#116 君にそれを伝えたくて
戦いの火蓋は切って落とされた。号砲を合図に、列が一気に動き出す。
中腹にいる俺は先頭が流れるのを待ち、時間差で足にリズムを乗せる。ふと、前で弥勒寺先輩が振り返っているのが目に入った。
弥勒寺先輩は俺を一瞥し鼻を鳴らすと、ペースを上げて距離を離していく。
翔太によれば、長距離走のペース配分は主に三種類あるという。
常に一定のペースで走るイーブンペース、前半で飛ばし貯金を作るポジティブスピリット、後半で巻き返しを狙うネガティブスピリットと、それぞれに名前がついている。初めて聞いた時は、競馬の戦略か何かかと思ったものだ。
そして、その分類で考えるなら、弥勒寺先輩の走法はおそらくポジティブスピリット。自信ありげな彼らしいペース配分だといえる。
一方の俺は、ネガティブスピリットだ。これは単純に、マラソン初心者がペースと体力の管理が難しいからという消去法で選ばれたものだ。
……決して、俺がネガティブだって話じゃないからな!
「すっすっ……はっはっ……」
つまり、今ここで弥勒寺先輩との差が開いても、後半で逆転の目があるというわけだ。だから俺は、下手な焦りでペースを乱すようなことはしない。堅実に、一歩一歩の足取りを大事にすると決めた。
とはいえ、相手は運動部の元キャプテン。運動能力的に後半でバテバテになるとは考えづらい。離れすぎれば、そのまま逃げ切られてしまう可能性もあった。
「すーっ、はーっ……」
そんな時の為に、俺は今まで翔太に鍛えてもらったのだ。
余裕のある今のペースから、ギアを一段上げる。体が風を切る勢いが増し、冬の空気が身に染みる。決戦の舞台だという高揚感からだろうか、アドレナリンが全身を駆け巡り、体がとても軽い。もうしばらくの付き合いになる足元のランニングシューズも、今日はその力を最大限に発揮してくれているようだった。
『……嫌じゃなかった、というか……そういう大胆なのも……ありだと思います……』
靴選びの時、押し倒してしまった俺に小野寺はこんなことを言っていた。
ゴールしてから告げる言葉は、我ながら大胆なものになる。それを聞いた小野寺はどんな反応をするのだろう。
「すっすっ……ふっふっ……」
それからも小野寺との思い出が頭に浮かんでは消え、その度に呼吸に笑みが混じる。
翔太から言わせれば、呼吸を乱すようなことは避けるべきなのだろう。でも、走る目的――誰の為に、何を胸に、そして背負っているかを意識し続けることで、闘志が溢れてくるのだ。
しばらく走ると、道の端に鎮座する大きなカメラが視界に飛び込む。あれは、中間地点を示す中継用のカメラだ。
前半戦は、思っていたよりもすんなり終わりを迎える。ここからは後半戦、これまでよりペースを早めていく。
幸い、弥勒寺先輩の背中はまだ捉えられている。スタート時点からは随分と小さな後ろ姿になってしまったが、俺の本気はここからだ。必ず追い抜いてみせる!
「すっすっ……はっはっ……」
足元が奏でるリズムはテンポを上げ、コースもサビに差しかかる。
アスファルトの擦れる音は小刻みになり、身で切る風の温度にも心地よさを感じ始めていた。
前を走る生徒を抜く。また抜かす。抜かして抜かして――
「すっすっ、はっはっ……」
……ようやく、弥勒寺先輩の背後を捉えた!
俺と弥勒寺先輩の間には、一人分のスペースしかない。今追い抜かすのは簡単だ。けど、そこで無理にペースを上げれば、体力を残りに回せる保証はなくなってしまう。
耐えろ、耐えるんだ俺……!
ここで欲を出して負けるなんて、そんなシナリオ最悪すぎる。今は雌伏の時、このまま背後について機をうかがうんだ。――そう、勝機を!
心は熱く、思考は冷静に。走るのに、無駄な強張りはいらないんだ。決意で固くするのは拳じゃない、意志を固くするんだ。
「――……!」
どうやら、弥勒寺先輩は俺に気付いたようだ。
ちらと確認した目が、驚きに見開かれている。
「……ちぃっ!」
弥勒寺先輩は、俺を引き離そうとペースを上げる。
前半あんなに走ったっていうのに、ここからまだ早くなるのか……!
離される距離に焦りを覚えるが、冷静な思考は翔太の言葉を反芻していた。
『長距離を走るうえで、ペースを一定にするのはとても大事なことだ』
たとえペースを上げるとしても、それはコースの進度に合わせた最低限のものにするべきなのだ。
そうしないと――
「はぁっ、はぁっ……くっ……」
急な負荷に体がついてこれず、必要以上に体力を奪われてしまう。
苦悶に顔を歪め息を漏らす弥勒寺先輩の様子に、俺はかつてがむしゃらに走った時の感覚を思い出す。
息を吐く間隔と吸いたい間隔がズレて、地上なのに溺れているみたいな苦しさ。その喘ぎが息遣いを通して伝わってくる。
俺と弥勒寺先輩の距離は、またしても元に戻る。呼吸が安定しない弥勒寺先輩は、ペースを落とすことを選んだようだ。
「すっすっ、はっはっ……」
それでも、俺はまだ追い抜かそうとはしない。最後の最後、ラストスパートをかけるその時まで油断は禁物だ。決着が数メートルの短距離走になれば、俺には分が悪い。
中継用に各地に配置されたカメラは、百メートルごとに置かれている。その総数は五十台だ。
現在まで通り過ぎたカメラは、四十八台。次の一台を超えた残り百メートル、俺はそこで勝負に出る!
