烈女と星の夜
やがて祭りの熱気も終わりを迎え、三治郎は村はずれの寂しい場所を、一人家路へと急いでいた。ふと背後から疾風のごとく何かが走り抜けた。同時に、はっきりと女の叫ぶ声を聞く。
「助けて!」
なんとその声は孝子だった。馬の背にその身を横たえ、必死の叫びを上げている。いかにも柄の悪そうな男が馬に鞭を入れて、道を急いでいた。
恐らく人さらいであろう。三治郎が推察するに、孝子は逃げた鳥を探し、周囲をうろうろするうちに人さらいに遭遇したものと思われた。
三治郎は生まれつき責任感が強い。孝子がこのような事態になった原因は、鳥を逃がした自分にもあると考え、そう思うといても立ってもいられなかった。
馬は近くの大きな山の方角へと向かった。三治郎も山の方角へと赴き、日付も変わろうという頃になっても、必死に孝子の後を追った。
幸い、三治郎は生まれつき足腰が強かった。後年、五十を越して地球半周以上も歩いた強靱な足腰で、ついには山頂に近いところまで至る。そして、とうとう孝子を発見するのである。
それは、あまりに衝撃的な光景だった。孝子は顔面血まみれで、ぶるぶると震えていた。そして人さらいの男は、喉元から血を流して絶命していたのである。
三治郎の姿を見ると、孝子はいきなり抱きついてきて泣き出した。この後、孝子が語る内容は、まさに驚愕すべきものだった。
孝子は縄で縛られ、男はたき火で暖まりながら酒を飲み始めた。ここで野宿するつもりのようである。
男が眠っている隙に、孝子は縄を必死に火であぶり、ついに縄はほどけてしまった。孝子は逃げようとするも、男はそのことに気づき起き上がった。
「やい! 待ちやがれ、どこへ行く!」
ところが次の瞬間、男はたき火を足で踏んで転倒した。
「あちい! この糞! 待ちやがれ」
孝子が見たところ、男はまだ酔っている。ここで孝子は覚悟を決め、男に全体重をかけ、渾身の体当たりをお見舞いした。
男は近くの大木まで飛ばされ、したたかに頭を打った。そこで孝子は木の枝を折って、まだ意識が朦朧としている男に馬乗りになった。そして木の枝で男の喉元を刺し貫く。男は断末魔の叫びとともに絶命した。
三治郎は半ば呆れ、そして戦慄した。大の大人の男を一人殺してしまうとは……烈女といえば、まさしく烈女であろう。
この後、二人は山を降りようとするも、孝子は男ともみ合った際、足をくじいて歩行に支障をきたしていた。
やむを得ず、二人は焚き火を燃やし、朝を待つことにした。
山の空気は凍えるほどに冷たく、そして殺伐としていた。風の音に、ときおり遠くで獣が叫ぶ声が混じる。
寒さに震えながらも、両者は様々なことを語り合った。三治郎は母が死に、父が去り、そして引き取られるまでのことを孝子に語って聞かせた。
母が死に、入り婿だった父が去った後、小関家を継いだのは母の弟だった。いわば三治郎からしたら叔父にあたる。叔父といってもまだ18歳で、それほど歳は離れていない。
この叔父と三治郎は馬が合わず、いさかい事が絶えなかった。
この頃、三治郎は一度寺子屋へ通っている。物覚えがよく、特に算数が得意だった三治郎は、すぐに師匠に気に入られ、周囲の尊敬を集めた。
しかし叔父は何が気に食わなかったのか、三治郎に寺子屋通いをやめさせ、浜辺で漁具番をさせた。
漁具が盗まれぬように泊まり込みで見張りをする一方、沖合に魚の群れが出現したら知らせるのである。
小屋は隙間だらけで、特に冬は凍てつくほどに寒く、何度もいずこかへ逃げようとした。
魚の匂いが染みついたこの狭い小屋では、壁に向かって叫んでも、波の音以外に返事は返ってこない。絶望して夜すすり泣くことさえあった。
「そうか、お前も私と同じだな」
孝子もまた、幼くして父母を亡くしたという。そして叔母の家に預けられたが、やはり叔母との関係がうまくゆかず、叔母は孝子につらく当たることがしばしばだという。
夜は長く、三治郎にはその夜の星の輝きが特別に感じられた。そこで三治郎は、得意の星の話を語って聞かせた。
……天の川が白く輝く岸辺の機屋で、織女は今日も五色の糸を織り込み、美しい空を彩る雲錦を織り続けていた。
その姿を、天の川の対岸から静かに見つめる星の神がいた。西の空を司る太白金星である。天界随一の輝きを放つ彼の瞳には、ただひたむきに機を織る織女だけが映っていた。
しかし、織女の心にはすでに夫・牽牛がいた。二人は深く愛し合ったために天帝の怒りを買い、今は天の川を隔てられ、年に一度、七月七日の夜しか会うことを許されない。
そのすべてを知りながらも、太白金星は毎夜のように機屋を訪れた。
「今宵も見事な機織りの音だね」
「太白様、いつも私の手元を照らしてくださってありがとうございます」
太白金星がそばにいるだけで機屋は明るくなり、織女は安心して機を織ることができた。彼は「美しい布を見たいだけ」と微笑んだが、本当に愛していたのは布ではなく織女だった。それでも彼女の幸せを壊したくない一心で、その想いを胸に秘め続ける。
ある夜、織女は織り上げた布を広げた。そこには寄り添う二つの星――織女と牽牛が刺繍されていた。
「まるで本物の星のようだ」
そう微笑む太白金星の胸は静かに痛んだが、彼は彼女の幸せだけを願った。
夜明けが近づくと、太白金星は西の空へ帰っていく。
「ありがとうございました、太白様」
織女にとって彼は、暗闇を照らしてくれる優しい友人に過ぎない。それでも太白金星は最後に織女の星を振り返り、心の中でそっと祈る。
――どうか、君の愛する人が、いつまでも君を想い続けていますように。
秋の夕暮れ、西の空で誰よりも早く輝く一番星。それは今も太白金星が、寒さの中で機を織る織女の手元を照らそうと放つ、報われることのない優しく尊い愛の光なのである。
他にも三治郎は、得意の星にまつわる物語をいくつか語って聞かせた。やがて孝子はぼそりと言った。
「この天地はいかほど広いのあろうかの? かなうことならいつか行ってみたいものだな。あの天の川の彼方まで……」
ふと三治郎は先刻、空の彼方へ消えた籠の鳥のことを思い出した。
もちろん三治郎は、自分が鳥を逃がしたことは言えなかった。言えば自分も先ほどの男と同じ目に遭わされそうである。
しかし、気がつくと孝子は三治郎の肩にもたれかかり寝息を立てていた。その寝顔はあどけないもので、とても人を一人殺してしまうような女には見えなかった。
やがて朝が来て、二人がいなくなったことに気づいた村の衆が近隣を捜索し、山の中で二人を発見した。
そしてここから、二人の奇妙な縁が始まるのである。




