない。数字や人気のためでもない。
ただ、目の前で倒れていた私を生かすためだけに作られた料理。
噛みしめるたびに、我慢していたはずの涙がこみ上げてきて、雑炊の味が少しだけしょっぱくなった。
ぶかぶかの袖をまくり上げて、私は夢中で食べ続けた。
この温もりを、一滴も逃したくなかったから。
夕方。カチャリ、と玄関の鍵が回る音がした。
私は反射的に布団を引き寄せ、身構える。
どうしよう……。もし、怖い人だったら……
貸してもらったシャツの大きさを考えれば、家主が男性である可能性は高い。
アイドルの私が、見知らぬ男性の家で寝泊まりしていたなんてバレたら、それこそ一発でアウトだ。
最悪の事態を想像して、心臓がバクバクと嫌な音を立てる。
けれど、入ってきた人物を見て、私は別の意味で言葉を失った。
……え? 女の人……?
そこに立っていたのは、モデルでも通用しそうな、すらりと背の高い女の子だった。
透き通るような銀色の髪に、吸い込まれそうなほど綺麗な赤い瞳。
同じ女の子から見てもため息が出るくらい美しくて、それでいて、どこかこの世の人間ではないような浮世離れした雰囲気を纏っていた。
……綺麗。でも、本当に人間……?
あまりの美しさに圧倒されそうになったけれど、私は必死に、いつもの「アイドル」としての笑顔を顔に張り付けた。
「お帰りなさい~!」
自分でも驚くほど弾んだ声が出た。カメラの前で何千回も披露してきた、とびきりの愛嬌。
けれど、目の前の彼女は、驚いたように一瞬だけ肩を揺らしたあと、あきれるほどそっけなく私を見据えた。
「……元気そうだね」
感情を押し殺した、冷たい声。
その時の私は、彼女の「無関心」な瞳に、どうしようもない安心感を感じていた。
この人、私のこと……全然、特別扱いしてない
「……ところで、あなたは誰?」
「え!! 私を知らないの?」
「知らないし、興味もない。……ただ、名前がないと呼ぶのに不便だと思っただけ」
でも、目の前の彼女のあまりに澄んだ瞳を見ていたら、隠し事をするのがなんだか馬鹿らしくなって。
「私って、結構有名だと思ってたんだけどなぁ……」
自意識過剰ではなくて、いくら芸能人に興味がないって言っても、知らない人がいるなんて思わなかった。
「まぁ、言いたくないなら別に構わないけど」
不意に問われて、私は一瞬、言葉に詰まった。
いつもなら「霧生栞です!」って胸を張って言えるのに、今はなぜか、その名前を出すのが怖かった。
でも、目の前の彼女のあまりに澄んだ瞳を見ていたら、隠し事をするのがなんだか馬鹿らしくなって。
「えっと、助けてくれてありがとう。私の名前は、栞だよ」
結局、苗字を伏せてそう名乗った。
彼女は「そう」とだけ言って、私の正体なんて一ミリも深掘りせずにキッチンへ向かってしまった。
……本当に、私を知らないんだ。
え、それだけ!?
普通、何であんな所にいたのとか、もっと色々聞くことあるじゃない!
