#104 火照った心を水で冷ます
それからしばらく、ジャングルをテーマにしたエリア――獣を観ながら歩いていると、ズボンから伝わる振動が刻限を告げる。
「そろそろショーの席、取りにいった方が良さそうだな」
「うん、そうだね」
ここのショーがどれだけ人気の催しなのか、俺は知らない。でも、館内の賑わいを見る限り、ショーに多くの人が押し寄せるのは想像に難くなかった。
できればゆっくりと腰を据えて楽しみたい。人ごみの中、跳ねるようにして鑑賞するのだけは避けたいものだ。
俺達は足早に会場を訪れる。辺りを見渡しても、ほとんどの席が空席だった。
「これなら好きなとこ座れそうだな。どこか希望はあるか?」
「うーん……」
少し迷う表情を見せた後、小野寺はやや遠慮がちに言った。
「えっと……前の方、行ってみたいかな」
どうしてそんな言い方をするのか分からないが、これは希望を叶えるチャンスだ。
「よしきた、じゃあ最前列にでも座ろうぜ」
「え? 本当にいいの?」
「何言ってんだ、ショーとライブは最前列がいいって相場が決まってるだろ?」
「うん……」
小野寺の希望通りになったというのに、どうしてか彼女の顔色は優れなかった。どこかに不安を抱えたみたいな瞳が印象的だった。
その疑問の答えを、俺はこの後知ることになる。
客の入りが盛んになり始め、会場のざわめきが大きくなってきた頃、係員の女性がこうアナウンスした。
「前方の席にお座りのお客様にご案内します。本日のショー、イルカ達大変気合いが入っております。ですのでショーの間、たくさんの水がかかる恐れがございます。印のついている席までは水しぶきが飛ぶことがありますので、こちらのレインコートをご購入していただくか、お席の移動をおすすめいたします」
え、そんなの初耳だぞ。ここは最前列、つまりどう足掻いても水を浴びることからは逃げられないということになる。
俺は恐る恐る小野寺の方に顔を向ける。
「小野寺、今の話聞いたか?」
「……他のお客さんが話してたから知ってたよ。でも、ちょっと興味があって……」
言いにくそうにしてたのは、それが原因か! 俺、つい張り切って最前列まで来ちゃったよ……。
「……レインコート買うか」
「うん……」
そこに待ってましたと言わんばかりに、係員が声をかけてきた。
「レインコート、お買いになりますか?」
「二つお願いします」
……悔しい! これじゃあカモみたいじゃないか!
俺は自分の行動を棚に上げて、イルカに不平の視線を送る。しかし、イルカは何も答えない。ただゆるりと水の中を泳いでいるだけだった。
――そして、時は来た。
会場内に大音量で音楽が流れると同時に、イルカが構える中央のプールを取り囲むように水の糸が注がれる。それは音楽に合わせてうねりをつけながら、観客の拍動を煽る。
そして曲が盛り上がりを迎える瞬間、全ての糸が勢いよく後退し、水面に放射状の軌跡を描いた。
「おぉ……」
もちろん、これはまだ序章に過ぎない。ここから主役のイルカ達のパフォーマンスに移行していく。
先ほどまでのんびりとした様子を見せていたイルカ達だったが、ショーが始まった途端キレのある動きを披露する。
垂直への高い跳躍、回転しながらの跳躍、二匹同時のジャンプパフォーマンスと多種多様な空中円舞で観客を魅了する。
その途中、何度か水しぶきが足元に飛んできたが気にするほどのものじゃない。っていうか、このままだとレインコートを買ったのが無駄になってしまう。
頑張れイルカ! もっと水をかけるんだ! 俺達に水を! さぁ!
……もう何を目的に誰を応援しているんだか。この火照った思考を冷ます為にも、水浴びは火急の用となった。
「水、思ったよりかからないね……」
小野寺も少し残念そうだ。イルカ達の気合いというのは、この程度のものなのか?
そんな挑発とも取れる感想を抱いたところで、曲が転調を迎える。それから、イルカの挙動が一変した。自らの胸びれを使って、意図的にしぶきを客席に飛ばし始めたのだ。
「きゃっ……!」
小野寺が上げているのは、いわゆる嬉しい悲鳴というやつだ。
フードを被っていなければ惨事になりそうな水浴びに、俺はようやくこのショーの楽しみ方を理解した。
「楽しいな、小野寺!」
「うん!」
そして、俺達の昂ぶりを象徴するかのように、群れの中で一番大きいイルカが最後に高く跳び上がった。
高所から巨体が着水し、この日一番の水しぶきが上がる。
高く上った水の壁が降りかかるのを、俺はじっと見つめていた。まるでスローモーションになったみたいに、ゆっくりと静かに俺の頭上まで迫る。
水と触れてからはあっという間だった。瞬く間に俺の全身を水が包み込み、レインコートのありがたみを実感することとなった。
俺は自分の濡れ模様を気にせず、隣を見る。フードを被っていたとはいえ、髪が濡れてしまっては困るだろう。しかし、それが杞憂だったと思い知る。
「ふふっ、ふふふっ……光君、楽しかったね」
艶のある黒髪から水を垂らし、扇情的になった姿で小野寺は俺に笑いかける。
いつものお淑やかな微笑みではなく、心の底からの笑顔。そんな表情を見せられて、水を浴びて冷静になったはずの俺の胸は、今日一番の高鳴りを奏でていた。
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