「はぁっ、はぁっ……」
弥勒寺先輩の呼吸は、まだ乱れたままだ。
勝つ為の舞台は整った。四十九台目のカメラを通過し、俺はここからペースをさらに上げる。
「すっすっはっはっ……」
一人分の距離はあっさりと縮められ、弥勒寺先輩の隣に並ぶ。そこから追い抜かすまでに時間はかからなかった。
「くっ……はぁっ……」
俺が前に立ったことで弥勒寺先輩にも火が点いたらしく、負けじと足を早めようとするが、体がついてきていなかった。
弥勒寺先輩の姿を確認するなんて余裕、俺にはない。ただ前を見据えて、小野寺が待っているゴールに向かって走るんだ!
「すっすっはっはっ……」
残りは数十メートル、このまま走り抜ければ俺が先にゴールすることができる……!
しかし、その安堵は後ろからの駆ける音に上書きされる。
「はぁっ、はぁっ……はぁっ……!」
慌てて振り返ると、弥勒寺先輩がなりふり構わないフォームで全力疾走していた。
どんどんと詰まる距離は、うかうかしていたら抜かれてしまう勢いだった。
……翔太、悪い。俺はお前の教えに背くことになりそうだ。
心の中で謝罪を済ませ、俺は走りながら息を整える。
短距離走をしている弥勒寺先輩に対して、安定を求める長距離走の走り方では勝てない。
二の舞を踏まないよう注意を払いながら地面を蹴り、俺は駆け出した。
「はぁ、はぁっ……」
呼吸が乱れる。けど、あの時よりはマシだ。ここまで継続してきた呼吸が、心肺への負担を軽減してくれたのかもしれない。
足音を通して、弥勒寺先輩が迫っているのを感じる。
絶対に負けるか……! 俺は勝って、小野寺に伝えなきゃいけないことがあるんだ!
もう、フォームを気にしてなんかいられなかった。自分の中の最速を求め、腕を振り、足を動かし、少しでも早くゴールに到達しようと駆ける。そして……
「はぁっ……! はぁっ……!」
俺はゴールを通過し、地面に身を投げ出した。
全身から力が抜け、もう何も考えることができない。本来であれば一番に気にするべき順位も、今は頭になかった。
「間宮君、お疲れ様。それからおめでとう」
頭上から花森先輩が俺を覗き込む。その表情は、心なしか穏やかに見えた。
「花森……先、輩……」
「あぁ、無理して話そうとしなくていいわ。これを渡そうと思って」
花森先輩が手にしていたのは小さな紙片。それには順位が記されている。
「そうだ、順位……!」
「ふふっ、それも忘れるくらい必死だったのね。……小野寺さん、読んであげて」
「はい……!」
そう言って小野寺は、花森先輩から紙を受け取る。
「えっと……光君は、四十三位でした」
「それ……いいのか悪いのか分からないな……」
「全体を通して上の方だと思うよ」
「そうか……」
「大事なのはここからよ。間宮君が四十三位で、この四十四位の紙を受け取るのはね……」
花森先輩の足取りを、俺は顔だけ動かして追う。
花森先輩は、そんな俺のすぐ側、壁に背を預けている弥勒寺先輩のもとへ向かう。
「残念でしたね、弥勒寺先輩。ここに結果が書いてありますからね」
「はぁっ、くそっ……俺を笑いにきたのか?」
「いえいえそんな。結ばれるべき二人が結ばれたのを喜んでいるだけですよ」
「ちっ……」
二人の会話を聞いて、俺はようやく事態を認識することができた。
「小野寺……」
「どうしたの?」
「俺、勝ったんだよな……」
「うん、そうだよ。光君が勝ったんだよ……!」
こうして言葉にされて、実感が全身を包み込む。
俺は勝った……弥勒寺先輩に勝つことができたんだ……!
「光君、ありがとね。私の為にここまで頑張ってくれて」
「走る前にも言ったけど……俺が走ったのは、それだけじゃない……」
俺は力の抜けた腕を動かして、胸のゼッケンを指差す。
そこに書かれた文字を見て、小野寺の顔が赤らんだ。
「小野寺、聞いてくれるか……俺の話……」
「う、うん……」
俺は上体を起こして小野寺と向き合う。
それから大きく息を吸って、覚悟を決めて口を開いた。
「小野寺……クリスマスの日、俺とデートしてほしい」
小野寺は目を丸くする。もしかしたら、拍子抜けだったのかもしれない。ここまで引っ張っておいて、飛び出したのがデートの誘いだなんて。
本当は、今すぐにでも言いたい。小野寺が好きだと、これからもずっと隣にいてほしいと。でも、こんな疲れ果てた姿では言いたくなかった。これはきっと、男のプライドというやつなのだろう。
「クリスマスの日……」
「ああ。二十五日に、俺と……デートしてほしい」
あぁクソッ! デートって単語を出すだけで唇が震える! 今だけは堪えてくれよ、羞恥心……!
小野寺は、「クリスマス……デート……」と確かめるように何度か呟いた後、にこりと微笑む。
その顔が、誘いの返事を表しているみたいだった。
「はい、喜んで!」
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