あと3日
――呪いの日まで、後三日――
昔、この村にやってきたばかりの頃だ。初めて見る海に無邪気に喜んだ。毎日のように見ていても飽きなかった。海にはたくさんの生き物がいるし、毎日のようにその顔を変える。時には嵐のように恐ろしい一面を見せることもあったが、それも海の顔の一つには違いない。いつしかレヴィアはなんとなくではあるが、海がどんな顔をするかが分かるようになっていた。どこに海の皆が集まっているかも。それを当時お世話になっていた漁師の夫婦に言うと笑われた。
「ああ、暇があったらそこにも寄っていっぱい魚取って来てやるよ」
きっと少女の戯言だと思ったに違いない。漁師は何の期待もせず、ほんの気まぐれでその場所で漁をした。
その日の夜からレヴィアは巫女だの聖女だのと呼ばれることになる。
しかし、村に居るのが辛くなり始めたときもこのときからだった。村の誰もが自分を特別扱いし、一人の村人として見てくれない。村中に慕われていたレヴィアだったが、彼女は孤独になった。
ある日、最初に「お告げ」をしたあの漁師が死んだ。その日、レヴィアは絶望する。漁師の死因は怪我でも病気でもない。もちろん海に出て死んだわけでもない。老衰だった。初めて会ったときは現役の漁師で村からも一目置かれていた壮年の彼。いつしか彼は弱々しいただの老人となっていたのだ。だが、レヴィアだけは彼と初めて会ったときのまま、何も変わっていなかった。
村の皆がレヴィアを人扱いしてくれるわけがなかったのだ。その時既にレヴィアは人ではなかったのだから。
一人になってしまったレヴィアは長年世話になった漁師の家を出た。
そのまま旅に出ようかという考えもあったが、それはやめた。レヴィアはこの村が好きだった。どこの誰かも分からない自分を拾ってくれた漁師の夫婦も、追い出すことだってできたのにそれをしなかった村長も、毎日のように話し相手になってくれた商人見習いの少年も。自分に優しかった村人全員が好きだった。初めて「お告げ」をしたあの日からそれは崩れ始めたが、いつかまた元に戻る、ずっとそう考えていた。
しかし、それももうない。漁師は死んだ。婦人も歳を重ね、レヴィアのことはもうよく分かっていないようだった。当時の村長は既に他界しており、少年も他所の町で嫁をもらってそこで店を建てたと風の噂で聞いた。当時の村人達はもう、どこにもいなかった。
あの頃には戻れない。
しかし幸せな時間を過ごせたのも確かだった。それはとても甘美な一時。それを味あわせてくれたこの村にまだ尽くしたかった。それにこの村に残っていればもしかしたらまた、世代の変わった村人と同じように過ごせるかもしれない。淡い期待の元、レヴィアは「アマガミサマ」になった。誰が言い始めたかは知らないが、村を遠巻きに見ながら年に一回お告げをするレヴィアを村人はそう呼んだ。レヴィアは結局村人には戻れなかった。
同じことを繰り返しながら日々を過ごすレヴィアは疲れて果てていた。しかし、村人が何代変わってもレヴィアは死ねなかった。
丘から海を眺めながら、ここに飛び込めば全てを終えることができるのだろうか。そう考えたことなど数え切れないほどだった。
特に十六年前、村に降りることを止めてからは。それでもそうしなかったのはまだ人に戻る夢を捨てきれなかったからだ。動かなければ何かが始まることなどない。そんなことは分かり切っていたが、レヴィアにはどうしようもなかった。今更村に行くことなどできない。あれほど世話になった村にひどい傷跡を残してしまったのだから。レヴィアの日々は暗雲に閉ざされ身動きが取れない状態だった。いつかこの闇から外に出て家に帰りたい。しかし、その方法が思いつかない。
そんな先の見えない暗闇に光が差した。
最初は気まぐれで彼と接した。どうせ、彼もいつかはいなくなるのだ。だが、彼の話を聞く内に昔の幸せな時間を思い出していた。
