1:ゴースト在庫
1:ゴースト在庫
暗闇は静かだった。
静かすぎて、都市の呼吸が聞こえない。空調の唸りも、排水の滴も、電力の震えも薄い。第3層――ゴースト保管は、呼吸が止まった場所だ。鴉城が言っていた危険な静寂。都市が掃除や回収を入れる場所。あるいは、都市が自分の胃袋の中を見せないために、音を消している場所。
それでも完全な無音ではなかった。
カプセルの並ぶ空間に、微かな電子音がある。
ピッ、ピッ、と一定の間隔で鳴る小さな音。心拍計の音に似ている。生身の心拍じゃない。魂の在庫管理の音だ。
「地獄だな」
俺が言うと、声が吸われた。壁に反響しない。吸音材が仕込まれているのか、空間そのものが音を飲むのか。
ネオンが最小出力で囁く。
「比喩としては正しい。だが、地獄には出口がある」
「出口があるなら、ここは地獄じゃない」
「地獄にも出口はある。ただし、出口に辿り着ける者が少ないだけだ」
皮肉を抑制しているはずなのに、ネオンの言い回しには尖りが残っている。尖りが残っているから、俺はまだ自分に戻れる。尖りが合図になる。
シキが小さく鼻で笑った。
「相棒、やっぱり口悪いね」
「口はない。私は信号だ」
「信号が口悪いってこと」
「君の言語感覚は雑だ」
鴉城が振り返らずに言った。
「私語は最小にしろ。ここは都市の内臓だ。何が耳になっているか分からない」
「耳がないなら静かでも意味ないでしょ」
シキが反射で言い返し、すぐに口をつぐんだ。
鴉城は淡々と続ける。
「耳はある。だが耳の位置が違う。ここで拾われるのは音ではない。……揺れだ」
「揺れ?」
「電脳の揺れ。義体の揺れ。呼吸の揺れ。感情の揺れ。ここはそれを検知する」
感情の揺れ。
俺の未登録回路が、また微かに脈打った。鍵穴に近づいたせいだけではない。この場所が、俺の原本に近い匂いを持っているからだ。
目が慣れてくると、カプセルの列が見えてきた。
銀色の棺が整然と並び、側面の表示板だけが淡く光っている。ID、ステータス、分類。
分類の文字列は無機質だった。
GHOST / TYPE-A
GHOST / TYPE-B
MEMORY / FRAGMENT
PERSONA / TEMP
DELETE / PENDING
削除待ち――その文字に、喉の奥が冷えた。削除待ち。魂の削除待ち。
ここは保管庫ではなく、選別場だ。保護ではなく、選別。
都市は、人間を物として扱う。物語の外側で。
鴉城が立ち止まった。
通路の分岐。左右にカプセルの列が伸びている。天井は低く、照明は薄い。
鴉城の義眼が淡く光り、カプセルの表示板を読み取っていく。
「第3層は迷宮だ」
鴉城が言う。
「迷う原因は構造じゃない。……分類だ。人間の記憶は、分類されると形を変える。ここではあなたがあなたでなくなる」
「分類されると形が変わる?」
俺が問う。
「都市は分類に合わせて記憶を整形する。矛盾を嫌うからだ。矛盾は例外。例外は消す」
「俺の矛盾も消される?」
「消される。だから鍵を回すなと言った」
鍵を回すな。
だが、鍵を回さずにどうやって探す。鴉城は匂いで探せと言った。
匂い――俺の雨。俺の現実。
俺は目を閉じ、下層の雨を思い出した。錆の匂い、油の匂い、排水路の冷たさ。
それだけじゃない。シキの工房の油。紙の札の乾き。ゴロウの端末の傷。
削られて薄くなった記憶の縁に、まだ残る感触。
その感触を胸に、目を開ける。
カプセルの列の中に、ひとつだけ違和感があった。
表示板が、ほんの僅かに揺れている。光の点滅が不規則。
都市の整然とした呼吸からズレた点滅。
