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呪いの日  作者: 柿崎蒼
14/15

あと1日 そしてその日は訪れる





――呪いの日まで、後一日――



 その日、ルクロは丘に現れなかった。

後悔はしていない。これは彼の幸せのためなのだから。








――呪いの日――



 夢を見た。


 幸せな夢だ。


 二人で台所に立ち、料理を作る。

 馴れない手つきで肉をこねる彼女。べとべとした感触が苦手なのかその手はおぼつかない。それを支えるように手を取って教えようとすると慌てて手を引っ込めてしまう。弾みに用意してあった皿を落としてしまい、隣の部屋まで割れる音が響きわたる。その音になんだなんだと料理ができるのを待っていた少女や老人、男が隣の部屋から台所を覗き、大笑いする……。


 とても幸せな夢だった。




 ぽつぽつと窓を打つ雨の音で目が覚めた。窓を返り見ると黒雲が朝日を遮っている。

 ふと、母が死んだ日のことを思い出した。あの日もこんな天気だった。そして、陰鬱な天気とは裏腹に母は穏やかに眠ったまま、息を引き取った。

 目の前のアリサも同じように眠っている。ルクロは握ったままだったアリサの手に力を入れなおした。手を通してアリサの鼓動が伝わってくる。


 もう、アリサを助けることはできない。


 腹を括ったルクロは一昨日からずっとこうしている。

 アリサの最期を看取るために。


 雨音に混じり、足音が聞こえた。

「ルクロ君、入るよ」

 戸を叩く音と供にバートンが入ってくる。

「起きていたか。牛乳を暖めたんだ。飲むかい?」

「……ありがとうございます」

 ベッドの脇にある机にカップを置くバートン。そのまま部屋を出るのかと思いきや、バートンは急に振り返る。

「ルクロ君」

 バートンは膝をつくと、

「すまない」

 床に頭を擦りつけた。

「バートンさん!?」

「俺が、あんなもの売らなければこんなことには!」

「やめてください」

「本当にすまない……」

 尚も頭を上げようとしないバートンにルクロは穏やかに声を掛ける。

「いいえ、僕も同罪です。すぐに、アリサさんに薬を飲ませていればこんなことにはならなかったんですから」

 後悔に下唇を噛む。なぜ、あの時薬を持っていってしまったのだろうか。

「不本意ながら、今年も呪いは起こる。でも、今年が最後の呪いになるんです。それを喜びましょう、ね?」

 ルクロはバートンに心の底から微笑みかけた。

「君は、強いんだな」

 ようやくバートンが面を上げる。

「そんなこと、ないですよ」

「覚えているかな」

 バートンは立ち上がり、空いていた椅子に腰掛ける。

「何がですか?」

「エミル君が倒れた時のことさ」

 バートンが何を言いたいのかがよく分からない。

「エミル君を最初に見つけたのは俺だった。ほら、昔よく遊んだ砂浜の秘密基地」

「僕らが海岸の端に作ったあそこですか」

 二人で夕方遅くまでかかって作った秘密基地。エミルはそこで倒れているのを商人に発見された。その商人がバートンだったとは。

「そうそう。それでだ。俺は急いで先生のところに運んだ。その時のことさ」

 エミルが死んだのはもう十年も前の話だ。親友が死んだというショックの方が大き過ぎてあまり細かいことは覚えていない。

「僕、何かしましたっけ」

「ああ。君はあの時もエミル君が倒れてからずっと、こうしていた」

「こう?」

「何度バレス先生に追い出されようが、こっそりエミルの側にいて励まし続けた。僕が悪いんだ、僕のせいだから、代わりに僕が病気になる、って先生を困らせていたんだよ」

 おぼろげながら記憶が蘇ってくる。たくさん薬を飲めば治ると信じ込んで薬を飲ませて怒られたり、バレスの目をベッドの下でやり過ごして一秒でも多くエミルと共にいようとしたり。初めて歳の近い者が倒れたという事実にルクロは絶望しつつも、何とかしようと必死だった。