このまま過ごせばもしかしたら。と、同時に罪悪感が心の奥から湧き上がる。このまま過ごす、それは彼を騙し続けることになるのだ。このまま罪悪感とともに過ごすくらいなら、今。彼のためにも、自分のためにも。レヴィアは全てを打ち明けた。
彼はレヴィアが人でないと分かった後も変わることなく接してくれた。自分を喜ばせようといつも一生懸命なのが凄く嬉しかった。あまつさえ、自分と共にずっと生きてくれると言い出した。そんなこと、できるはずがない。だけど。レヴィアはその言葉を彼から聞くことができて幸せだった。
だが、彼には彼を想う人がいる。彼女はれっきとした人間で、彼もまんざらではなさそうだった。自分の出る幕ではないなと思った。今だけなのだ、この幸せは。後少しだけ。そうだ、この呪いが解けたら彼から離れよう。
だから呪いの解けた昨日。もう、この幸せは終わりなんだなと思った。たった十日あまりの出来事。ならば最後に、と必要のない食事の誘いを受けた。それで全部割り切れる、彼の幸せのために。そう思っていた。だが、現実は違った。
いつの間にか夜が明けようとしていた。レヴィアはぼうっとした頭で建物の隙間から覗く朝日を眺めていた。
「ん……」
小さく伸びをする。この体になっても疲労はある。肉体的なものではない。精神的なものだ。心が澱めばそれは体のあちこちに違和感となって現れる。自分は全知全能なんて存在ではないのだから。今では神を名乗ることすらおこがましい気分である。
バレスから借り受けた毛布を軽くたたむと、ゆっくり腰を上げ、一階の診療部分に向かう。
扉を前にレヴィアは大きく深呼吸した。ノックをするが返事はない。眠っているのかもしれない。そう思い、なるべく音を立てずに扉を開く。
「起きていたのか」
ルクロはベッドの横に椅子を並べ、俯いていた。その表情は絶望一色でとても直視できたもではない。
ベッドには、アリサが横たわっていた。
昨日、あまりにも帰りが遅い二人を迎えに、レヴィアはアリサの家に向かった。そこでレヴィアは信じられない光景を目にする。
アリサを抱きかかえるルクロ。
正確に言えばそれは十分に想像がつく光景だった。しかし、レヴィアはその光景を信じたくなかった。
しかし、すぐにレヴィアの思い違いだということが分かる。ルクロの表情はあまりにも虚ろで、対するアリサは荒い息を吐いていた。
「何をしているのだ、ルクロ」
ルクロがゆっくりと視線をレヴィアに向けた。ルクロはまるで、死人のようだった。その瞬間、レヴィアは全てを悟った。
ルクロに駆け寄り、アリサの容態を確認する。予想が確信に変わったレヴィアはバレスの元へと走った。
アリサは昨日と比べれば落ち着いた様子で静かに寝息を立てていた。しかし、あれから意識は戻っていない。
「ルクロ、少し休んではどうだ、ここは私が」
「いえ、いいんです」
レヴィアの提案は間も空けず否決される。ルクロも昨日から一睡もしていないのだろう。目にはひどい隈が出来ていた。それだけではない。ルクロの顔は真っ青で、いつもの表情豊かなルクロはどこにもいない。
「そうか、では何か温かいものでも持ってこよう」
ルクロの返事を聞く前にレヴィアは部屋を飛び出した。後ろ手で扉を閉め、溜め込んだ息を吐く。
「ルクロ……」
視界が滲み、レヴィアは慌てて瞼を拭う。先ほどから跳ね上がる鼓動を抑えずに入られなかった。
台所へ向かう。そこには既に先客がいた。
「おはようございます、バレス殿」
「おお、おはよう。その様子じゃ全然眠れなかったようじゃの」
「私など……それより、彼女の容態は」
バレスは黙ってしまった。が、視線を逸らさずバレスを捕えるレヴィアに観念したように口を開く。
