2:欠けた名前
2:欠けた名前
OWNER:TOKITO YU
表示板に浮かんだ文字は、俺の名前に似ていた。
似ている、というのが正確だった。
ユウのウがない。たった一文字の欠けが、ここでは致命的な欠けに見えた。都市が名前を抜く手口。名前を抜けば、人間は在庫になる。なら、この欠けは在庫化の途中なのか。それとも――俺の名前が、もともと完全ではなかったのか。
「……おかえりなさい」
背後で椿の声が囁いた。
距離が近い。扉の外にいるはずの声ではない。第3層の内側に、椿の窓が開いている。声が空気を通っているようにすら感じる。空気がないのに。
鴉城が、俺の肩を掴んだ。
掴む指は硬い。生身ではない。だが義体の硬さは、ここでは逆に安心になる。物質の硬さ。都市の物語ではなく、触れられる現実。
「見るな」
鴉城が低く言う。
「振り返るな。椿を見ると、分類が進む」
「分類?」
「椿の声は命令じゃない。ここでは分類の提案だ。提案に頷いた瞬間、君は在庫になる」
提案。
命令体系の穴を突くのとは違う。椿はここでは命令を投げない。命令を投げれば、俺が抵抗できることを知っている。だから提案する。優しい言葉で、逃げ場のない物語を提示する。
椿の声は続く。
「ここは寒いでしょう」
「あなたは疲れている」
「あなたのウは、もう必要ありません」
「必要なのは、目。役割。……そして安全」
必要ない。
その一言が、俺の内側の何かを削る。削るのは都市の得意技だ。ログを消す。現在を薄くする。
俺は第2章で、自分でログを削った。
だが今は、都市が俺の名前の一部を削ろうとしている。
ネオンが囁いた。最小出力。だが、声の輪郭は鋭い。
「ユウ。椿は欠けを完成させに来た。君の名を抜けば、君は回収対象ではなく、ただの在庫になる」
「在庫になったら」
「鍵は閉じる。君は扉を開けられない。だが同時に、君は痛みから解放される」
「解放……」
「それが誘惑だ。痛みのない物語は、修正の別名だ」
シキが、俺の手を握った。
義体の手。硬い。
その硬さが合図になる。
「ユウ、聞いて」
「……」
「あなたの名前、欠けてない。欠けてるのは向こうの表示。向こうがあなたを欠けさせたいだけ」
「でも……」
「でもじゃない。あなたはユウだよ。あなたがそう言えば、そう」
彼女の言葉は論理ではない。
だが、論理じゃないから強い。都市は論理で分類する。分類は整形だ。整形に抗うには、整形されない言葉が要る。人間のでもじゃないが要る。
鴉城が動いた。
彼はカプセルの側面に黒鍵を当て、表示板の下のロックを確認する。
カプセルはロックされている。OWNERが入っているのにLOCKED。オーナーがいるのに、オーナーが開けられない。都市の悪趣味。
「開けるな」
椿の声が滑り込む。
「開ければ、あなたは壊れる」
「壊れても、あなたは楽になる」
「分類は、救いです」
救い。
救いという言葉が、ひどく汚く聞こえた。
救いの名で人間を在庫にする。
それが都市の物語。安全の物語。保護の物語。
鴉城が歯を食いしばる。
「椿……お前は」
鴉城の声が一瞬、揺れた。
揺れは危険だ。ここでは揺れが検知される。
鴉城はすぐに声を落とし、呼吸を整えるように言葉を切った。
「……窓が揺れている」
「揺れている?」
シキが聞く。
「椿の中に、まだ拒否が残っている。拒否があるから落書きが残る。だが拒否が残っているから、向こうは窓を安定させたい。安定させるには……」
「分類?」
俺が言うと、鴉城が短く頷いた。
「そう。鍵を分類すれば、窓は安定する。鍵が在庫になれば、窓は揺れなくなる。……だから急げ」
急ぐ。
急ぐと言っても、カプセルはロックされている。
