コンコルド七月暴動(9)
足の下で、パリの街が燃えている。
初めての飛竜でのフライトは、そう悪いものではなかった。七月とはいえ空は肌寒く、脇腹と肩に穿たれた銃創は、痛みを通り越して、ただただ厭な重たさをもたらしていた。けだるい倦怠感が目の奥から押し寄せてくる。それでいてなお、空を駆ける感覚というのは、ヘレネにとっては快感と呼んで差支えのないものであった。
「アネモネ、無事か」
こちらへスムーズに滑空してきた、ブリタニア空軍騎と思しき飛竜騎兵が、エリーゼ騎の横に並んだ。エリーゼを偽名で呼ぶ声の主は、未だ若々しさを顔つきに残す精悍な男であった。
「そちらが、例の女伯か。撃たれたのか」
「二発。出血もかなり激しいようですわ。どこかで治療を施さなければ」
「どこかとは言ってもな。この辺りの病院は使えないぞ、空いてるベッドなんてありゃしない」
「ち……あのクソ童貞が……余計なことしやがって」
「ブローニュまでもちそうか、あそこの森に、わが軍の臨時の対策本部が用意された」
パリの西に位置するブローニュ森林公園は、飛竜をもってすれば十分もかからず辿り着ける場所だ。エリーゼは男の意志に賛同を示し、飛竜の進路を西へと傾けた。彼女が手綱に込める握力がほんの少し緩んだ、その瞬間。
肉を砕く奇妙な水音、そして弦楽器を無秩序にかき鳴らすような不協和音が響いたかと思うと、エリーゼ騎はゆるやかな曲線を描いて高度を下げ始めた。やがて、急転直下に地表へと吸い込まれていく軌道をとるようになっていく。
「アネモネッ、いま助ける、アネモネッ!」
友軍騎の男が叫ぶも、こればかりは騎兵の手腕でどうこうできる問題ではなかった。
飛竜が、狙撃されたのだ。それも、ピンポイントで眼孔を撃ち貫かれて。不協和音の正体は、頭部を破壊された飛竜の歪な断末魔だったのである。竜の頭蓋の内容物で顔や胸元を赤黒く染めながらも、エリーゼは中空に投げ出されかけたヘレネの手首を固く握った。不快な浮遊感が、怖気をもたらす落下感に代わっていく。
狙撃手は、シャンゼリゼ通り沿いに並びたつビルディングの屋上にいた。ご自慢の大口径ハンティングライフルを廃材でこしらえた即席の銃架に据え、昨日吹き飛ばされた左手指の数本の痛みに耐えながら、彼はずっと空を見つめ続けていたのだ。兄を殺した仇を、自分を罠にかけた憎い女を殺すために。
その純粋な報復の念を糧に、オスカー・ヴァイルブルクはただ一人、スコープ越しにエリーゼを待ち構えていた。ラ・ヴィラ・プリュムでの爆発で生き延びたのは、この復讐を正当なものだと断じた神の配剤によるものだと、オスカーは解釈していた。そしてようやく、彼は標的を発見した。豪奢な金髪の女、ヘレネを同乗させた飛竜騎兵の姿を。その時のオスカーは、限りなく運が良かった。エリーゼによるヘレネ救出が、ヘレネ自身の単独行動とソロヴィヨフによる襲撃によって、多少の綻びが生じていたからだ。ヘレネと合流する際、美貌から悪目立ちする彼女を変装させるといった手もとれたはずである。ヘルメット、もしくは布切れの一つでも被せれば、隠蔽は可能だった。
だが、オスカーは捉えたのだ。捉えてみせたのだ、討つべき兄の敵を、確かにその目で。
引き金は迷いなく引かれた。もしも人違いだったらどうする。もしも撃ち漏らしたらどうする。ブリタニアとの外交問題に発展したらどうする……憎悪からなる純然たる衝動の前では、そんな些末な躊躇は、枷にすらならなかった。
そしてオスカーは、見事にエリーゼの飛竜を撃墜せしめたのだ。
「当たった、当たったぞ。ははは、やったぞ、当ててやった! ざまあみろ、やったぞ! おれはやった、おれがやったんだ! うはははは、どうだ見たか、クソッタレの売女ども!」
文字通り、狂喜乱舞するオスカー。飛行中の飛竜を狩猟用ライフルで撃墜するなどという稀有な神業を実現させたのは、彼に流れる密林の射手たるエルフの血のしからしむるところだったのだろうか。
しかしながら、射撃の名手としての彼のキャリアは、始まりを告げるよりも先に潰えることとなる。背後から差し迫っていた侵入者の気配に、ついぞオスカーは気づけなかったのだ。
仇敵エリーゼ、そして弱みを握られていたヘレネに一矢報いてやったという、そんな勝利の美酒に酔う彼へと与えられたのは、鉛玉だった。後頭部に直撃した弾丸は頭皮と頭蓋骨を貫き、柔らかな脳組織を螺旋状に穿孔し、その内部を余さず破壊していった。鮮血の細かなしぶきを咲かせて、オスカーはうつ伏せに倒れ込んだ。
「リヒャルト……お前……」
「あの世で尻の穴でも掘りあっていろ」
水揚げされたちっぽけな雑魚のように四肢を痙攣させるオスカーを見下ろし、襲撃者リヒャルトは吐き捨てた。どうにも死にきれない様子の次兄を見かねたリヒャルトがもう二発を頭部に叩き込んでやると、オスカーは二度と動かなくなった。
身内の遺体に一瞥をくれてやることもなく、リヒャルトは屋上の欄干へと歩み寄って、真下に広がる惨状に目をやった。依然として、暴動が治まる気配は見当たらない。転倒した馬車の中で、乳飲み子を抱えた裕福そうな夫人が助けを求めているが、周囲の暴徒が手を差し伸べるようなことはない。馬を操る御者が青い肌のフリュギア人だったことが災いしてか、早々に彼はリンチにかけられ、虫の息の状態で馬車の傍に横たわっていた。次なる蹂躙の対象は、いよいよ夫人とその子息ということになるだろう。そこに救いらしい救いは、ない。強いて言うなら、破壊活動に精を出す暴徒たちの方が、どちらかといえば、『救われている』のであろう。
「楽しそうで、うらやましい限りだ」
欄干を掴み、リヒャルトは馬車に火が点けられるのを期待しながら、その光景を眺め続けた。イデアの君、ヘレネが望んだ世界の一端だと思うと、リヒャルトは少しだけ胸が熱くなるのを感じていた。生きるに値しない、人間未満のバカ同士が自ら殺し合ってくれる清浄なる世界。無論、只人が狙ってこの光景を作り出そうとしても、そううまくはいかないであろう、きわめて希少な光景である。
暴動勃発のトリガーを引く瞬間、あの彼女はどんな顔をしていたのだろう。
どれほどまでに壮麗な笑顔を浮かべて、彼女は不殺の弾丸を放ったのだろう。
銃口から放たれたマズルフラッシュは業火へと転じ、人々の寿命の杯を容赦なく焙っている。パリという地獄の窯をぐらぐらと煮沸し、人生に害なす毒素と汚物の一切合切を消毒しているのだ。凄絶なまでの清らかさというものを、リヒャルトは感じずにはいられなかった。
愛しい初恋の女性に想いを馳せながら、リヒャルトは静かにパリの夏空を仰いだ。