思わず背中に向かって声を上げたけれど、返ってきたのは「興味がない」という冷ややかな言葉だけだった。
……なんなの、このお姉さん。冷たいっていうか、本当に私に興味がないんだ……
彼女が夕食の準備を始める間、私は暇を持て余して部屋を見渡した。
驚くほど、何もない。テレビもなければ、音楽が流れているわけでもない。
女性の部屋というより、最低限の生活機能だけを詰め込んだ、まるで無機質なシェルターだと思った。
「そうそう、雑炊ありがとう。昨日から何も食べてなかったから、すっごく美味しかった! いい奥さんになれるね~」
精一杯の愛嬌で褒めてみたけれど、「興味がない」とまた一蹴されてしまった。
やがてテーブルに並べられたのは、野菜たっぷりのポトフ。
「え! これお姉さんが作ったの?」
驚いて聞き返すと、彼女は「見ればわかるのに」と言いたげな顔で私を見た。
温かい湯気を前にして、私は持っていたスプーンを止めた。真っ直ぐに彼女を見つめる。
「ねえ。……なんで、こんなにしてくれるの?」
「さっきも言ったはず。知った以上は、何かしないと後味が悪い」
淡々と返される言葉はどれも理屈っぽくて、突き放しているようにも聞こえる。
けれど、私は賭けに出ることにした。
「お願いがあるんだけど。……少しの間、何も聞かずにここに置いてほしいの」
「別にかまわない」
即答だった。
あまりの拍子抜けに、今度は私の方が呆気にとられてしまった。
普通、警戒するでしょ。見ず知らずの他人が居座ろうとしてるんだよ?
理由を聞かないのかと詰め寄っても、彼女は「帰りたくなったら帰ればいい。私には関係ないことだ」なんて、どこまでも他人事みたいに言う。
「いやいやお姉さん、関係あるでしょ! ここ、あなたの家だよ?」
思わず突っ込むと、彼女は少しだけ眉を寄せた。
「病人を外へ放り出すほど、人でなしではないつもりよ」
あぁ、そういう意味なのかな。
冷たいふりをして、この人はただ、自分の中に決めている”筋”を通しているだけなんだと思う。
「変わってるなぁ、変なお姉さん」
気づけば、くすくすと笑いが漏れていた。
なんだか可笑しくて。こんなに普通が通じない相手、初めてだよ。
すると、彼女が不思議そうな顔で私を見た。
「お姉さん? 見たところ、そんなに年齢は違わないと思うけど」
「私は18歳。一応高校2年生だよ」
「……なら、私より一つ上だけど、学年は同じだね。私は17歳」
「えっ!? てっきりOLさんだと思ってた!」
思わず声を上げて、彼女を上から下までジロジロ見てしまった。
170センチ超えの長身に、この落ち着き払った雰囲気。年下なんて信じられない。
「……まあ、個人差はあると思う」と本人は少し意外そうにしていたけれど。
でも、年齢を知ったせいかな。
さっきまで張り詰めていた部屋の空気が、ほんの少しだけ柔らかく解けた気がした。
「なら、親御さんが帰ってくるんじゃないの? 私、怒られちゃうかも」
「私は一人暮らしだから。気にする必要はないよ」
「ふ~ん……」
「まだお風呂は無理だろうから、身体を拭いてあげるよ」
食後、彼女は何でもないことのようにとんでもないことを言い出した。
「いやいや! 自分でできるから!」
「……熱がぶり返して、私の手間が増えるのは御免だから。そうなったら意味がないでしょ」
どこまでも合理的というか、可愛げがないというか……。
でも、そこまで強引に言われると、なんだかおかしくなってくる。
「そう言われたらそうだけど……もしかしてお姉さん、そっちの気があるとか?」
「そっちの気というのは知らないし、そもそもお姉さんでもない」
「だって~、名前知らないんだもん」
茶化してみたけれど、彼女は動じない。そこでようやく、私たちは名前を教え合った。
『綿津見 綾』。……やっぱり、名前まで綺麗。
「改めて、私の名前は霧生栞。よろしくね、綾さん」
いたずらっぽく手を差し出してみたけれど、彼女はそれを綺麗にスルーして、お湯を張った洗面器を用意し始めた。
……もう、本当にガードが固いんだから!
「話がまとまったなら、身体を拭くよ」
「いやいや、全然まとまってないから! 一人でやるから、本当に!」
結局、私の必死の抵抗に綾さんが根負けした。
渡されたのは、彼女が着ているのと同じスポーツジャージとシャツ。
浴室で着替えて鏡を見て、私は絶句した。
……いくらなんでも、大きすぎ!