「けれど、結局僕はあの時も何もできなかった。無力でこそあれ、強いと言われる理由がありません」

 ふっとバートンが笑う。

「いや、君はそれでいい。結果だけが強さじゃない」

「そんなことは……」

「実は心配していたんだ。ここ数年の君を見ていると、いつ君が諦めてしまうのか気が気でなかった」

 諦める。きっと、呪いを見届け続けることについてだろう。

「けど、今年の君は違った。一年ぶりに会った君の目はあの頃の目をしていたよ」

 先週、バートンと会った時の事を思い出す。確か、生家の前だ。

 ……ああ、涙しているところに空気も読まず声を掛けられたんだっけ。

「あの時はお恥ずかしいところをお見せしました」

「いいや、気にすることはないよ。それより気づいていたかい?」

「何が、ですか」

「ルクロ君、泣いていたろ」

「……忘れてください」

「そうじゃない」

「え?」

「やっぱり、気づいていなかったのか。君、僕の前で泣いたの、エミル君が亡くなって以来だったんだよ」

「え……」

「バレスさんにも聞いたけれど、バレスさんの前でも全然涙を見せなかったらしいね」

 まさかそんなことはないだろうと思った。しかし、思い返しても確かに泣いたことなどここ数年記憶になかった。

「感情を出すことはよいことだ。それは現実を受け入れているということなのだから。現実を辛いと思って、それがどうにもできないから悔しくて人は泣く。現実と戦っている証拠だよ」

「そう、ですかね」

「ああ。諦めてしまった人間は何も考えない。全てを仕方がない、で片付けてしまうから感情が揺れ動かない」

 ここ数年は呪いの被害者すら知ろうとしなかったことを思い出した。今年もアリサやバレスは無事だった。そんなことを心の奥で安堵するだけで、ルクロ自身いつしか呪いを受け入れてしまっていたのかもしれない。

「だから、あの時は驚いたと同時に凄くほっとした。あんなに感情に落差のある君は久しぶりだったからね。君はこの一年で強くなった」

「一年なんかじゃ」


 一年なんかじゃない。ほんの二週間だ。


 そう言おうとして涙が溢れた。だってそうではないか。たった二週間前までルクロは何も知らない無垢な子供にさえも純粋に笑いかけることができなかったのだ。それがこの二週間で大きく変わった。今まで我慢してきたことに涙した。自分から呪いに立ち向かおうと決意した。しかし、それをどうしようもできない自分の無力さに本気で怒ることができた。そしてその合間にはいつしか――自然に笑えるようになっていた。それは全て、レヴィアがいたから。

「ル、ルクロ君?」

 そしてその事実と一昨日の彼女の姿が重なる。レヴィアが何を考えてあんなことをしたのかは分からない。ただ、今までを考えるとルクロはどうしても何か事情があるのではないかと思うがばかりだった。


「ほら、飲みなよ。少しは落ち着くだろう」

 冷めかけたカップを勧められる。

「すみません」

 少し温いそれはあまり美味しくはなかったが、心が休まった気がした。それを無言で眺めるバートン。しばし、静かな時間が流れた後、

「俺ね、善意のつもりだったんだ」

 バートンが口を開いた。

「俺は人の喜ぶ顔が好きだった。だから商人になったんだ。欲しいものを受け取った時に見せる皆の笑顔。それが見たくて毎年この村に来た。この時期の皆は本当に暗い。それをなんとかできれば、そう思っていたのに、まさか俺の商品が原因だったなんてな」

 頭を抱え、嘆く。

 ルクロはそんなバートンを見ながら昔を思い出していた。母にどうしても紅茶が淹れてあげたくてバートンに頼み込んだこと。バートンは「偉いなあ!」と快く引き受けてくれた。バレスに引き取られてからも、何の利益も上げない子供のルクロの相手をしてくれた。母が死んだ翌年だってそうだ。ルクロとエミルにこっそり商品のお菓子を分けてくれたりもした。その時もルクロを励ますためか「君が淹れた紅茶は美味いからなあ」とルクロに紅茶を淹れさせたりといろいろ気を使ってくれた。最も、当時美味しいと言ってくれたのは母とバートンだけで、ルクロの稚拙な腕が入れた紅茶は実は渋味が相当ひどく、エミルにトラウマを植え付け紅茶嫌いにさせたのだが。


 ……あれ?

