エアフルト会食(2)
レーゲンスブルクの戦いから二ヶ月。モスクワ軍は帝国南東部の要衝パルスベルク城塞を突破し、破竹の勢いで帝国領中部へ進軍していった。城塞を支配していたパルスベルク候はヘレネ達の活躍によって、酒と麻薬に蕩尽する不逞の不良貴族といったレッテルが貼られ、凄惨なるスキャンダルを引っ提げたまま、側近と妻子ともどもモスクワ軍に身柄を拘束された。
レーゲンスブルク制圧の任に当たったパタノフ大隊を筆頭に各隊は進撃。後続の第二軍はミュンヘン方面軍の対処に当たり、第三軍はニュルンベルクを制圧するとともに、西部方面に展開する軍勢力の撃破へ赴いた。本土攻略は順調に推移し、最前線で活躍するマニロフ中隊は、少数精鋭で次なる障壁であるペテルスブルク要塞をも突破。同時に近隣都市エアフルトを瞬く間に制圧し、もはや帝国の敗戦は秒読み段階に入ったといえた。
「再三の講和にも応じる様子はない。ここまで攻め入られておきながら、私には帝国の皇族とやらが何を考えているかわからんよ」
エアフルトのホテルの一室で、マニロフ中佐はソロヴィヨフに向かってそうぼやいた。
「このままベルリンまで北上する可能性もあると?」
「講和条件を陛下が呑んでくれなければ、宮殿を包囲するほかあるまいな」
禿頭の上官はパルスベルク攻略の功績によって昇進、同じくその立役者であるソロヴィヨフもまた、中尉の位を拝命していた。戦死したジルキン中尉の部下をも配下に置く、二個小隊をあずかる指揮官である。ペテルスブルク攻略での活躍も評価され、次なる出世も目前かとも囁かれていた。独断専行でもぎとった偽りの出世ともいえるし、ソロヴィヨフ自身上層部からの制裁を恐れた面もあったが、意外なほど咎められることなく、こんにちまで健康に生きながらえていた。
「皇帝陛下といえど、まだまだ年若く盛んな人間にすぎません。かつての宰相閣下とも折が合わず、戴冠と同時に下野させてしまったほどですので」
マニロフのデスクの横に立つヘレネが言った。裏切者の分際でぬけぬけとよく言えたものだ、舎弟の騎士ともどもそう罵ってやりたいくらいだったが、ソロヴィヨフはぐっと飲み込んだ。
現在の帝国では、皇帝ザイリンゼル三世による親政が敷かれている。開戦直前に宰相クリゾルトが罷免され、放蕩家の若輩君主が国策の、ひいては国家間戦争の舵を握ったのである。
クリゾルトは西方の隣国ガリアの孤立と弱体化を目指し、また諸国家間との長期的な小康状態を維持することで、周辺勢力の拮抗を図る体制を築き上げた。内政では公民権運動や社会主義活動への弾圧を強める反面、平民やゲットーに住まう二等市民に対する労働条件の良化に努めるなど、帝国における内的な状況改善に努めていた。二等市民への【魔物】という呼称を差別用語として、公人によるこの用語の使用を厳しく追及したのは、クリゾルトの意向によるものである。
対してザイリンゼル三世をはじめとする上級貴族はことごとくクリゾルトの政策に反発し、ついにはこれを罷免。八方美人の異名をとり、思想や党派を問わず社交の場で顔を売っていた皇帝であるが、二等市民以下の人間を厭う彼はクリゾルトの親魔物・親拝火思想が何より鼻持ちならなかったのである。政治の場からクリゾルト体制を一掃すると、ザイリンゼル三世はついに親政へと踏み切った。しかし宮殿近くの散歩道でウサギを狩ったことくらいしか経験のない皇帝に戦の才能があるはずもなく、驚天動地の逆転策もないまま、事態の趨勢は定まりつつあるのだった。
「講和を呑まないのはなぜかと思うね」
「ひときわ自尊心が強いお方と存じております。自由主義を何より先進的だと信じる反面、ご自分のお家柄への執着も捨てられない。おおよそ、条件として提示された領土割譲に対して何か文句があるのかと。もしくは、|単に引っ込みがつかなく《サンクコストが惜しく》なってしまったということも、ありうるのではないでしょうか。まあ、端的に言えば、よくいるクズでしょう」
クズの一人の発言に、マニロフは低く唸った。
「それじゃあ困るんだよなあ。戦争と言えども、我々からしたら仕事相手なわけじゃないか。よくいるクズというのは分かるさ、モスクワにだってごまんといる。ただ、損得勘定くらいはできてもらわないと、そちらの陛下に殺された部下の遺族にも顔向けできんよ」
「悲しみに打ちひしがれるご遺族がたが一人でも減りますよう、努力はさせていただきます。こちらの、ソロヴィヨフ中尉と一緒にね」
軽快な足取りでソロヴィヨフの横に並び、ヘレネは彼の肩に手を置いてにんまりと笑った。