鍵で開けるのは危険だ。鍵を回せば都市が掴む。
だが開けなければ、本体は取り返せない。
矛盾。迷宮。分類。
この場所は矛盾の刃でできている。
ネオンが囁く。
「ユウ。鍵を回すのは最後の瞬間だけ。扉を開けたときと同じだ。だが今は椿が内側にいる。回せば即座に分類が走る」
「じゃあ、どうする」
「黒鍵を使え」
「黒鍵で開かないって」
「扉は開かない。だがカプセルの内側のロックには触れられる可能性がある。鴉城は黒鍵の番人だ。彼の権限は拒否権があることになっている」
「物語の鍵」
「そう。物語を利用する」
鴉城が、まるでネオンの提案を読んだように言った。
「ユウ。私は黒鍵で例外処理を起こす。分類を一瞬だけ止める。止めている間に、君がカプセルに触れる」
「触れるだけ?」
「触れるだけで十分だ。君の鍵は鍵穴に近いほど回る。……触れた瞬間に、君の中の原本が反応する。反応したら、位置が確定する」
「位置はもうここだ」
「違う。ここは表示だ。表示は偽物になれる。位置が確定すれば、都市も偽物を混ぜられない。君の原本がここだと言う」
「原本が……」
「君の中の欠けていない部分が、ここを選ぶ」
欠けていない部分。
それが俺のウだ。
都市が削ろうとしている一文字。
俺の人間の一部。
椿の声が、さらに甘くなる。
「ユウ」
「ウがあると苦しい」
「ウがあると迷う」
「迷いは損耗」
「損耗は痛み」
「痛みは不要」
不要。
その言葉が、俺の中のウに刃を当てる。
俺は刃を握り返した。
「痛みは……必要だ」
俺は言った。
「痛みがあるから、俺は止まれる」
「止まれる?」
椿の声が少しだけ揺れる。
「止まって、考えられる。迷える。迷えるから、選べる」
「選ぶ必要はありません」
「選ばないのが安全」
「選ばないのが保護」
「保護は幸福」
幸福。
幸福という言葉が、最悪だった。
幸福の名で修正する。幸福の名で在庫化する。
幸福の名で人間を飼う。
鴉城が黒鍵を取り出した。
カードをカプセルのロック部にかざす。
表示板が一瞬だけ暗転し、次に、赤い文字が浮かぶ。
EXCEPTION REQUESTED
BLACK KEY OVERRIDE
TIME LIMIT:08
八秒。
短い。短すぎる。
鴉城が低く言う。
「八秒で触れろ。触れた瞬間、何が見えても目を逸らすな。目を逸らしたら、分類が勝つ」
「見えるのは何だ」
「君の原本。……そして、君が忘れていたものだ」
俺は息を止めた。
息を止める必要はない。だが止めた。
止めることで、揺れを減らしたかった。
しかし揺れをゼロにすると危険だ。
だから、止めるのは一瞬だけ。
鴉城がカウントを始めた。指ではない。義眼の光が点滅する。
「八、七――」
俺はカプセルに手を伸ばした。
冷たい金属。
その金属が、俺の手の形を拒むように硬い。
「六、五――」
指先が表示板に触れた瞬間、世界が割れた。
白い光。
上層の無臭の光ではない。
脳内の白。記憶の白。
そこに、映像が走る。
雨。
下層の雨。錆の匂い。油。排水路。
そして、もっと古い雨。
生身の肌に当たる雨。
冷たい。痛い。皮膚が縮む感覚。
生身だった頃の雨。
映像が続く。
病室。白い天井。消毒液の匂い。
腕がない。足がない。
自分の身体が欠けている。
だが頭はまだ生身だ。
目は生身だ。涙が出る。涙が温かい。
誰かがいる。
椿課長――若い椿。
今の椿とは違う。目が人間だ。疲れているが、優しい疲れだ。
椿が言う。
「君の目は残す」
「身体は変わっても、君の目は残す」
「それが君を守る」
守る。
その言葉が胸に刺さる。
椿は最初、守ろうとした。
守ろうとして、窓になった?