「アレルギーというものは、発症するまではアレルギー物質を少々摂取したところで何も起こらない。だが、少し摂取して、大丈夫だったからといっていくら摂取しても大丈夫だというものでもない。積もり積もったものがある日限界に達し……ドカン、じゃ。彼女はあれからもあの紅茶を飲み続けていたんじゃろう」
バレスは忌々しく顔を歪める。
「だが、原因は分かっておるのじゃ」
「何とかなりそうなのか」
「何とかしてみせるよ」
決意に満ちた表情だった。
「正直、今は症状を抑えているだけに過ぎぬ。あれに合った抗アレルギー剤を調合せねばな。心配するな、既に取り掛かっておる。絶対、間に合わせる」
「そう、か」
わずかだが、安堵の息が漏れる。まだ、呪いは防げる可能性があるのだ。そう思うと少しだけ力が湧いた。
「バレス殿、ルクロに何か温かい物を飲ませてやりたいのだが」
「昨日のスープがまだあったの」
バレスは鍋を火にかけた。
「ワシはまた調合に戻るが、火を見ていてもらえるかい?」
小さく頷くとバレスは自分の部屋へと戻っていた。
ゆらゆらと揺れる竃の火を眺める。
そうやって何をするわけでもなく、一人でいると、嫌が応にも気分が重くなる。
レヴィアは昨日からずっと恐怖を感じていた。
呪いが終わっていなかったことにではない。
アリサが呪いにかかったからでもない。
絶望に満ちたルクロの表情にでもない。
アリサが呪いにかかって、安堵した自分が、とても恐ろしかったのだ。
もちろん、それはほんの一瞬の出来事。しかし、呪いが終わっていなかった、 これでルクロとの関係も終わらない。しかも呪いの相手はあのアリサだ。このまま呪いが解けなければ――そんなことをほんの一瞬でも考えてしまった自分が恐ろしくて堪らなかった。レヴィアは自分でも気がつかないような心の奥でずっとアリサに嫉妬していたのかもしれない。
スープが吹き始める音でレヴィアははっと我に返った。慌てて火を止める。量は飲めないだろうと、カップに入れることにした。
カップを持って部屋に入る。ルクロはこちらをちらりと見ようともしなかった。
「昨日のスープを温めた。よかったからどうだ」
彼の横のテーブルに静かにカップを置く。
わずかな沈黙の後、ルクロは
「ありがとうございます」
と力なく言った。
しかし、それきり、ルクロはカップに手を付けようとはしなかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
「どうして、こんなことになっちゃったんでしょうね」
自分の気持ちと同じ言葉にレヴィアは咄嗟に反応ができなかった。
「やっと終わると思ったのに、もう、誰も死なないと思ったのに……」
「大丈夫だ」
考えるより先に口が動いた。ルクロが顔をこちらに向ける。
「原因は分かっているんだ、大丈夫。バレス殿も動いてくれている」
「結局、僕は何も出来なかったんですよね。紅茶に気付いたのだってレヴィアさんですし、薬を作るのも先生だ」
握られた膝の上の拳が震えていた。
「ううん、そんな大それたこと、今はもうどうでもいいのかもしれない。目の前でアリサさんがこんなに苦しんでいるっていうのに、僕はアリサさんのために何一つ出来やしない!」
大粒の滴を落とすルクロを見て、決意する。
レヴィアは震えるルクロの手を取った。ルクロがはっとこちらを見る。そのままルクロの手を引き、横たわるアリサの手を握らせた。
「これが今、お前が出来ることだ」
ルクロがアリサの手を離さないようにぎゅ、と力を入れる。
「アリサが目覚めた時にお前がそんな顔でどうする。アリサの笑顔は、お前の笑顔だ。強気で彼女を見守ってやれ。バレス殿は動いてくれている。アリサだって呪い……いや、呪いなどではない、ただの病気だ。そんなものにアリサが負けるわけがない」
ぽかんとしたルクロの返事を受ける前にそっと手を放すと、そのままルクロの方を見ることなく部屋を出る。
レヴィアは一人、丘へ戻った。