 ルクロはふと違和感を覚えた。

 そうだ、エミルはルクロが淹れた紅茶のせいで以来、紅茶を飲まず嫌いになったのだ。それはいつのことだった……?

 必死に記憶の糸を手繰り寄せる。思い出せ。

 母のために初めて紅茶を淹れた時は母とバートンしかいなかった。それから一年。再びやってきたバートンがルクロの淹れる紅茶を催促した時、エミルはどんな顔をしていた?

 その時のことを思い出すと、心臓が激しく動悸し始めた。

 なぜならばエミルはその時既に、ルクロの淹れる紅茶に嫌な顔をしていたのだから。

 そう、ルクロがエミルに紅茶を淹れたのはバートンがやってくる前。アリサ以来の初めての友達が嬉しかったルクロは、エミルに喜んでもらおうと、母やバートンが喜んでくれた紅茶を淹れたのだ。そこでエミルが難色を示したおかげでルクロは初めて自分の腕が未熟だったことに気づいたのだった。

 つまり。


 エミルは「あの」紅茶を飲んでいるはずがないのだ。


 エミルが死んだあの年、バートンが茶葉を持ってきた頃には既にエミルは紅茶が嫌いになっていたのだから。

 頭の中で必死に整理する。ではなぜエミルは死んだのか。どこかであの紅茶を口にしたのだろうか。それは考えづらい。あの一件のせいでエミルはルクロが淹れたかどうかにかかわらず紅茶を出されても口すらつけないようになってしまったのだから。ではエミルだけ死因が違った? その線も薄い。エミルにもバレスは他の十四人と同じ診断を下したのだ。バレスの診断が間違っていた? 疑いたくはないが、バレスとて人間だ。誤診の一つや二つはあるかもしれない。だが、最後にもっと恐ろしい考えが思い浮かんでしまった。

 そもそも、本当にあの茶葉が原因だったのだろうか。

 それを疑うということはバレスの腕を疑うということだ。だが、仮に呪いの正体はアレルギーだ、というバレスの診断自体が誤診だったとしたら、あの薬でアリサは助かったのだろうか。そしてそのことにレヴィアが気づいていたとすれば。

全ては可能性の話。何の根拠もない。希望的観測に過ぎない。だけど。


 まだ、レヴィアさんの口から、何も聞いていない。


 自分が神だという告白を受けたときもそうだった。嘘こそ言ってはいないが、肝心なことを隠し、ルクロの気を少しでも晴らそうとしたレヴィア。もし、あのままルクロが何も聞かなければ、レヴィアは毎年の呪いまで全てを自分のせいにしていたに違いない。そうやって自分が恨まれることで少しでもルクロの気が晴れれば、と。だとすれば今回も。なぜそんなことに今まで気がつかなかったのだろうか。レヴィアが理由もなくあんなことをすることなど、ありえないのだ。

「僕、行かなきゃ」

 音を立てて椅子から立ち上がる。バートンがそれを目で追い、

「どこへだい?」

 と心配そうな顔をした。

「アマガミサマに会いに」

 ルクロは眠ったままのアリサを見る。

「アリサさん、少しだけ待っていてください。どうして、あんなことをしたのか。全部聞いてきますから。だからそれまで……」

 ルクロは握っていた手をほどき、小雨の振る通りへ駆けていった。





 砂浜に着いた頃には既にどしゃ振りになっていた。

 雨粒が視界を遮り、木々に、海に、大地に打ちつけられる水の音が他の全ての音を掻き消す。

十六年前もこんな有様だったのかな。

大荒れの海を目の前にそんなことを思う。ルクロは荒い息を吐きながら丘のある方向を見上げた。しかし、視界が悪く、丘の上の様子はよく分からない。

ぬかるんだ砂浜を走る。雨に濡れたからなのか、それともまだ見ぬ真実に淡い期待を抱いているのか、体の芯が燃えるように熱かった。息を切らしながらルクロは石段を駆け上がる。