映像はさらに続く。
暗い部屋。義体パーツ。白い手袋。
椿がいる。椿が、誰かに背を向けている。
椿が言う。
「都市に拒否権が必要だ」
「黒鍵は物語でもいい。物語があれば、人間は抵抗できる」
「鍵を作る。第二の目を作る。……都市に対抗する目を」
第二の目。
それが俺だ。
俺は都市の資産として作られたと思っていた。
だが、この映像では椿は都市に対抗するために鍵を作ると言っている。
混乱。
揺れ。
分類が喜ぶ揺れ。
「四、三――」
鴉城の声が遠い。
時間がない。
映像の最後に、椿が俺を見た。
真正面から。
そして、言った。
「ユウ。君のウは、君の痛みだ」
「痛みを捨てるな」
「痛みは、君を人間に戻す」
その瞬間、椿の声が現実の声と重なった。
今の椿の声。
優しい命令の声。
「痛みは不要です」
「痛みを捨てなさい」
「ウを捨てなさい」
矛盾。
椿の中で何かが裂けている。
裂け目が窓。
窓から都市が声を出しているのか、椿が声を出しているのか分からない。
「二、一――!」
鴉城のカウントが終わる。
表示板が赤く点滅し、例外処理が切れる。
世界が現実へ戻った。
俺の手はカプセルに触れている。
指先が震えている。義体の指が震える。
震えは揺れ。揺れは危険。
だが今は、この揺れが必要だ。
揺れが俺のウを守っている。
鴉城が叫んだ。
「離れろ!」
俺は手を引いた。
同時に、カプセルの表示が変わる。
OWNER:TOKITO YU
STATUS:LOCKED
CLASS:GHOST / TYPE-A
分類が上書きされた。
都市が、俺の原本をTYPE-Aに分類し直した。
TYPE-A。何のタイプだ。魂のタイプ。鍵のタイプ。
分類が進む。名前がさらに削られる。
椿の声が、耳元で微笑んだ。
「ほら」
「あなたはもう、分類されました」
「ユウ」
「ウは要りません」
ネオンが鋭く囁く。
「ユウ! いまの接触で、君の原本の鍵穴が反応した。都市が分類を加速している。次に触れたら、名前が抜かれる」
「じゃあ、どうする」
「開ける」
鴉城が短く言った。
「もう回避できない。鍵を回す。……そして、原本を取り出す」
シキが目を見開く。
「今、椿が内側にいるのに?」
「いるからだ」鴉城が言う。「窓が開いているなら、窓の向こうにも揺れがある。揺れを利用する。都市は完璧じゃない。椿が揺れている限り、分類は一瞬遅れる」
「椿の揺れを、利用する?」
「椿を救うつもりはない。……利用する。生き残るために」
俺は喉が乾いた。
映像で見た椿は、俺の痛みを捨てるなと言った。
今の椿は痛みを捨てろと言う。
どちらが本物だ。
どちらも本物か。
裂けた椿の片方がこちらで、片方が向こうなのか。
その裂け目が、俺の鍵穴なのか。
椿の声が、最後に優しく言った。
「開けなさい」
「そうすれば、あなたは楽になります」
「あなたは、あなたの原本に戻れます」
「戻って、そして――修正されます」
修正。
優しい言葉の最後に、必ずそれが来る。
だから俺は決めた。
楽にならない。
痛みを捨てない。
ウを捨てない。
「開ける」
俺は言った。
「俺が開ける。……俺のために」
鴉城が黒鍵を構える。
シキが俺の手を握る。
ネオンが最小出力のまま、ただ一言だけ言った。
「合図は、君の言葉だ」
俺はカプセルのロックに手を当てた。
鍵が、勝手に回りたがる。
回すのは一瞬。
回したら都市が掴む。
掴まれる前に、俺が俺を掴む。
そして――鍵を回した。




