まだ着いてくんの?
スーパーで一人、考える人間がいた。
かにえRだ。
目の前の棚に並べられたキャベツの値札には、三百二十八円と書いてある。
九月のトウキヨは、まるで失恋した乙女のようであった。
丸一ヶ月、シトシトと雨が降っていたのだ。
そのせいか、葉物野菜はひとつき前よりもずっと高価になっていた。
野菜の棚に鎮座するキャベツを、高嶺の花のように見つめる人間。
それが、かにえRであった。
しかし、かにえRはキャベツを手に取り、カゴに入れた。
三百二十八円のキャベツだ。
高い。
ついこないだまで、百五十八円だった。
かにえRが焼きそばの麺を手に取った時、なぜ三百二十八円のキャベツをカゴに入れたのかを理解した。
焼きそばが食いたかったのか、と。
焼きそばにはキャベツがいる。
たとえキャベツが三百二十八円だったとしても、焼きそばにはキャベツがいる。
かにえRは、特売のカップ焼きそばに目もくれず、横を通り過ぎた。
カップ焼きそばを食うことはできない。
そういうふうに育ったからだ。
うるさい母親に育てられた。
栄養にうるさく、右手の人差し指と中指の先っぽから紙タバコのにおいがする女だった。
時々、狂ったようにそれらを食うこともある。
酒を飲んだ日なんかは特にだ。
酔っ払っている間は、栄養なんて言葉はこの世から消えてしまう。
レジの前。
背負っていたリュックサックを前に背負い、財布を取り出した。
世間では、小さい財布が流行っているらしい。
かにえRの財布もまた、小さい財布だった。
チャックを開けるたびに札が引っかかる。
小銭も、前の財布よりずっと出しづらい。
小説を書くようになってから、手がずっと痺れているようだ。
「職業病か」
と笑うが、職業というにはまだ何もない。
その笑いが自嘲なのか、確認する術もなかった。
自転車のカゴにキャベツと焼きそばを入れ、ペダルを踏み込む。
九月とは打って変わって、晴れの日が続いていた。
「うるさいんだけど」
かにえRはそう呟き、またペダルを漕ぐ。
少し立ち上がり、前を気怠そうに歩く青年を追い越した。
「やめてって」
押しボタン式信号機のボタンを押す。
信号がすぐに黄色に変わり、赤になった。
押しボタン式信号機のボタンを押し、車側の信号機を赤にすることは当然の権利だ。
しかし、どこか居心地の悪さを感じていた。
歩行者信号のない横断歩道の方がずっといいと思うほど。
「あのさ、地の文やめてくれない?」
「どうして」
地の文の私は、かにえRにそう返した。
わからない。
なぜ、やめろというのか。
「嫌いなんだよ。地の文が」
「なぜ嫌いなのだ」
「なぜって。そもそも誰なんだよ」
誰。
私は地の文であり、地の文だ。
「私は地の文であり、地の文だ」
「へぇ」
かにえRは興味なさそうな顔で、郵便局に自転車を停めた。
ATMに通帳を入れ、金を下ろす。
「給料日なんだよ」
そう呟き、ATMの横の封筒に札を入れる。
壁に貼られたポスターには、お歳暮の文字があった。
「だからやめろって。うるさいんだよ」
自転車に跨ったかにえRが、しっしっと私を手で払う。
「しかし……」
そう呟くが、その先の言葉は見つからなかった。
自分が誰なのかを見失っていた。
いや、最初から。
自転車で走り去るかにえRの背中を、ひたすら追いかけた。
引き裂いた綿のような雲が、薄く青い空に浮かんでいる。
日差しが優しさを忘れたように、私の表面を突き刺した。
かにえRが後ろを振り返る。
「まだ着いてくんの? もうどっかに行ってくれよ」
「しかし……」
その先の言葉は、やはり見つからなかった。