「レヴィアさん!」

 ルクロの声にレヴィアが反応する。

「ルクロ……?」

 しかし、そこにはレヴィアともう一人――ルクロの予想もしない人物がいた。

「おや? どうした、ルクロ」

 傘をさした男が振り返る。

 ずぶ濡れのレヴィアとは対象的に、涼しい顔をする老人。


「先生……?」

 バレスだった。

「ワシも聞きたいよ。彼女に呼ばれてね。して、要件は何かね」

 バレスはレヴィアに振り返り問う。

「どういうことですか、レヴィアさん」

「い、いや……違うんだ。私は――」

 何かを言おうとして口篭る。

「全く、何だと言うのじゃ。この雨の中呼ばれたから来たものを」

 そう言うバレスの口元はにたりと歪んでいた。まるでレヴィアが何を言いたいのかをわかっているかのように。昔、ルクロに見せたような子供っぽい笑み。しかし、なぜかルクロにはその笑みに寒気を感じた。

「そう言えば、お主、せっかくワシの調合した薬を捨ててしまったらしいの? 全く、どうしてくれるのじゃ。お主のせいでアリサちゃんは……」

 レヴィアは忌々しくバレスを睨み付けた。

「先生、違うんです! あれは……アリサさんには効かないかもしれない」

「なッ……」

 レヴィアは目を見開き、それをどこで、とでも言いたげに視線をルクロに移した。

「ほう? ワシの調合が間違っていたと?」

「そうは言っていません。けど……そもそも呪いの原因はアレルギーではなかった可能性があるんです」

「なぜそう思うのじゃ」

「先生は、エミルが死んだ年を覚えておられますよね」

「ああ、あのときは驚いたよ」

「思い出したんですよ。エミルは紅茶が嫌いだったんです。だからエミルが紅茶でアレルギーなんて起こすはずがないんです。全ての呪いが同じ原因によって起こっていたとしたら、もっと何か別の原因があるんですよ。そうですよね? レヴィアさん」

 レヴィアは下唇を噛み、ただただ黙っている。

「なるほどのう。それでは確かに効かぬかもしれんな。だからといって捨てることはないじゃろう? せっかくワシが半日かけて調合したのに」

 それは……バレスの言う通りだ。結果がどうあれバレスが半日かかったものを――え?

「半日? 二晩かかったのでは」

 アリサが倒れた日からバレスはほとんど自分の部屋に篭っていた。ろくに眠ることもなく調合していたはずだ。

「二晩もかかるわけがなかろう、十六年間毎年調合してきたのじゃ」

 バレスの口が更に歪む。まるで細い細い三日月のように。

「十六年間……毎年?」

 では最初から効くはずもないものを薬と偽って飲ませようとしていたということだろうか。

「確かにお主の言う通り、呪いの原因はアレルギーなどではないよ。全く、笑いを堪えるのに必死じゃったぞ。あれのどこがアレルギーの症状だというんじゃ。どいつもこいつもワシの一言で全て信じてしまいおって」

 バレスの様子は明らかに異常だった。まるでこの状況を楽しんでいるかのようだ。

「……やはりあなたは分かって――」

 レヴィアは叫ぶが、はっとして最後の言葉を飲み込んだ。

 何が、分かって……?

