第18話 屈服のデコピンと、新たな居候
「……信じられない男ネ」
フレヤは渋々立ち上がり、自分でグラスと丸氷を用意して、悠作のボトルからウィスキーを注いだ。
ソファに戻り、静かにグラスを傾ける。口の中に広がる芳醇な香りを味わいながら、彼女は再び、隣で欠伸を噛み殺している大男を横目で観察した。
『「強い者が絶対の正義」である彼女にとって、自分より強い存在に出会うことは人生の最大の目的だった。
しかし、先ほどの戦闘――いや、戦闘と呼ぶことすらおこがましい、一方的な蹂躙。
自分が持てる全ての手札を切り、マンションのワンフロアを吹き飛ばすほどの火力を叩き込んでも、この男はただ煙草をふかし、テレビのチャンネルを変えていた。
彼女の全力を「ただの面倒な騒音」としか認識していない、あの絶対的な余裕。
そして、その圧倒的な力の差を見せつけた直後に、何事もなかったかのように大衆鮨屋に連れ出し、美味そうにビールを煽る図太さ。
「アタシを、あんな子供みたいにあしらうなんて……。最高……最高にストロングでクールね……ッ!」
フレヤの頬が、酒の酔いとは別の熱を帯びて赤く染まった。
彼女の胸の奥で、ドクン、と心臓がこれまでとは全く違うリズムで大きく跳ねた。
圧倒的な敗北。完全なる屈服。
手も足も出ないほど自分をねじ伏せたあの無気力なフリーターは、今この瞬間、フレヤ・ヨネルの中で「この世で最も魅力的なオス」へと確固たる昇格を果たしたのだ。
「……ユー」
フレヤはグラスをテーブルに置き、熱っぽい視線で悠作を見つめた。
「ん?」
悠作はテレビから視線を外さず、気怠げに応じる。
「アタシ、決めた!」
「……何を」
「ユーの圧倒的な強さに惚れたネ! だから、今日からアタシ、ここに住む!」
「は?」
「そして毎日アタシを抱いて、もとい、鍛えてプリーズ!!」
フレヤのストレートすぎる肉食系のアプローチが、静かなリビングの空間に木霊した。
悠作の思考が、数秒間完全にフリーズした。
意味がわからない。さっきまで本気で殺し合いに近い行為をしていた相手に対し、「同棲して抱いてくれ」と要求してくる神経が理解できなかった。
「……いや、帰れよ。不法侵入で警察呼ぶぞ」
「ノープロブレム! アタシたち、もう夫婦みたいなものネ! 拳で語り合った仲じゃない!」
「全然語り合ってねえよ。俺、避けてただけだろ」
悠作の切実な拒絶など、ノルウェー出身の陽キャで戦闘狂の彼女には一切届いていなかった。
フレヤはドンッと自分の豊かな胸を叩き、ソファの上で悠作ににじり寄った。
「さあ、ユー! 今日からアタシがユーのパートナーよ! 毎朝スパーリングして、美味しいご飯食べて、夜はベッドでたっぷり愛し合うネ!」
「……マジで勘弁してくれ」
底なしに明るく、そして絶対的な力関係すらも「愛情」へと強引に変換してしまう図太い肉食系の女。
高橋すずのような「遠くから崇拝してくる限界オタク」とは全く違うベクトルの、パーソナルスペースを物理的に破壊してくるヒロインの登場に、悠作は深く、果てしなく深い絶望のため息をついた。
窓の外からは、冷たい秋の夜風が容赦なく吹き込んでくる。
隣では、ピンク髪の女がウイスキーを煽りながら、テレビのバラエティ番組を見て「アハハハ!」と大口を開けて笑っている。
その騒々しい光景を前に、悠作はソファに沈み込みながら、静かに頭を抱えた。
★★★★★★★★★★★
翌朝。
悠作は、顔を舐められる湿った感触で目を覚ました。
「ん……なんだよ、フェンリル。腹減ったのか」
