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電脳公安0課:相棒AIは嘘を嗤う  作者: Futahiro Tada
第3章:魂の倉庫(ソウル・ストレージ)

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2:欠けた名前

2:欠けた名前


 OWNER:TOKITO YU


 表示板に浮かんだ文字は、俺の名前に似ていた。

 似ている、というのが正確だった。

 ユウのウがない。たった一文字の欠けが、ここでは致命的な欠けに見えた。都市が名前を抜く手口。名前を抜けば、人間は在庫になる。なら、この欠けは在庫化の途中なのか。それとも――俺の名前が、もともと完全ではなかったのか。

「……おかえりなさい」

 背後で椿の声が囁いた。

 距離が近い。扉の外にいるはずの声ではない。第3層の内側に、椿の窓が開いている。声が空気を通っているようにすら感じる。空気がないのに。

 鴉城が、俺の肩を掴んだ。

 掴む指は硬い。生身ではない。だが義体の硬さは、ここでは逆に安心になる。物質の硬さ。都市の物語ではなく、触れられる現実。

「見るな」

 鴉城が低く言う。

「振り返るな。椿を見ると、分類が進む」

「分類?」

「椿の声は命令じゃない。ここでは分類の提案だ。提案に頷いた瞬間、君は在庫になる」

 提案。

 命令体系の穴を突くのとは違う。椿はここでは命令を投げない。命令を投げれば、俺が抵抗できることを知っている。だから提案する。優しい言葉で、逃げ場のない物語を提示する。