 ルクロは心の奥で最悪の事態を想像しつつも、それを振り払おうとバレスの言葉の意味を理解しようとする。だが、それは考えれば考えるほど嫌が応にも確信へと変わっていく。

バレスは今までと同じ薬をアリサに飲ませようとした。薬をたくさん飲んだエミルは十五人の被害者の中で最も早い、呪いの日の六日前に死んだ。更に、最初の呪いの日から数年は死亡日が安定しなかった。それも全て、分量がまだよくわかっていなかっただけだとしたら。

「あ、の薬が――」

 鋭くなった三日月が、カッと開き、バレスは高らかに笑う。

「カッ、カカカカカカカカカカ!」

 不快な声は豪雨の音すら浸食して響き渡る。

「やっと、気付きおった! もう、これで我慢する必要はない! この十六年、笑いを堪えるのに必死じゃった!」

 母と死別して十年。誰よりも長く過ごしてきた人間の豹変。

「そう、その通り。あの薬が全ての原因じゃよ」

「嘘でしょう……先生。そ、そんなわけないですよね?」

「嘘? それは何に対してかね? ワシが呪いの原因を知っていたことか? それともその原因があの薬にあることか?」

 くっくと再びバレスから笑みが漏れる。

「ああ、あの薬が本当は劇薬だってことかもしれんのう。いやいや、全ての原因がワシにあるのに何食わぬ顔をしてお主を引き取ったことか? 心当たりが多過ぎてどのことを言っているのかワシにはさっぱりじゃ」

 全てを悟ったルクロの膝はがくりと落ち、ぬかるんだ大地に腰をついた。



「貴様ァッ!」

 レヴィアは気がつくとバレスに掴みかかろうとしていた。

 今まで一体どこにこんな感情が自分に隠れていたのかわからない。全身の熱が脳に集まったかのようにその膨大な憎悪が爆発した。

 しかし、呆気なくかわされてしまう。勢い余ったレヴィアはそのまま地に手をついた。振り返り、再びバレスに向かおうとするレヴィアの目前に黒い物が突きつけられる。

「全く、お主のおかげで今年はとんだ番狂わせが起きたもんだ」

 フリントロック式の銃だった。しかし、今のレヴィアには恐怖など微塵も感じられない。

 恐怖の代わりに湧き上がるのは憤怒。この男のせいで彼が今までどんな思いをしてきたか、分かっているのか。何も知らないまま彼はこの男を尊敬し、感謝していたのだ。それを、全て。この男は裏切ったのだ。

「こんなものが……何だというのだ」

 目の前の悪魔を睨み付ける。

 撃ちたければ撃てばいい。私は、神だ。今まで死ねなかったものが今更こんな鉛玉ごときで死ねるものか。仮にこれが終わりを告げる一発だとしても、私はその命尽きる前に貴様の喉元を喰い千切ろう。そして、彼の怒りを代行した後に貴様に感謝する。この悪夢を終わらせてくれたことを。

「ほっほ、初めて会った時から大した小娘だと思っておったがここまでとは。普通はもっと絶望するものだと思うのじゃがなあ、この状況は」

 絶望などするものか。貴様の思い通りになどさせるものか。

 立ち上がろうとするレヴィアをバレスが静止する。

「おおっと、まだ待て。ここでお主が動いたらワシは引き金を引かなければならなくなる。その前に、聞いておきたいことがあるんじゃよ」

「貴様に教えることなど、あるものか」

「そういうな。老い先短い年寄りの頼みは聞いておくものだぞ。お主、なぜあれが薬でないと分かった?」

「海が教えてくれたのさ」

「海?」

「貴様には分からないだろうな」

 最初は、あの小瓶から海の香りがしたのが気になった。何か胸騒ぎがしたが、ここは海に近いからきっと気のせいだろう、そう思った。あんなに嬉しそうなルクロに水を差すことなんてできない。しかし、あの時はどうしても止めなければならなかった。