「……あれ」
俺が指さすと、鴉城が動きを止めた。
義眼がそちらを向き、光が強くなる。
「揺れている」
鴉城が言う。
「分類が合っていない。……ここは保管庫でありながら、保管に失敗している」
シキがカプセルに近づこうとするのを、鴉城が手で止めた。
「触るな」
「触らない。見るだけ」
「見るだけでも危険だ。ここでは見ることが接触になる」
鴉城が一歩前に出る。黒鍵のカードを取り出し、カプセルの表示板の横にかざす。
表示板の文字が一瞬だけ変わった。暗号化された文字列が剥がれ、別の情報が覗く。
OWNER:UNKNOWN
STATUS:LOCKED
NOTE:RETURN REQUIRED
「戻す必要がある」
シキが呟く。
「誰に」
「……オーナーに」鴉城が答える。「だがオーナーは不明。つまり、都市がオーナーを消した」
「消したって、どうやって」
「分類で消す。記憶から名前を抜く。名前を抜けば、人間はただの在庫になる」
俺は無意識に自分の名前を思い出そうとした。時任ユウ。
時任――その姓が、急に薄く感じた。誰が付けた名前だ。生身の頃の俺は本当にその名前だったのか。
頭の奥で未登録回路がざわめく。
揺れ。感情の揺れ。
ここでは揺れが危険だ。
ネオンが囁いた。
「ユウ、落ち着け。合図を使え。雨音だ」
「雨音……」
「雨音は模倣される。だから匂いを思い出せ。下層の油、錆。具体だ」
俺は錆の匂いを思い出し、意識を繋ぎ止めた。
すると、カプセルの表示板の揺れが少し落ち着く。
いや、落ち着いたのではない。俺の内側の揺れが収まったことで、外側の揺れが見えるようになったのだ。
表示板の隅に、小さな文字が浮かんだ。
通常の表示ではない。都市の公式UIではない。
誰かがこっそり残した落書きみたいな表示。
見るな
聞くな
息をするな
俺は背筋が冷えた。
この言葉は都市の言葉ではない。都市は息をするななんて命令しない。都市は呼吸を管理する。呼吸を止めれば異常になる。
だからこの言葉は――都市の外側の誰かの言葉だ。
鴉城の義眼がわずかに光を増す。
彼も見た。
そして、珍しく低い声で言った。
「……椿が残した」
「椿が?」
シキが驚く。
「椿は窓になる前、ここへ来ている。……そして、窓になってからも、ここへ触れている可能性がある」
「窓なのに?」
「窓だからだ。窓は内側と外側を繋ぐ。繋ぐからこそ、落書きを残せる」
椿の声。穏やかな命令。修正。
それらと、この落書きが同じ人物から出ているなら、椿の中にまだこちら側が残っている可能性がある。
その可能性は甘い罠かもしれない。
でも、完全な敵だと思っていた椿が揺れているなら――都市も完全ではない。都市にも矛盾がある。
鴉城が言った。
「ユウ。君の本体を探す前に、確認しろ」
「何を」
「このカプセルの中身だ。……ここに何があるかで、都市の狙いが分かる」
「鍵を回すなって言った」
俺は反射で言った。
「回さない」鴉城は即答した。「黒鍵で一瞬だけ覗く。分類を剥がして中身を見るだけだ。君の未登録回路には触れない」
「覗くだけで危険だって」
「危険はゼロにできない。……薄くする」
鴉城はカプセルの側面にある小さなポートに黒鍵を挿した。
表示板の光が一瞬だけ消え、次に、別の表示が浮かぶ。
医療用の波形。脳波に似た波形。
そこに、短い名前の断片があった。
REN
「東雲レン」
俺の喉が勝手に言葉を作った。
第1章の死者のログ。事故死扱いの配送。死後も監視網にアクセスしていた男。
ここにいる?
魂の在庫になっている?