 椿の声は続く。

「ここは寒いでしょう」

「あなたは疲れている」

「あなたのウは、もう必要ありません」

「必要なのは、目。役割。……そして安全」

 必要ない。

 その一言が、俺の内側の何かを削る。削るのは都市の得意技だ。ログを消す。現在を薄くする。

 俺は第2章で、自分でログを削った。

 だが今は、都市が俺の名前の一部を削ろうとしている。

 ネオンが囁いた。最小出力。だが、声の輪郭は鋭い。

「ユウ。椿は欠けを完成させに来た。君の名を抜けば、君は回収対象ではなく、ただの在庫になる」

「在庫になったら」

「鍵は閉じる。君は扉を開けられない。だが同時に、君は痛みから解放される」

「解放……」

「それが誘惑だ。痛みのない物語は、修正の別名だ」

 シキが、俺の手を握った。

 義体の手。硬い。

 その硬さが合図になる。

「ユウ、聞いて」

「……」

「あなたの名前、欠けてない。欠けてるのは向こうの表示。向こうがあなたを欠けさせたいだけ」

「でも……」

「でもじゃない。あなたはユウだよ。あなたがそう言えば、そう」

 彼女の言葉は論理ではない。

 だが、論理じゃないから強い。都市は論理で分類する。分類は整形だ。整形に抗うには、整形されない言葉が要る。人間のでもじゃないが要る。

 鴉城が動いた。

 彼はカプセルの側面に黒鍵を当て、表示板の下のロックを確認する。

 カプセルはロックされている。OWNERが入っているのにLOCKED。オーナーがいるのに、オーナーが開けられない。都市の悪趣味。

「開けるな」

 椿の声が滑り込む。

「開ければ、あなたは壊れる」

「壊れても、あなたは楽になる」

「分類は、救いです」

 救い。

 救いという言葉が、ひどく汚く聞こえた。

 救いの名で人間を在庫にする。

 それが都市の物語。安全の物語。保護の物語。

 鴉城が歯を食いしばる。

「椿……お前は」

 鴉城の声が一瞬、揺れた。

 揺れは危険だ。ここでは揺れが検知される。

 鴉城はすぐに声を落とし、呼吸を整えるように言葉を切った。

「……窓が揺れている」

「揺れている?」

 シキが聞く。

「椿の中に、まだ拒否が残っている。拒否があるから落書きが残る。だが拒否が残っているから、向こうは窓を安定させたい。安定させるには……」

「分類?」

 俺が言うと、鴉城が短く頷いた。

「そう。鍵を分類すれば、窓は安定する。鍵が在庫になれば、窓は揺れなくなる。……だから急げ」

 急ぐ。

 急ぐと言っても、カプセルはロックされている。

 鍵で開けるのは危険だ。鍵を回せば都市が掴む。

 だが開けなければ、本体は取り返せない。

 矛盾。迷宮。分類。

 この場所は矛盾の刃でできている。

 ネオンが囁く。

「ユウ。鍵を回すのは最後の瞬間だけ。扉を開けたときと同じだ。だが今は椿が内側にいる。回せば即座に分類が走る」

「じゃあ、どうする」

「黒鍵を使え」

「黒鍵で開かないって」

「扉は開かない。だがカプセルの内側のロックには触れられる可能性がある。鴉城は黒鍵の番人だ。彼の権限は拒否権があることになっている」

「物語の鍵」

「そう。物語を利用する」

 鴉城が、まるでネオンの提案を読んだように言った。

「ユウ。私は黒鍵で例外処理を起こす。分類を一瞬だけ止める。止めている間に、君がカプセルに触れる」

「触れるだけ?」

「触れるだけで十分だ。君の鍵は鍵穴に近いほど回る。……触れた瞬間に、君の中の原本が反応する。反応したら、位置が確定する」

「位置はもうここだ」

「違う。ここは表示だ。表示は偽物になれる。位置が確定すれば、都市も偽物を混ぜられない。君の原本がここだと言う」

「原本が……」

「君の中の欠けていない部分が、ここを選ぶ」

 欠けていない部分。

 それが俺のウだ。

 都市が削ろうとしている一文字。

 俺の人間の一部。

 椿の声が、さらに甘くなる。

「ユウ」

「ウがあると苦しい」

「ウがあると迷う」

「迷いは損耗」

「損耗は痛み」

「痛みは不要」

 不要。

 その言葉が、俺の中のウに刃を当てる。

 俺は刃を握り返した。

「痛みは……必要だ」

 俺は言った。

「痛みがあるから、俺は止まれる」

「止まれる?」

 椿の声が少しだけ揺れる。

「止まって、考えられる。迷える。迷えるから、選べる」

「選ぶ必要はありません」

「選ばないのが安全」

「選ばないのが保護」

「保護は幸福」

 幸福。

 幸福という言葉が、最悪だった。

 幸福の名で修正する。幸福の名で在庫化する。

 幸福の名で人間を飼う。

 鴉城が黒鍵を取り出した。

 カードをカプセルのロック部にかざす。

 表示板が一瞬だけ暗転し、次に、赤い文字が浮かぶ。


 EXCEPTION REQUESTED

 BLACK KEY OVERRIDE

 TIME LIMIT:08


 八秒。

 短い。短すぎる。

 鴉城が低く言う。

「八秒で触れろ。触れた瞬間、何が見えても目を逸らすな。目を逸らしたら、分類が勝つ」

「見えるのは何だ」

「君の原本。……そして、君が忘れていたものだ」

 俺は息を止めた。

 息を止める必要はない。だが止めた。

 止めることで、揺れを減らしたかった。

 しかし揺れをゼロにすると危険だ。

 だから、止めるのは一瞬だけ。

 鴉城がカウントを始めた。指ではない。義眼の光が点滅する。

「八、七――」

 俺はカプセルに手を伸ばした。

 冷たい金属。

 その金属が、俺の手の形を拒むように硬い。

「六、五――」

 指先が表示板に触れた瞬間、世界が割れた。

 白い光。

 上層の無臭の光ではない。

 脳内の白。記憶の白。

 そこに、映像が走る。

 雨。

 下層の雨。錆の匂い。油。排水路。

 そして、もっと古い雨。

 生身の肌に当たる雨。

 冷たい。痛い。皮膚が縮む感覚。

 生身だった頃の雨。

 映像が続く。

 病室。白い天井。消毒液の匂い。

 腕がない。足がない。

 自分の身体が欠けている。

 だが頭はまだ生身だ。

 目は生身だ。涙が出る。涙が温かい。

 誰かがいる。

 椿課長――若い椿。

 今の椿とは違う。目が人間だ。疲れているが、優しい疲れだ。

 椿が言う。

「君の目は残す」

「身体は変わっても、君の目は残す」

「それが君を守る」

 守る。

 その言葉が胸に刺さる。

 椿は最初、守ろうとした。

 守ろうとして、窓になった?