「私にとって、海も、海に生きる者達のことも、分からぬことは何一つとしてない」

 だから小瓶の中身の主成分を聞いて戦慄した。

 この時期のナコ貝はその身に強い貝毒を宿すのだから。

「ふん、お主はいちいち癇に障る言い方をするの。要は学があったということか。まさか、あんな屑貝の生態を知っているものがおったとはの」

 忌々しげに溜息をつく。

「お主のおかげでアリサちゃんにかかった呪いはこれで起こらない。じゃがな、呪いは起こってもらわないと困るんじゃ。つまり、今年の筋書きはこう。十六年目の呪いの被害者は『呪いの子』と親しくなった旅の女。おまけにこの村に親族や友人もいない旅人の死体など誰も見ない。どうやって死のうと死因は『呪い』になる」

 これ以上この男の言葉を聞いていたくなかった。

「言いたいことはそれだけか」

 もう、この身などどうでもいい。

 ただ、ずっと彼を苦しめてきたこの男だけは。

 それだけを考えて身を起こそうとする。

 バレスが引き金の指に力を込めるのが見えた。

 レヴィアの体に衝撃が走る。

 ――真横から。



 ルクロが銃声と共に感じたのは左肩の熱。弾は貫通したはずなのにまるで自分の体内に何か異物でも入り込んでいるかのように激痛が走っている。ぼたぼたと地に落ちる鮮血はあっという間に雨に洗われていった。

「ルクロ……」

「おいおい、ルクロ。飛び出すんじゃない。危ないではないか」

 レヴィアを右手で庇い、立ち上がった。

「先生、もうやめてください。こんなことして何になるんです」

「何に? お主、ワシと十年も暮らしてきてそんなこともわからぬのか?」

 バレスは笑いを堪えきれない様子で語り始めた。

「呪いが始まってからというもの、村の皆は何でもワシの言うことを聞くのじゃ。『彼のおかげで呪いの被害は最小限に留まっている』 『病も呪いも彼に任せて置けば問題ない』 『きっといつか彼の研究が実を結び、呪いを解いてくれるに違いない』 こんな美味しい状況、やめられるわけがなかろう。ただ一言、『アマガミサマが怒っている』、そう言えばなんでも貢いでくれるのだからな!」

 思えば確かにバレスは裕福だった。普段の生活こそ質素なものの、研究器具や学術書などはとても一介の医者とは思えぬ規模が揃っていた。


「あなたという人は……」

「ワシは悪くないさ。元はといえばたまたま翌年の呪いの日に死んだお主のジジイとそれを勘違いした村の皆のせいじゃ。あれだけ老衰だと言ったのに誰も聞かなかった!」

 道化のような笑みが段々と消えていく。

「ワシは何度も言った、イアンが死んだのは呪いなんかじゃないってな。だが、あやつらは誰一人としてそれを受け入れようとしなかったよ。よっぽど恐ろしかったんだろうなァ、アマガミサマを蔑ろにしてきたのが」

 後ろのレヴィアが震えているのがわかった。

「だから、ワシは言ったのさ。だったら貢物でも捧げればいいんじゃないのか、ってね。昔ほど信仰がなかったがゆえに、神官の血筋はワシしか残っておらなんだからの。簡単に信じおったよ。少し考えれば分かるだろうと思うたが、不安に駆られた人間はどうしてああも頭が悪いのかね? それまでワシが必死に働いてきたのが馬鹿らしくなるくらいの貢物が集まったよ」

「それに味をしめて翌年、叔父さんにまで手をかけたというのですか」

「ああ。イアンの件があったからか、あの年も妙に村がざわついていたからのう。もし、犠牲者が出たらどうなるか。試して見たくなったのじゃ。結果はご覧の通りさ。馬鹿な村人どもは本気で呪いを信じ込み、残酷にも勝手に呪いの子を祭り上げた。あの時は少しだけ心が痛んだよ。本当に少しだけじゃったがの」