割り当てられた自室に戻るなり、ヘレネはジャケットとキュロットを脱ぎ捨て、薄手のブラウス一枚になってベッドに飛び込んだ。部屋に戻ると同時にシニヨンを解かれた黄金の長髪が、白絹のカーテンのようにふわりと美しく舞った。
丁寧にメイクが施されていたのであろうシーツはくしゃくしゃで、カーペットの上には菓子の包み紙と酒の空き瓶があちこちに散乱している。大きな姿見がある部屋がいい、というヘレネの強い要望で誂えられたスイートの一室は、女児が癇癪を起こしたあとの子供部屋めいた惨状を呈していた。
「暴動の警戒だと? いつからあたしたちは憲兵に鞍替えした?」
「おたくのところの憲兵がしっかり仕事さえしてくれれば、俺たちはそんなことにかかずらわずに済むんだがな」
テーブルの上に広げた書類を一瞥して、ソロヴィヨフはため息をついた。腰を据えている椅子もまた軋み一つ漏らさない。スイートルームに相応しい高価な調度品に違いなかった。書類に記されているのは、頻発している帝国内各都市における暴動についての報告書である。
「暇を持て余した下民どもの相手ほど、つまらんものはないな」
シーツの上に放り出していたチョコボンボンを口に放り込んで、ヘレネが億劫そうに言った。室内は常にアルコールくさい。ウイスキーとブランデーとワインの芳香が混然一体となっている。部隊の拠点がエアフルトに移ってからというもの、この女は日がな一日チョコ菓子と酒を口にして過ごしている。作戦確認のために部屋を訪れるたび、酔っ払ったこいつとその部下である騎士が千鳥足でドアから現れるものだから、貴族の放埓に関しての才能は底知れない。
「好きにやらせておくわけにもいかないだろう、治安悪化を見過ごしていたら、モスクワ側の責任問題にもなりかねない。現にブリタニアやガリア、それにブルクゼーレからも、使節の派遣が申し入れられている。戦争やるにもお行儀よくしないと、後が怖い」
「ブルクゼーレ? あんなド田舎からもか。どいつもこいつも暇なんだな」
マニロフとのアポイントがあったからか、今日のヘレネはさほど泥酔していないようだった。
「まあ確かに、格好だけでも取り繕っておくのは悪くないだろうがな。名目上は解放戦争なわけだ、治安維持も仕事のうちか」
傍らの棚に置いてあったグラスを手に取り、ヘレネは一息にワインをあおった。捕虜の分際で、どこからそんな小遣いが出てくるのか疑問である。ベッドの周りにはカラの酒瓶が散乱しているが、封を切っていない瓶もまた無数に並んでいる。
「また麻薬を流したのか」
「ヤクは流すなとは言われたが、それが鎮痛剤とは指定されなかったぞ」
「屁理屈でその景気の良さをごまかせると思うのか?」
「結果として儲かってしまっただけだ。戦時中だし、物価も相応に上がって当然だ。それに、こちらの言い値で買った人間が鎮痛以外の用法で扱ったとして、あたしになんの責任がある? そいつの反社会的な行いを罰するほうが先だろう、あたしはなんにも悪くない」
マニロフ中佐は、この屁理屈阿呆女に制限らしい制限を課していない。ソロヴィヨフもまた、彼女の監視や拘束といった指示は申し付けられていない。亡命者だってもう少し不自由だろうに、それをこの女は悠々自適にホテル住まいを満喫している。自分と同じで、マニロフ中佐も何がしかの弱味を握られているのだろうか。
「それで? どうして中尉殿がそんな案件に忙殺されている?」
「広報経由で名前が知られた。パルスベルクの一件をとことん美化されてな」
「大隊の立ち往生を機転一つで打開した、モスクワ軍きっての英傑だものなぁ。よかったじゃないか、一生安月給のヒラ士官に甘んじる人生から抜け出せたわけだ」
彼女の言い分ももっともである。出世すれば、当然給料も上がる。実家への仕送りの額も増やせるし、軍内での発言力や信頼すらも勝ち取れる。悪いことなどありはしない。これが、目の前の女からもたらされた功績の賜物でさえなければ。
「開戦を機にくすぶってたのが、一気に広がった感じか」
ベッドから降り、テーブルの書類を覗き込んでヘレネは言った。
「こちらのニュルンベルク制圧から波及して、現政権に対する不平不満が爆発したんだろうな。この期に及んで戦いを続けようとする皇帝にも貴族にもウンザリだと」
「そりゃあそうだ。主人を愛する奴隷なんか、二千年は遡らないと出てこんだろうよ、そんなうすら寒い童貞の妄想みてぇな産物」
臆面もなく平民を奴隷と言い切るヘレネは、酒とチョコでべたついた指先で書類をいじくりまわし始めた。ソロヴィヨフの嫌な顔に一瞥もくれず、ヘレネはある一枚に目を留めた。
「これは……」
「ひどいもんだ。昨日だけで三都市のゲットーで暴動があったらしい」