リビングに戻ると、綾さんが立ち上がって私を見た。
「綾さん、ありがとう。……でも、ズボンもシャツもぶかぶかだよ」
袖は完全に手が隠れるし、裾は踏んじゃいそう。
でも、彼女の匂いがする大きな服に包まれていると、なんだかすごく落ち着く。
その後、お風呂から上がってきた綾さんに、私はここぞとばかりに質問をぶつけてみた。
好きな食べ物は? 趣味は? 休日は何してるの?
けれど、返ってくるのは「別に」「ない」「寝てる」の三連発だった。
「はぁ……。せっかくのガールズトークが台無しだよ、綾さん。答えが全部『別に』ばっかり!」
不満げに頬を膨らませてみせたけれど、彼女はちっとも堪えていないみたい。
それどころか、彼女は真面目な顔で「布団で寝なさい」と言い出した。自分は床で寝るから、なんて無茶なことを言ってきた。
「いやいや、そんなわけにいかないでしょ!」
「なぜ? 栞はまだ病み上がりだ。私は健康体だよ」
理屈で詰め寄ってくる彼女に、私はわざと床に座り込んで抵抗してみた。
すると、彼女が困ったように黙り込んだ。……あ、今、迷ってる。
「……なに、その顔。不意打ちだよ、綾さん。もじもじしちゃって、可愛すぎるんだけど」
クールな鉄面皮が崩れて、どうしていいか分からないみたいに視線を彷徨わせる彼女。
そのギャップに、私の心臓が小さく跳ねた。
もっとこの人の困った顔が見たい。もっと近くにいたいと思ってしまった。
「ねえ、一緒に寝るのはどう? 綾さん、もしかして女の子が好きとか……そういうの苦手?」
「……興味がない。そういうの」
結局、呆れたような、諦めたような顔で、綾さんが折れた。
狭い布団に二人。
横になった瞬間、すぐ隣から彼女の体温と、せっけんの匂いが伝わってくる。
……冷たいことばっかり言うくせに、体はこんなに温かいんだ
さっきまでの質問攻めが嘘みたいに、安心感が一気に押し寄せてくる。
ふと横を見たら、……って、ええぇ!?
横になったかと思ったら、綾さんは一瞬で寝息を立て始めた。
……どこの〇○太くんですか、この人。いまどきの小学生だって、こんなに寝つき良くないよ?
あまりの早業に、私は暗闇の中で一人、呆然としてしまった。
綿津見綾さん。
本当に私のことを知らないみたいだし、なんだか感性が独特すぎてびっくりする。
それに、さっき隣に立った時に思ったけど……一個下なのに、なんでこんなにスタイルがいいの?
暇になった私は、月明かりを頼りにこっそり部屋を観察してみた。
勉強机の本棚には、タイトルを見ただけで頭が痛くなりそうな難しい本ばかり。
漫画どころか雑誌の一冊すら置いてない。……本当に、現役の女子高生?
ふと、隣で眠る彼女に視線を戻す。
まつ毛が長くて、鼻筋が通っていて……。
……寝顔、綺麗すぎ。このスタイルに、この顔は反則だよ。
芸能界だって、ここまでの子はそうそういないのに
出るとこは出ていて、引っ込むところは引っ込んでいる。
それでいて、私みたいに不健康な痩せ方じゃない。
変わってるけれど、悪い人じゃないっていうか……なんだか「世捨て人」みたいな雰囲気。
これだけの美人なら、放っておいても人が集まってきそうなものなのに、当の本人は会話すら慣れていない感じ。
わざと人を避けてるのかな。
……ま、いっか。今は考えてもしょうがないし
せっかく譲ってもらった布団だ。
ここで私が風邪をぶり返したら、今度こそこの変なお姉さんは床で寝ると言い出しかねない。
「おやすみなさい、綾さん」
小さな声でそう呟いて、私は彼女の温もりが残る布団に深く潜り込んだ。
私は、自分でも気づかないうちに、隣にいる変なお姉さんの体温に引き寄せられるように、深い眠りに落ちていった。
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