「先生……尊敬していたのに」

「確かにシルガを殺したのはこのワシじゃ。だが、残り全てをこの手にかけたというわけでもない。『呪い』に殺された者だって確かに居る」




 レヴィアにはバレスの言葉の意味が分かっていた。

「その子はワシの代わりに多くの人間を呪い殺してくれたよ」

 やめて。

「毎日のように薬を取りに来ていたの。無邪気な笑顔と共に。あれが毒とも知らず――」

 言わないで。

「なぁ、ルクロ」

 あれだけバレスに抱いていた怒りは嘘のように冷え、別な恐怖が心を支配していった。

「お主は紛れもない『呪いの子』だよ! ワシの薬を皆に届け続けたのはルクロ、お主なのだからな」

「違う! そんなの、ルクロのせいじゃない! ルクロは何も知らなかったんだ!」

 否定の声を上げる。バレスの言うことなど詭弁でしかない。しかし、レヴィアには分かっていた。知っていたかどうかなんて関係ないのだ。ルクロが彼らに毒を届けたという事実は変わらない。その事実が消えることのない罪悪感としてルクロの心に刻み込まれる。それが例え、愛する人を救いたいという気持ちから生まれた行動であっても。

「ありがとう、レヴィアさん」

 ルクロがこちらを振り向いた。とても、落ち着いた笑みで。

「あ……」

「でも、先生の言う通りだ。僕は、やっぱり『呪いの子』だったのかもしれない」

 そう言って、ルクロは幽鬼のようにゆらりとと歩き出した。

「ルクロ!」

 レヴィアの悲痛な叫びも届かない。

「分かっただろう? お主も罪を償って死ぬべきだ。こうして十六年の呪いは幕を閉じる。呪いが解けるのは寂しいが、ワシももう歳じゃからな。今までの貯えで余生をのんびり過ごさせてもらうとするよ」

 やめて、ルクロは何も悪くない。

 肩を押さえながら、歩むルクロはバレスの前で足を止める。

「お主には世話になったからの。最期の言葉くらい聞いてやってもよいぞ」

「先生……」

「クカカ、まだこのワシを先生と呼んでくれるか」

「僕は、『呪いの子』です。日に日に弱っていく母にあなたから届けた薬を届け続けたのだって、エミルに早く良くなって欲しくてあなたに言われる以上の薬を飲ませたのだって僕だ」

「ああ、お主なら分かってくれると思うたよ。大丈夫、アリサちゃんは助けてやろう。お主と最後の犠牲者であるそこの女が死ぬことによって呪いは終わるのだから」

「……そうですか」

 ルクロの瞳に光が宿った。

「ならば、あなたにこそ最期の呪いを」

 ルクロは祈るように空を見上げると、そのまま全力で頭をバレスの額に叩き付けた。咄嗟のことに避けきれず、仰け反ったバレスは傘を落とす。

「お主……ッ」

 慌てて銃を構えるその手を右手で叩き落とすとそのまま突進を喰らわせた。バレスは腰をつく。逃げようと腰を突いたまま後ずさりするバレスはやがて、崖の淵に追い詰められた。

「以前の僕なら大人しく殺されていたのかもしれません。でも、今は違う」

「フン、随分と図太くなったものじゃの」

「そんなことないですよ。だって先生、僕を殺した後はレヴィアさんを殺すつもりでしょう?」

「余計なことを村の皆に言ってもらっては困るからな」

「それだけは、させません」

 何を言っているのだ、それはこちらの台詞だというのに。

「それに。理由はどうあれ、僕をここまで育ててくれた先生に感謝しているのは本当です」

 嫌な予感がした。

「ルクロ、待て」

「だから一緒に逝きましょう」

「お主は本当に優しい子じゃよ」

 最初、何が起きたかレヴィアにはわからなかった。

「一人で逝っておくれ」

 バレスを見下ろすルクロは頭を垂れ……崩れ落ちる。その胸にはメスが突き刺さっていた。

「さあ、小娘、次はお主の番じゃ」

 バレスがルクロの胸からメスを引き抜く。その痕から鮮血が溢れ出した。

「ルクロ、ルクロ!」

 ルクロに駆け寄り、胸元を押さえる。しかし、指の隙間から熱いものがどんどん零れ落ちてしまう。左肩の銃弾、胸の刺し傷。出血があまりにも多すぎる。

「五月蝿い小娘じゃのう。全く、アリサちゃんといいお主といい、こんな甲斐性なしの男のどこがよいのだか」

「黙れ」

「気も弱ければ、頭も悪い。ただのお人好しだというのに」

「黙れと言っているのがわからないのか!」

 レヴィアの覇気にバレスがすくむ。

「ルクロは誰より優しい。自分がどれだけ辛い思いをしようとも、それを決して表に出さず強く生きてきた。それがルクロだ。十年もの間、富と名誉しか見てこなかった貴様にルクロのことが分かってたまるか」