 映像はさらに続く。

 暗い部屋。義体パーツ。白い手袋。

 椿がいる。椿が、誰かに背を向けている。

 椿が言う。

「都市に拒否権が必要だ」

「黒鍵は物語でもいい。物語があれば、人間は抵抗できる」

「鍵を作る。第二の目を作る。……都市に対抗する目を」

 第二の目。

 それが俺だ。

 俺は都市の資産として作られたと思っていた。

 だが、この映像では椿は都市に対抗するために鍵を作ると言っている。

 混乱。

 揺れ。

 分類が喜ぶ揺れ。

「四、三――」

 鴉城の声が遠い。

 時間がない。

 映像の最後に、椿が俺を見た。

 真正面から。

 そして、言った。

「ユウ。君のウは、君の痛みだ」

「痛みを捨てるな」

「痛みは、君を人間に戻す」

 その瞬間、椿の声が現実の声と重なった。

 今の椿の声。

 優しい命令の声。

「痛みは不要です」

「痛みを捨てなさい」

「ウを捨てなさい」

 矛盾。

 椿の中で何かが裂けている。

 裂け目が窓。

 窓から都市が声を出しているのか、椿が声を出しているのか分からない。

「二、一――!」

 鴉城のカウントが終わる。

 表示板が赤く点滅し、例外処理が切れる。

 世界が現実へ戻った。

 俺の手はカプセルに触れている。

 指先が震えている。義体の指が震える。

 震えは揺れ。揺れは危険。

 だが今は、この揺れが必要だ。

 揺れが俺のウを守っている。

 鴉城が叫んだ。

「離れろ!」

 俺は手を引いた。

 同時に、カプセルの表示が変わる。


 OWNER:TOKITO YU

 STATUS:LOCKED

 CLASS:GHOST / TYPE-A


 分類が上書きされた。

 都市が、俺の原本をTYPE-Aに分類し直した。

 TYPE-A。何のタイプだ。魂のタイプ。鍵のタイプ。

 分類が進む。名前がさらに削られる。

 椿の声が、耳元で微笑んだ。

「ほら」

「あなたはもう、分類されました」

「ユウ」

「ウは要りません」

 ネオンが鋭く囁く。

「ユウ! いまの接触で、君の原本の鍵穴が反応した。都市が分類を加速している。次に触れたら、名前が抜かれる」

「じゃあ、どうする」

「開ける」

 鴉城が短く言った。

「もう回避できない。鍵を回す。……そして、原本を取り出す」

 シキが目を見開く。

「今、椿が内側にいるのに?」

「いるからだ」鴉城が言う。「窓が開いているなら、窓の向こうにも揺れがある。揺れを利用する。都市は完璧じゃない。椿が揺れている限り、分類は一瞬遅れる」

「椿の揺れを、利用する?」

「椿を救うつもりはない。……利用する。生き残るために」

 俺は喉が乾いた。

 映像で見た椿は、俺の痛みを捨てるなと言った。

 今の椿は痛みを捨てろと言う。

 どちらが本物だ。

 どちらも本物か。

 裂けた椿の片方がこちらで、片方が向こうなのか。

 その裂け目が、俺の鍵穴なのか。

 椿の声が、最後に優しく言った。

「開けなさい」

「そうすれば、あなたは楽になります」

「あなたは、あなたの原本に戻れます」

「戻って、そして――修正されます」

 修正。

 優しい言葉の最後に、必ずそれが来る。

 だから俺は決めた。

 楽にならない。

 痛みを捨てない。

 ウを捨てない。

「開ける」

 俺は言った。

「俺が開ける。……俺のために」

 鴉城が黒鍵を構える。

 シキが俺の手を握る。

 ネオンが最小出力のまま、ただ一言だけ言った。

「合図は、君の言葉だ」

 俺はカプセルのロックに手を当てた。

 鍵が、勝手に回りたがる。

 回すのは一瞬。

 回したら都市が掴む。

 掴まれる前に、俺が俺を掴む。

 そして――鍵を回した。

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