寝ぼけ眼をこすりながら起き上がろうとした悠作は、自分の身体にのしかかる、フェンリルよりも遥かに重く、そして柔らかい『質量』に気づいた。
「グッドモーニング、ダーリン! 最高の朝ネ!」
「……は?」
視線を落とすと、そこには薄着のキャミソール姿で悠作に覆い被さり、至近距離で満面の笑みを浮かべるフレヤの姿があった。
彼女のグラマラスな肉体が、悠作の作業着越しに密着している。
「お前、なんで……」
「昨日、ここに住むって言ったでしょ? アタシ、有言実行する女ヨ」
悠作は完全にフリーズした脳を必死に回転させ、昨夜の記憶を呼び起こした。
ウィスキーを飲んだ後、フレヤのハイテンションな絡みに辟易した悠作は、「勝手にしろ」とだけ言い残して寝室のベッドに逃げ込んだはずだった。
「……オートロックは? 鍵は?」
「そんなの、あの温厚な受付のお姉さんに『アタシ、あそこの住人のカノジョだから』って言ってカードキー奪ってきたに決まってるネ!」
物理的な突破ではなく、伊藤みのりを力技の嘘で押し切ったらしい。あの優秀な受付嬢が今頃デスクで胃薬を大量消費している姿が目に浮かび、悠作はこめかみを押さえた。
「で? 朝から何やってんだよ、どけ」
悠作が鬱陶しそうにフレヤを払いのけようとしたが、彼女は全く動じず、むしろさらに強く抱きついてきた。
「さあ、ダーリン! 朝のウォーミングアップのスパーリングよ! アタシの炎を全部受け止めてプリーズ!!」
「やらねえよ! マジで帰れって言ってんだろ!」
悠作の怒声が、高級マンションの寝室に虚しく響き渡る。
しかし、戦闘狂の彼女にとって、その拒絶すらも愛情表現の一種にしか聞こえていないようだった。
「Oh、シャイなダーリンネ! なら、アタシからいくヨ!」
フレヤはベッドの上で跳ね起きると、拳にピンク色の魔力を収束させ始めた。
「おい、やめろ! また窓ガラス割ったら、伊藤さんに怒られるだろ!」
悠作の必死の制止も虚しく、フレヤの『爆炎の右ストレート』が放たれようとした、まさにその瞬間だった。
ピンポーン、ピンポーン。
玄関のインターホンが、無遠慮に鳴り響いた。
「……ん?」
フレヤが拳を下ろし、首を傾げる。
悠作もまた、誰が来たのかと怪訝な表情を浮かべた。
このVIPマンションの場所を知っているのは、ギルドの限られた人間だけのはずだ。
「……伊藤さんか?」
悠作はベッドから這い出し、ボサボサの髪を掻き乱しながら玄関へと向かった。
モニターを確認すると、そこにはギルドの制服を着た見知らぬ若い職員が、青ざめた顔で立っていた。
「……はい、鈴木ですけど」
悠作がインターホン越しに応答すると、職員は弾かれたようにモニターに顔を近づけた。
「す、鈴木さん! 大変です! 今すぐギルド本部に来てください!」
「は? なんで」
「『紅蓮の剣』の炎上烈たちが……SNSで、鈴木さんのことをある事ない事、大々的に告発してるんです!」
「……告発?」
悠作の死んだ魚のような瞳が、わずかに見開かれた。
昨夜、面倒くさいからと電源を切って放置していたスマートフォンの存在を思い出す。
「彼ら、『鈴木悠作は魔竜から逃げ出し、自分たちを見捨てた卑怯者だ』って……! しかも、その証拠だと言い張って、捏造された映像までアップされてて……今、ネット中が大炎上してるんです!!」
職員の悲痛な叫びが、インターホン越しにリビングまで響き渡った。
背後でその声を聞いていたフレヤが、ニヤリと好戦的な笑みを浮かべる。
「Oh……ダーリン、なんか面白そうなことになってるじゃない」
悠作は、深く、果てしなく深い絶望のため息をついた。
「……終わった。俺の平和な休日が……」