「分かりたくもないわ、『呪いの子』のことなんざの」

 その時、巨大な高波が崖を襲った。まるで、レヴィアの怒りに呼応するかのように。




 朦朧とする意識の中、気がつくとルクロは海に投げ出されていた。傷口に塩水が浸透し、痛みを通り越して感覚が麻痺してゆく。次第にそれは全身に広がっていった。

 土砂が蠢く水中には絶望が満ちていた。

 絶望の底に沈みながらルクロは思う。

 自分の人生は何だったのかと。

 ただ、バレスに利用され、死の薬を配り続けた。それだけの人生だった。

 このまま夢を見ることもなく、人生を終えるのだろうか。

 かつて母は『幸せにしたい人を見つけて幸せにしろ』と言った。

 彼女は神だから、きっと自分が死んだ後も生き続けるのだろう。

 生きていればきっと幸せなことがある。

 そう、いつか彼女は幸せになるはずだ。

 だがその時、彼女の横に自分はいない。

 そんなの、いやだな。

 あれだけ絶望していたのに。

 もう希望なんてどこにも残っていなかったはずなのに。

 生きたい。

 彼女とともに。

 意識が闇に溶けきる寸前、ルクロの腕を暖かいものが掴んだ。



 ルクロは頬に滴が落ちた弾みで気がついた。水中にいて、滴を感じるはずもない。つまり、自分は今、海から解き放たれている。辿り着いた先は果たして生か死か。全身の倦怠感のせいでその確認すら億劫だ。

 次第に意識がはっきりするにつれ、声も聞こえてくる。

「約束しただろう」

 それはとても悲しそうな声。

「私が死ぬまで死なないんだろう、ルクロ。貴様、神との約束を破るのか」

 ゆっくり瞼を開く。ルクロの顔を見下ろすレヴィアの瞳は真っ赤に腫れていた。

「レヴィア、さん?」

「あ……」

 レヴィアはルクロの上半身を抱き締めた。

「馬鹿者! お前は本当に馬鹿だ! 私を置いて一人で逝こうとするなんて何を考えているんだ!」

 レヴィアの瞳から流れ落ちる涙は止まらない。

「はは、すみません。どうせ、僕には寿命があるのだからレヴィアさんを守れたらいいかな、なんて思いまして」

「寿命がなんだ。私は神だぞ。お前を不老不死にしてやることくらい、わけない」

「レヴィアさん、そんなことできたんですか?」

「今は出来ない。だが、必ずできるようになる。だからそれまで死ぬな。もう、私を一人にしないでくれ」

「ええ、今度こそ約束します」

「……本当か?」

「信じられません?」

「お前はすぐ無茶をするからな」

 不安の表情で一杯の彼女が愛おしくて。

「じゃあ、これは誓いの印です」

 ルクロはレヴィアに唇を重ねた。

「ん……!」

 一瞬、レヴィアは身を硬くするが、すぐに力を緩め、ルクロに身を預ける。

 長い、長い時間の後、二人は印を離す。

「わかって、くれました?」

「……お前は本当に無茶をする」

 朱に染まるレヴィアはどうしていいか困ったように呟いた。

「ねぇ、レヴィアさん」

「なんだ」

 黒雲が割れ、光が差していた。

「僕と一緒に旅をしてくれませんか。僕が神になるための方法を探す旅を」

 レヴィアは静かに頷いた。

 ルクロは思う。彼女を幸せにしたい、と。




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