これ以上紙を汚される前に、ソロヴィヨフはヘレネから書類を取り上げた。
「そちらでいう二等市民の存在を快く思わない連中の仕業、だろうな」
昨今では北方の汎スカンディナヴィア共同体を中心として、非猿人種たちの権利回復が叫ばれて久しい。二本足に非ずとも人間には違いない、そう声高に叫ばれる国際社会の気風に逆行するような事件である。
「で、北国の連中は何か言ってきてるのか?」
「案の定大々的に外務省が非難声明を発してきてる。帝国の差別政策への当たりはひときわ強いが、モスクワにも文句があるらしい。感情への配慮に欠けた電撃作戦で得た勝利は勝利と言えるのか。解放軍を謳った殺戮者の行進は終わらない、だとさ」
今朝の新聞の見出しの受け売りを、そのままソロヴィヨフは吐き捨てた。
「そうか。なら、首尾は上々と言っていいな」
「なに?」
「あの六本足どもの神経を逆撫ですること以上に得できること、今んとこないからなぁ」
ヘレネはベッドに座り込んだ。六本足とはすなわち、馬人をはじめとする半人半獣の非猿人種を揶揄する差別用語である。比較的拝火文化に鷹揚なスカンディナヴィアの気風を殊更に腐しながら、ヘレネはチョコをぱくついた。
「もしかしてお前、なんかしたのか」
恐る恐る問いかけると、ヘレネはぺこりと首を縦に振った。
「ノーラ達にお使いを頼んだんだよ。そんだけ」
「そんだけってお前、冗談だろ?」
「嘘なんか言ってどうすんだよ、現に愛国者さんたちが暴れ狂ってくれてるだろうが」
ノーラとは、ヘレネ率いる女騎士のうちの一人である。赤いカチューシャでアイボリーの頭髪をまとめた小柄な少女で、年齢は十四歳。パルスベルクでは二人の友人であるハイダとニーナを伴って将兵に体を売るという力技で、彼らの装備を手に入れていた。利発そうな外見に反して、手段を択ばない少女たちという印象をソロヴィヨフは感じていた。
「あたしなりにモスクワの手伝いができねぇかと思って、ヒマそうな奴見繕って煽ったんだよ。貴族主義を倒そうだとか、民主主義を帝国に、だとかっつってさ。それが思いのほかうまくいきすぎちまって」
「それで、これだけの犠牲を出したってのか?」
「これだけの犠牲でモスクワが有利になるなら、安い買い物だとは思わねぇか?」
書類をソロヴィヨフの手から奪い返し、ヘレネは死者、行方不明者の概算数値を指さした。
「五千人かそこらの魔物どもがゲットーの豚小屋から叩き出されるだけで、モスクワは解放軍としての名目を再び回復させられる。一方の帝国は、暴動鎮圧に放火という手段を用いた非道な貴族主義国家として零落する。さすがのスカンディナヴィアも、条件が揃えばブツクサ言わんだろ。それに一度口を挟んできた以上、逆にダンマリ決め込むこともせんだろうし」
「……事が明るみに出れば、ただじゃ済まないぞ。俺も、お前も」
「明るみにしたいのか? そこまで罪の意識を重く受け止めるほど、中尉殿は敬虔で信心深かったか? んなことねえよなあ、たかが安っぽい万年筆ひとつで、仲間を撃ち殺すような奴がさぁ。しかも、戦場で敵兵の恰好までして。手抜かりがないというかなんというか……いやいやいや、別にそれが悪いなんて言うつもりはこれっぽっちもねえさ。そういうところが中尉のいいトコでもあるわけだしさぁ」
互いを結ぶ見えない鎖が、ソロヴィヨフには見えた気がした。この女はクズだ。手掛ける所業にブレーキが存在しない。自分の得になることであれば、どんな悪徳にも手を染めるだろう。いや、悪徳を悪徳と理解しているかどうかも怪しい。この絵画のように美しい微笑の裏側にあるものに比べれば、自分の感性のなんと月並みなことか。
「あたしだって悪気があってやったわけじゃねぇんだ。五千人が路頭に迷わない途がありゃ、迷わずそっちを選んださ。でも、そう都合よくいかねぇのが世の常ってもんだろ? 帝国を叩き潰して、あたしたちが勝つ。負け組の魔物どもが地獄で浮かばれるには、そうするほかねえ。奴らの死が無駄じゃなかったことを、証明してやらなきゃなんねぇ。違うか? 中尉殿」
愛想笑いを浮かべながら肯定するほか、ソロヴィヨフにはなかった。その隙を見計らって、ヘレネはぽいっとチョコボンボンを彼の半開きになった口目がけて投げ入れた。
「いちいち難しいこと考えてると、あの中佐みてぇにハゲ散らかしちまうぞ。あはは」
もしかすると、マニロフ中佐も同じような状況に立たされているのではないだろうか。確かめる術も、そして度胸も、ソロヴィヨフにはなかった。
歯の神経を焼き溶かすほどの激烈なチョコレートの甘味を噛み締めながら、彼は深くため息をついた。