シキが目を細める。
「やっぱり。死者のログは、ここへ来る」
「来る?」
「死んだ人間の電脳は、普通は切れる。でも切れない場合がある。都市が必要だと判断した場合。……必要な魂は回収されて在庫になる」
「必要な魂」
俺は呟く。
「都市の目になれる魂」
鴉城が答えた。
「レンは配送。インフラに近い。都市の血管に触れる人間だ。だから回収された」
「俺を誘導するためにも使われた」
「そうだ。死者のログは餌。餌で鍵を誘導する。鍵が動けば、第二の目が育つ」
胸の奥が冷たくなる。
東雲レンは俺を誘導するために殺されたのか。
事故死扱いにされたのか。
そして魂だけが回収され、ここで在庫になっているのか。
ネオンが囁いた。
「ユウ、怒りは揺れになる。揺れはここでは危険だ」
「分かってる」
俺は歯を食いしばった。
怒りが熱になる。熱が鍵を回す。
回せば、椿の声が入ってくる。
だから怒りを冷やす必要がある。
冷やす。
シキが言った言葉。
記憶は熱を持つと暴れる。
ここは冷やす場所。
都市は魂を冷やし、在庫にする。
俺は、カプセルの波形を見つめた。
REN。
波形が微かに揺れている。
まるで眠っているみたいに。
「助けられるのか」
俺は思わず言った。
鴉城が即答する。
「今は無理だ」
「なぜ」
「君の本体が先だ。君が鍵のまま回収されれば、レンも永遠に在庫になる。……順番を間違えるな」
「順番……」
「君は感情で動きやすい。だから鈴が必要だ」
鴉城はそう言って、ネオンの存在を意識するように目を細めた。
ネオンが最小出力で答える。
「私は感情を抑制する。だがユウの感情を消すことはできない。消せばユウがユウでなくなる」
「その通りだ」鴉城が言う。「感情は敵ではない。扱い方が問題だ」
鴉城は黒鍵を抜き、カプセルの表示を元に戻した。
RENの文字が消え、またTYPE-BだのFRAGMENTだの無機質な分類が浮かぶ。
都市が隠した。
「分かった」
俺は言った。
「俺の本体を探す。……そして、レンも忘れない」
シキが俺を見て、小さく頷いた。
「それでいい。忘れないことが抵抗になる。都市は忘れさせるから」
「忘れさせる」
「分類して、整形して、矛盾を消して、名前を抜く。そうやって人間を在庫にする」
鴉城が前へ進む。
カプセルの列の間を、迷わず進む。義眼が微かに光り、薄い線を拾う。黒鍵の番人は迷宮を知っている。
だが、迷宮の奥へ行くほど、空気が冷え、匂いが消える。
匂いが消えるほど、俺は自分が薄くなる気がした。
「ユウ」
ネオンが囁く。
「君の未登録回路の熱が上がっている。鍵穴が近い」
「近いなら、見つかる」
「近いほど危険。椿が扉の外にいると言ったが、都市はここにもいる。……椿は音ではなく揺れで触れてくる」
その瞬間、カプセルの列の奥で、光が一瞬だけ走った。
白い光。上層の無臭の光。
暗闇の中で、明らかに異物の光。
鴉城が足を止める。
「……来た」
鴉城が低く言った。
「分類が動き始めた。都市がこの層の在庫棚を組み替えている」
棚が動く。
魂の在庫棚が、俺たちの前で組み替えられる。
迷宮が変形する。
逃げ道が変わる。
そして、空間のどこかから、穏やかな声が響いた。
扉の外の声ではない。
この暗闇の内側から響く声だ。
「ユウ」
「あなたは、見つけた」
「だから、もう休みなさい」
椿の声が、第3層に入り込んできた。
鴉城が歯を食いしばる。
「……窓が開いた」
「窓?」
「椿が、内側に窓を作った。都市がこの層に手を入れる」
「どうする」
「急ぐ。……鍵を回さずに、鍵穴に辿り着け」
矛盾した命令。
鍵を回さずに鍵穴に辿り着け。
でも、それしか道がない。
俺は下層の雨の匂いを思い出しながら、暗闇を走った。
走るたび、在庫のカプセルが静かに点滅する。
魂の心拍音が、一定のリズムで鳴る。
ピッ。ピッ。ピッ。
その音が、だんだん速くなる気がした。
まるで都市が興奮しているみたいに。
迷宮の奥で、ひとつのカプセルが、他より強く光っていた。
表示板に、分類ではなく、ただ一行だけ文字が浮かぶ。
OWNER:TOKITO YU
俺の名前。
ただし、最後の文字が欠けている。
ユウのウが消えている。
シキが息を呑む。
「……見つけた」
鴉城が低く言う。
「ユウ。ここだ。……君の原本」
椿の声が、すぐ背後で囁いた。
「おかえりなさい」




